元寇の真実

元寇について学校などで教えられている知識はかなり歪んだものである事を知ってもらいたいです

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文永の役に関して、著者が明確で同時代性が高く情報量も多い史料が存在することを知りましたので、報告したいと思います。

『金綱集』 第十二 雑録 異賊襲我国事

九十代、今上御宇(亀山天皇)、筑前国大博多箱崎
来事、
文永五年正月一日、新左衛門尉経資
請取大田次郎左衛門 自蒙古国状、筑前国
大宰府、彼状豊前新左衛門尉経資請取、大田
次郎左衛門長盛并伊勢法橋二人ヲ以被進六波
羅彼使者ヲ以被進関東、自鎌倉佐々木(「前」脱カ)対馬守
氏信・伊勢入道(二階堂行綱)行願二人以被進公家、於仙洞
菅宰相長成卿被召被読条状也、
同十一年十月五日、蒙古人乗数百艘之
船対馬来、同六日辰剋守護代宗馬(メノ)
允資国等防キ戦之、(「蒙」脱カ)古雖打取資国子
息等悉討死畢、同十四日蒙古人壱岐
押寄守護代平内左衛門尉影高(景隆)
等構城郭雖合戦、蒙古人乱入之間影高
等自害畢、同十九日、蒙古人筑前国
博多・箱・今津・佐原賊来、同廿日辰尅
少郷入道覚恵(武藤資能)・子息三郎左衛門尉
(景)資・大友出羽守頼泰并以読(ママ)
郎左衛門尉重秀・難波次郎(在助)・菊池
次郎(康成)、九国御家人等馳集令合戦之
間、両方死輩不知其数、及酉尅九国
軍兵引退処入夜三百余騎ノ軍兵出
来、白〔弓偏ニ牟〕(鉾カ)梅○〔弓偏ニ牟〕ニアリ、仍蒙古人同廿一日
卯尅悉退散畢、船一艘被打上鹿島
乗人百三○(十)余人也、或切頸、或生取、破損
之船百余艘在々処々被打寄生
取四人、一杜肺子・二白徳義・三嬾始此
四劉保兒也、同廿一日、住吉第三神殿ヨリ
鏑聲シテ西ヲ指シテ行、
有人夢見、北野天神御歌
       神風仁蒙古賀和散波多々
底之花久津登成曾宇礼志幾
自他国
国王十一代之間○我朝ニ賊来事十八度
此中蒙古人十度也、建治元年九月六日
酉尅前後生取九人被切也、
文応元年庚申聖人(日蓮)立正安国論
進覧西明寺(北条時頼)殿、 

坂井法曄「日蓮の対外認識を伝える新出資料 −安房妙本寺本「日本図」とその周辺―」 金沢文庫研究 (311) 2003年10月
 
著者は日蓮の弟子の日向(12531314)。
坂井法曄氏はこの史料の成立を1278年頃と推測しています。
 
この史料によって、文永の役の際のモンゴル軍の撤退状況にかんする認識は、大きな変更を余儀なくされるでしょう。
まず、従来は日本側に気付かれることなく撤退に成功したと考えられていたモンゴル軍の撤退時刻が、「廿一日卯尅」と明記されていることです。
『八幡大菩薩愚童訓』筑紫本「然ニ夜明ケレハ二十一日之朝、海ノ面ヲ見ルニ、蒙古ノ舟共皆馳テ帰ケリ」という記述は、「夜が明けた二十一日の朝に海面を見たら、蒙古の船が皆撤退した後だった」ではなく、「夜が明けた二十一日の朝に海面を見たら、蒙古の船が皆撤退して行った」と解釈するべきだったのです。
 
また、「破損之船百余艘在々処々被打寄」という記述も重要です。
これまでもモンゴル艦隊の遭難を伝える史料はいくつか知られていたものの、それが何時何処で如何なる状況のもとで起こったのかについては、明確な結論がでていなかったのです。
モンゴル側史料である『高麗史』は遭難の状況について以下のように記しています。

『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶

及暮乃解、方慶謂忽敦茶丘曰、『兵法千里縣軍、其鋒不可當、我師雖少、已入敵境、人自爲戰、即孟明焚船淮陰背水也、請復戰』、忽敦曰、『兵法小敵之堅、大敵之擒、策疲乏之兵、敵日滋之衆、非完計也、不若回軍』復亨中流矢、先登舟、遂引兵還、會夜大風雨、戰艦觸岩多敗、侁堕水死、到合浦、
 
「會夜大風雨」の「會」とは、前後の事情がうまく合致した意であり、「たまたま」と読み「おりしも」「ちょうどそのとき」と訳す言葉ですから、本来ならモンゴル艦隊の遭難は軍議によって撤退を決めたその夜でなければならないはずでした。
『金綱集』によって、これまで曖昧にされていたモンゴル艦隊の遭難が、1020日の夜、博多湾内の出来事であったと特定されたことになります。
残念ながら前回このブログに書いた説は、『金綱集』の出現によって成立しなくなりました。
 
実は、文永の役においてモンゴル軍の船100余艘が遭難したという記録は、『金綱集』だけではありません。
荒川秀俊氏による神風論争では何故か無視されていたのですが、『皇年代略記』にも「文永十一年十五蒙古賊船着岸。卅大宰府言上賊船百余艘漂倒。」という記事があるのです。
1021日のモンゴル船100余艘漂着の報告が1030日に京都へ届いたというのであれば、文永の役当時に大宰府から京都まで飛脚の必要とする日数が910日とされている点とも一致します。
これまでの定説では、モンゴル軍博多撤退の報が京都へ届いたのは『勘仲記』『帝王編年記』の記述から116日とされていたのですが、実際にはそれよりも早い1030日だったのです。
 
では、116日に京都へもたらされた報告は、一体如何なるものだったのでしょうか。
『勘仲記』『帝王編年記』には、以下のように記されています。
 
『勘仲記』

十一月六日、戊寅、或人曰、去比凶賊船數萬艘浮海上、而俄逆風吹來吹帰本國、少々船又馳上陸上、仍大鞆式部大夫頼泰、郎從等凶賊五十餘人令虜掠之、皆搦置彼輩等召具之可令参洛云々逆風事神明之御加被歟無止事、可貴其憑不少者也、

 『帝王編年記』

十月十七日。自九国早馬到来于六波羅。是去三日蒙古賊人於対馬嶋合戦云々。十八日。依蒙古事於院有議定。廿八日。筑紫飛脚到来。壱岐嶋被打取云々。十一月三日。於院御所陰陽頭在清朝臣已下蒙古間事有御占。六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々。
 
これまでの文永の役に対する考察の中で見落とされていたのは、モンゴル艦隊の博多湾撤退だけで戦闘が終わるわけではないという点です。
博多湾を出たモンゴル艦隊が他の沿岸地域を襲撃する可能性や、壱岐・対馬を占領し続ける可能性が残されているからです。
実際、刀伊の入寇や弘安の役においては、敵軍の博多湾撤退後も戦闘が継続しています。
しかしながら、『勘仲記』によれば116日時点で、京都においてモンゴル軍は本国へ去ったと認識されているのです。
これは日本側が博多湾撤退後のモンゴル軍の動向を把握していたことを意味します。
『帝王編年記』にしても、対馬や壱岐が打ち取られたと報告している以上、そのままの状態では皆追い返したと言えないでしょう。
『朝師御書見聞』には1024日の日付で、対馬・壱岐など九州近海の各地からモンゴル軍の漂着船について、報告を受けていた記録も残されています。
 
『朝師御書見聞』 安国論私抄 第一 蒙古詞事

又或記云十月二十四日聞フル定、蒙古船ヤブレテ浦浦打挙数、對嶋一艘、壹岐百三十艘、ヲロ嶋二艘、鹿嶋二艘、ムナカタ二艘、カラチシマ三艘、アク郡七艘又壹岐三艘、已上百二十四艘、是目見ユル分齊也、
 
116日以降、モンゴル軍の動向が大宰府から京都へ報告されたとする史料はありません。
116日の飛脚は、日本領内からモンゴル軍を完全に駆逐したことを告げる大宰府からの最終報告なのです。

この記事に

長い間ブログ更新を怠り、大変申し訳ありませんでした。
その間に私自身の知識も深まったことにより、ブログ開始当初とは認識に変化した部分もあります。
現時点で諸史料から考えられる文永の役の経過を、まとめておきたいと思います。
 
現在の元寇研究であまり活用されていない史料に『朝師御書見聞 安国論私抄』があります。
これは室町時代の僧である日朝によって執筆された『立正安国論』の注釈書で、第一巻には文永の役関連の文献の引用と日朝による解説が収められています。
言わば、元寇の約200年後に編纂された文永の役の史料集であり、その中にはよく知られた『八幡愚童訓』などと共に、他では見ることのできない貴重な記事が多数含まれているのです。
 
『朝師御書見聞 安国論私抄』 第一 文永十一年蒙古責日本之地事
 
或記云蒙古イケドリ白状云、蒙古年號至元十一年三月十三日蒙古國ヲ出高麗國カラカヤコシラヘテ、船ソロヘヲシ勢集テ、同九月二日ニカラカヤノ津出シニ、ノキタノ奥ニテ船一艘ニヘ入ル、蒙古物三人生残了、又四日船一艘焼亡出來、十月六日對嶋ニヨセ來レリ、同十四日壹岐嶋寄タリ、同二十日モモミチハラニオルルナリ、又船数ハ一ムレニ百六十艘、總ジテ已上ハ二百四十艘也、船一艘別兵三百人水主七十人馬五疋ハシラカス、カナツル四ツツナリ、

1020日に百道原へ上陸した元軍が、文永の役直前に元本国から高麗へ派遣された部隊であったということは、『蒙古襲来絵詞』に描かれている元兵が精鋭の蒙漢軍であったということを意味します。
これまでの定説は、然したる根拠も無いまま百道原へ上陸した部隊を、金方慶に率いられた高麗軍と説明していたのです。

又、『朝師御書見聞 安国論私抄』には以下のような記事もあります。

『朝師御書見聞 安国論私抄』 第一 蒙古詞事
 
又或記云十一歟月二十四日聞フル定、蒙古船ヤブレテ浦浦打挙、数、對嶋一艘、壹岐百三十艘、ヲロ嶋二艘、鹿嶋二艘、ムナカタ二艘、カラチシマ三艘、アク郡七艘又壹岐三艘、已上百二十四艘、是見ユル分齊也、又十一月九日ユキセト云死タル蒙古人百五十人、又總生捕二十七人、頭取事三十九、其他数シラズ、又日本人死事百九十五人、下郎数ヲ不知有事云云
 
文永の役において、暴風雨に遭遇した元船が九州一帯の海岸に多数漂着したというのは、『勘仲記』十一月六日条(1)『國分寺文書』(2)の記述と一致します。
元艦隊の暴風雨遭遇の場所については諸説あったのですが、漂着船の数が壱岐のみ突出して多く、壱岐沖こそが元艦隊の暴風雨遭遇の場所だと考えられます。
そして、元艦隊が壱岐沖で暴風雨に遇ったということは、敵側史料である『高麗史』世家・忠烈王(3)の記述と一致するのです。
 
「一岐島に至り、千余級を激殺し、道を分ちて以て進む。倭は却走し、伏屍は麻の如く、暮に及びて乃ち解く。 会々、夜、大いに風ふき雨ふる。戦艦、厳崖に触れて多くは敗る。金侁、溺死す。」
 
『高麗史』では列伝十七 金方慶伝(4)に最も詳細な文永の役の記述があり、そこには博多湾から上陸した後の戦闘も記されているとされてきました。
金方慶伝の記述を、「蒙漢軍を共に博多湾から上陸した高麗軍は、夕暮れまで日本軍と戦った後に軍議で撤退を決定し、その夜に暴風雨に遇った」と解釈してきたのです。
 
しかし、『高麗史』は年表(5)でも「壱岐に至りて戦い敗れ、軍の還らざる者万三千五百余人」としており、金方慶伝に博多上陸後の記述があるとした場合、世家年表の内容と矛盾することになってしまいます。
金方慶伝も「軍議で撤退を決定し、その夜に暴風雨に遇った」としている以上、元軍の暴風雨遭遇が壱岐沖ならば、「夕暮れまで日本軍と戦った後に軍議で撤退を決定した」場所も、壱岐だと考えるしか無いのです。
恐らく元軍は兵の疲労を考慮し、壱岐攻略は高麗軍を中心とする半島の兵だけで行い、九州侵攻に温存した精鋭の蒙漢軍を投入したのではないかと考えられます。
 
10月20日に蒙漢軍が百道原へ上陸した後の戦闘経過については、佐藤鉄太郎氏による素晴らしい研究(6)があります。
『蒙古襲来絵詞』を筆頭に『大友頼奏覆勘状写』(7)『福田兼重申状写』(8)『日田記』(9)など当時の武士による記録が残っていますが、いずれも戦場を赤坂以西の鳥飼潟や百道原としたもので、あきらかに日本軍が優勢に戦っているのです。

イメージ 1

 
これまでの元寇研究は『八幡愚童訓』という縁起物語を根本史料としていたため、文永の役で鎌倉武士は元軍に圧倒され、博多も占領されて焼失したとしてきました。(10)
そして、日本軍の優勢を示す諸史料との辻褄を合わせるために、百道原へ上陸した部隊を高麗軍とし、全く史料的裏付けの無い「博多正面から上陸した元軍本隊」なるものを創造した挙句、この架空の部隊によって博多が焼き払われたことにするという本末転倒な説明がなされてきたのです。
しかしながら、中世の史書、同時代人の日記や手紙、承天寺・聖福寺・櫛田神社といった神社仏閣の記録など関連史料をいくら調べても、文永の役において博多が焼き払われたなどという記述は存在しません。
『八幡愚童訓』の記述は、全くの出鱈目でした。
元寇研究においても他の歴史事項と同様の史料批判が行われていれば、『八幡愚童訓』のような縁起物語が根本史料として採用されるはずは無かったのです。
 
実際には、文永の役における九州の戦闘は、日本軍の苦戦ではありませんでした。
叡尊の『金剛仏子叡尊感身学正記』11「(蒙古人は)即退散した」とし、『帝王編年記』12「合戦で賊船一艘を取り留め、その外は皆追い返した」という報告を受けたとしています。
上陸した元軍は、迎え撃った日本軍によって速やかに撃退されたのです。
 
九州から壱岐へと逃げ帰った元軍総司令官の忽敦は、高麗軍を率いる金方慶と協議の末、日本からの撤退を決断しました。
忽敦が撤退を急いだ背景には、『高麗史』に記されているように、壱岐においても夕暮れまで日本軍の激しい追撃を受けていたという事情がありました。
『歴代皇紀』131020日に大宰府の兵船300余艘が出航して元艦隊を追ったとし、『菊池系圖』14やその別本15は赤星有隆が壱岐対馬での元軍追撃戦において武功をあげたとしています。
他にも『松浦党大系圖』16が、蒙古合戦に参戦した山代諧の討死した場所を対馬としています。
105日の元軍襲来時に肥前の御家人である山代諧が対馬に居たはずがありませんから、山代諧は元軍に対する追撃戦で戦死したと考えるしかありません。
佐志房が3人の息子とともに戦死し(17)、日蓮が「松浦党は数百人打れ」と言及するなど(18)、従来から文永の役において松浦党に多くの犠牲者が」でたことは知られていましたが、その経緯については不明な点が多くありました。
松浦党は元軍の対する壱岐対馬の追撃戦で、多くの犠牲者を出したのです。
 
日本軍の追撃から逃れるため危険を賭して夜間に壱岐を発った元の艦隊は、沖合で悪天候に見舞われて多くの損害を受けました。
『元史』日本伝(19)は、四境(国境)である対馬壱岐を「唯虜略して帰った」とし、惨敗に終わった九州での戦闘に言及することを避けています。
『鎌倉年代記裏書』(20)は、元の難破船が浦々に打ち上げられた10月24日を「異賊敗北」の日としています。
 
1)『勘仲記』「十一月六日、戊寅、或人曰、去比凶賊船數萬艘浮海上、而俄逆風吹來吹帰本國、少々船又馳上陸上、仍大鞆式部大夫頼泰、郎從等凶賊五十餘人令虜掠之、皆搦置彼輩等召具之可令参洛云々逆風事神明之御加被歟無止事、可貴其憑不少者也、」
2)『國分寺文書 薩藩奮記』「就中蒙古凶賊等來著于鎮西、雖令致合戦、神風荒吹異賊失命、乗船或沈海底、或寄江浦、是則非霊神之征伐、観音之加護哉、」
3)『高麗史』 巻二十八 世家二十八 中烈王一「與元都元帥忽敦右副元帥洪茶丘左副元帥劉復亨、以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戰艦九百餘艘、征日本、至一岐島、撃殺千餘級、分道以進、倭却走、及暮乃解、會夜大風雨、戰艦觸岩崖多敗、金侁溺死、」
4)『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶「入對馬島、撃殺甚衆、至一岐島、倭兵陳於岸上、之亮及方慶婿趙卞逐之、倭請降、後來戰、茶丘與之亮卞、撃殺千餘級、捨舟三郎浦、分道而進、所殺過當、倭兵突至衝中軍、長劍交左右、方慶如植不少却、拔一嗃矢、�莞聲大喝、倭辟易而走、之亮忻卞李唐公金天祿申奕等力戰、倭兵大敗、伏屍如麻、忽敦曰、蒙人雖習戰、何以加此、諸軍與戰、及暮乃解、方慶謂忽敦茶丘曰、『兵法千里縣軍、其鋒不可當、我師雖少、已入敵境、人自爲戰、即孟明焚船淮陰背水也、請復戰』、忽敦曰、『兵法小敵之堅、大敵之擒、策疲乏之兵、敵日滋之衆、非完計也、不若回軍』復亨中流矢、先登舟、遂引兵還、會夜大風雨、戰艦觸岩多敗、侁堕水死、到合浦、」
5)『高麗史』巻八十七、表二 年表二「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等与征日本、至壱岐戦敗、軍不還者萬三千五百餘人。」
6)佐藤鉄太郎「『蒙古襲来絵詞』に見る日本武士団の戦法 (特集 元寇)」、『軍事史学』第38巻第4号、錦正社、20033
7)『大友頼泰覆勘状写 都甲文書』「蒙古人合戦事、於筑前国鳥飼濱陣、令致忠節給候之次第、已注進関東候畢、仍執達如如、文永十一年十二月七日 頼泰 都甲左衛門五郎殿」
8)『福田兼重申状 福田文書』「右、去年十月廿日異賊等龍(襲カ)衣渡于寄(ママ)来畢(早カ)良郡之間、各可相向当所蒙仰之間、令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山(凶カ)徒等令懸落百路(道)原、馳入大勢之中、令射戦之時、兼重鎧胸板・草摺等ニ(ママ)被射立箭三筋畢、凡雖為大勢之中、希有仁令存命、不分取許也、」
9)『日田記』「文永十一年十月二十日蒙古ノ賊襲来ス 日田弥次郎永基 筑前国早良郡二軍ヲ出シ姪ノ浜百路原両処二於テ一日二度ノ合戦二討勝テ異賊ヲ斬ル事夥シ」
10)『八幡愚童訓』「博多ヲ逃シ落人ハ、一夜ヲ過テ帰リシニ、本宅更替果」
11)『金剛仏子叡尊感身学正記』「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多、即退散畢、」
12)『帝王編年記』「六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々。」
13)『歴代皇紀』「文永十一年十月五日、蒙古賊船着岸對馬壹岐攻二島土民、廿日、大宰府以三百餘艘之兵船發向、賊船二百餘艘漂倒、神威力云々、」
14)『菊池系圖』「有隆赤星三郎 文永十一年十月廿日於壱岐對馬筑前所々有軍功蒙古大将討取、」
15)『菊池系圖』別本「有隆赤星三郎 人皇八十九代亀山院御宇文永十一年甲戌十月廿日於筑前國鎌形討伐蒙古襲来之敵、追到對馬國、戮蒙古之將、」
16)『松浦党大系圖』「山代 廣生諧字彌三郎。文永十一年。蒙古合戦討死。干對馬。」
17)『弘安二年十月八日関東下知状 有浦文書』
18)『日蓮書状』「松浦党は数百人打れ、或は生取にせられしかは、寄たりける浦々の百姓とも、壱岐・対馬の如し、」
19)『元史』卷二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「冬十月、入其國、敗之。而官軍不整、又矢盡、惟虜掠四境而歸。」
20)『鎌倉年代記裏書』「十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北、」

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1259年2月9日

戦後の歴史研究者たちは、鎌倉幕府が大陸情勢に無知で、1268年にクビライからの国書が届くまでモンゴルの存在を知らなかったと説明しています。
そして、モンゴルの脅威を理解しないまま、準備不足の状態で、1274年の文永の役を迎えたと非難しているのです。
これは本当でしょうか?
実は、嘘で塗り固めた戦後の元寇研究が触れようとしない、こんな資料が存在するのです。

〔新御式目〕 
 條々
一、可被祟敬佛神事、
  九州為宗神社、破壞以下所遂檢見、且可令注進、損色之由所被仰使者也、但於遠所者、使者
  檢見為難渋者、可計沙汰、
一、次香椎社造営事、
  筑前國怡等庄為料所、可造営之由被宣下、年記之處々、不終其功云々、云未作分限云當社之
  所土可為注進、○中略
一、城郭事、
  次岩門并宰府構城郭之條、為九州官軍可得其構云々、早為領主所之沙汰可致其構云々、
一、寄役所致自由合戦、
  縦雖抜群之忠、不可被行其賞、所詮随大将命、可令進退由厳密可被相触九州守護並御家人
  以下輩也、
一、兵糧米事、
  先々可無其虚歟、殊加談義可令注進、
一、警固詰番事、
  為諸人煩労基之由、有其聞、仍同前、
一、兵船事、
  海上合戦、更不可有其利歟、同前、
一、大隈日向両国役所、今津役濱事、
  先度雖除之、為要海云々、如元警固 ○中略
   正嘉三年二月九日
                              武蔵守 判
                              相模守 判
                                   (福岡県史資料)

これは、正嘉3年(1259年)2月9日に鎌倉幕府が、後の文永の役の戦場である博多湾沿岸地域の防衛強化を命じた資料です。
海上合戦の是非や今津沖の警固に言及した内容から、鎌倉幕府が警戒しているのは海外からの侵攻であることが分かります。
また、城郭修築や兵糧米について言及していることを考えれば、想定されているのが大規模な侵攻であることもあきらかです。
一体何故、鎌倉幕府はこの時期に海外からの大規模な侵攻を、警戒する必要があったのでしょうか?
その理由を知るためには、当時の大陸情勢に目を向ける必要があります。

1257年春、モンゴル帝国の大ハーンであるモンケは南宋侵攻を宣言。
1258年には、朝鮮半島で長年のモンゴル軍の侵略によって求心力を失った崔氏政権が崩壊し、北ベトナムでも陳朝がモンゴル帝国への入貢を余儀なくされています。
この年の7月、モンケは南宋征服のため自ら大軍を率いて六盤山を出発し、10月に四川へと侵攻。
加えて、11月にモンケの弟のクビライも開平府から鄂州へ向って南下を開始し、翌1259年正月には名将ウリャンカダイが雲南からベトナムを経由して江西に攻め込んでいます。

1259年2月9日は、大ハーンのモンケのもと、モンゴル軍が東アジア全域で大規模な侵攻作戦を行なっている真っ最中でした。
つまり、鎌倉幕府は大陸におけるモンゴルの脅威が頂点に達したその瞬間に、博多湾沿岸地域の防衛強化を命じていたのです。
鎌倉幕府が大陸情勢に無知だったという戦後の歴史研究者たちの説明は嘘でした。
真実の鎌倉幕府は、大陸におけるモンゴルの南宋や高麗に対する侵略を対岸の火事と捉えることなく、文永の役の15年も前からモンゴルの日本侵略に備えていたのです。

更にその内容も的確で、軍事のプロフェッショナルである武家政権の面目躍如といった感があります。
例えば、「自由に合戦して例え抜群の手柄を立てても、それに恩賞を与えることはない。大将の指示に従い、進退は命令通りしなければならない」と、九州の守護や御家人に集団戦法徹底を命じている点は、とても重要です。
文永の役の際に、鎌倉武士が一騎打ち戦法で戦っていたなどという通説も嘘でした。
また、岩門大宰府の城郭修築を命じている点も注目に値します。
大陸で縦横無尽に暴れまわるモンゴル軍に対し、強い警戒感を抱く鎌倉幕府が、大宰府などの強固な城郭に拠って迎え撃とうと考えたのは当然でした。

こうして準備万端の状態で迎えた文永の役は、日本軍の完勝に終わりました。
博多湾から上陸したモンゴル軍は、鎌倉幕府が防衛ラインに設定していた大宰府に到達することすらできないまま、たった1日の戦闘で撃退されたのです。
鎌倉武士の集団戦法の前には、モンゴル軍も敵ではありませんでした。

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元寇史料

日本・元・高麗の史書に書かれた文永の役。

『十月五日、蒙古が寄せ来て、対馬嶋に着く。同二十四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、大宰府に於いて合戦し、異賊敗北』
(『鎌倉年代記裏書』)

『冬十月、その国(日本)に入りこれを敗らんとするも、官軍整わず、また矢尽き、ただ四境を虜掠して帰る』
(『元史日本伝』)

『十月、金方慶、元の元帥の忽敦・洪茶丘等と与に、日本を征す。壱岐に至りて戦い敗れ、軍の還らざる者万三千五百余人』
(『高麗史表』)

弘安の役における元軍の壊滅。

『八月一日、風舟を破る。五日、文虎等の諸将、各々自ら堅好の船を択びてこれに乗り、士卒十余万を山下に棄つ。衆議して張百戸なる者を推して主師となし、これを号して張総管といい、その約束を聴く。方に木を伐りて舟を作り還らんと欲す。七日、日本人来り戦い、尽く死し、余のニ、三万は、そのために虜去せらる。九日、八角島(博多)に至り、尽く蒙古・高麗・漢人を殺し、新附軍は唐人たりといい、殺さずしてこれを奴とす。・・・十万の衆、還るを得たる者三人のみ』
(『元史日本伝』)

『閏七月朔、賊船ことことく、漂蕩して海に沈みぬ、・・・鷹島に打上られたる異賊、数千人、船なくて疲れ居たりしか、破船ともを、つくろひて、蒙古人、高麗人、七八艘うちのりて、逃んとするを、鎮西の軍兵とも、少弐三郎左衛門景資を大将として、数百艘おしよせたりしかは、異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、なしにけるとそ、又、かの長門の浦に吹入られたる、大将のふねともは、閏七月五日、関東より、はしめて、甲田五郎、安藤二郎着して、其手の者、新左近十郎、今井彦次郎等を一手とし、九國の兵、より集りて、いく手になりて、おしよせ、皆うちとる、但し、ことことくに、殺し尽しても、こたひの神の威徳を、しらて止へけれはとて、只三人を、たすけて、汝が王に事の趣を、いつはらす、いひきけよと、いひつけて、小舟にのせて、おひ返す』
(『八幡ノ蒙古記』)

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『蒙古襲来絵詞』に描かれた鎌倉武士たちは誰一人として元軍に一騎討ちを挑んだりはしませんが、通説では「やあやあ我こそは・・・」と名乗りを上げて一騎討ちを挑んだことになっています。
それは、『蒙古襲来絵詞』と並んで元寇の戦闘経過を記した基本資料の一つである『八幡愚童訓』に、鎌倉武士たちが「元軍に名乗りを上げて一人ずつ戦った」と解釈できる文章があるからです。
『八幡愚童訓』には多くの異本があるのですが、よく歴史書などで引用されているのは岩波書店の日本思想大系20『寺社縁起』に収められているもので、これは鎌倉末期の写本と考えられている『菊大路本』を底本としています。

『日本ノ戦ノ如ク、相互二名乗リ合テ、高名不覚ハ一人宛ノ勝負ト思フ処、此合戦ハ大勢一度ニ寄合テ、足手ノ働ク処ニ我モ我モト取リ付テ押殺シ、虜リケリ。是故懸ケ入ル程ノ日本人漏レル者コソ無リケリ』
(『八幡愚童訓』)

この『日本ノ戦ノ如ク、相互二名乗リ合テ、高名不覚ハ一人宛ノ勝負ト思フ処』という文章を唯一の根拠として、鎌倉武士が一騎討ち戦法で元軍と戦ったことになっているのです。

『八幡愚童訓』の異本の一つに、江戸後期の国学者・歌人の橘守部に所蔵されていた『八幡ノ蒙古記』があります。
橘守部によれば、これは元寇の一部始終を目のあたりにした箱崎八幡宮の社官留守図書允定秀によって正応2年(1289年)に書かれたもので、『八幡愚童訓』の原本とのことです。
三弥井書店から出版されている小野尚志・著『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』の中に翻刻されたものが収められています。
例の『八幡愚童訓』で一騎討ち戦法の根拠とされている文章は、『八幡ノ蒙古記』では『日本の軍の如く、相互に名のりあひ、高名せすんは、一命かきり勝負とおもふ処に』となっています。
「日本ノ戦ノ如ク」ではなく「日本の軍の如く」、「高名不覚ハ一人宛ノ勝負」ではなく「高名せすんは、一命かきり勝負」なのです。
これは一騎討ち戦法を意味する文章ではありません。
何故なら『蒙古襲来絵詞』の中で、日本の軍は相互に名乗り合っているからです。

『葦毛なる馬に紫逆沢瀉の鎧に紅の母衣懸けたる武者、其の勢百余騎計りと見へて、凶徒の陣をてやぶり、賊徒追ひ落として、首二、太刀と薙刀の先に貫きて、左右に持たせてま□□□と由々しく見へしに、「誰にて渡らせ給候ぞ。涼しくこそ見え候へ」と申に、「肥後国菊池次郎武房と申す者に候。斯く仰せられ候は誰ぞ」と問ふ。「同じき内、竹崎五郎兵衛季長駆け候。御覧候へ」と申て馳せ向かふ。』
(『蒙古襲来絵詞』)

このように戦場で味方同士の武士たちが名乗り合うのは、自分の名前を覚えてもらうことによって、後の恩賞請求の際に証人となってもらうためです。
鎌倉武士たちは、「元軍に名乗りを上げて一人ずつ戦った」のではなく、「日本軍同士で名乗りあって証人となり、高名のために一命を賭して戦った」のです。
恐らく、『八幡ノ蒙古記』を資料として『八幡愚童訓』が作成された際に、文章の意味が変わってしまったものと思われます。

実際には、文永の役で鎌倉武士たちは、一騎討ち戦法ではなく、集団戦法を用いて元軍と戦っていました。
『八幡ノ蒙古記』には、姪の浜に上陸した元軍が、赤坂で菊池次郎武房の集団戦法によって撃破されるようすが記されています。

『ここに菊池次郎、おもひ切て、百騎はかりを二手に分け、おしよせて、さんさんに、かけちらし、上になり下になり、勝負をけつし、家のこ、らうとう等、多くうたれにけり、いかしたりけん、菊池はかりは、うちもらされて、死人の中より、かけいて、頸とも数多とりつけ、御方の陣に入しこそ、いさましけれ』
(『八幡ノ蒙古記』)

赤坂に向う途中の竹崎季長が、元兵の首級を獲得して涼しげな菊池武房以下100余騎と名乗りを交わしたのは、この戦闘の後の出来事です。
一方、散々に駆け散らされた元軍は、菊池武房と別れた竹崎季長が鳥飼に到着した時には、まだ敗走の最中でした。

『武房に、凶徒赤坂の陣を駆け落とされて、二手になりて大勢は麁原に向きて退く。小勢は別府の塚原へ退く。』
(『蒙古襲来絵詞』)

竹崎季長は『弓箭の道、先を以て賞とす。唯駆けよ』とわずか主従5騎で追撃を決行しますが、旗指の馬が射殺され、季長以下3騎も痛手を負って危機に陥ります。
しかし、後方から白石通泰が大勢で駆けつけると、またしても元軍はあっさりと蹴散らされてしまいます。
ここでも、竹崎季長と白石通泰は相互に名乗りあい、恩賞請求の際に証人となる約束をしました。

『季長以下三騎痛手負ひ、馬射られて跳ねしところに、肥後国の御家人白石六郎通泰後陣より大勢にて駆けしに、蒙古の軍引き退きて麁原に上がる。馬も射られずして、夷狄の中に駆け入り、通泰通かざりせば、死ぬべかりし身なり。思いの外に存命して、互ひに証人に立つ。筑後国の御家人光友又二郎、首の骨射通さる。同じく証人に立つ。』
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/7f/00/sa341gazelle/folder/526905/img_526905_6727469_1?20060603054125.gif

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/7f/00/sa341gazelle/folder/526905/img_526905_2953448_2?20060420214602
(『蒙古襲来絵詞』)

文永の役の3年前に元と高麗が三別抄と戦った時には、兵員の定数を満たすために、文武の無任所官や奴婢僧侶までも動員する必要がありました。
元軍はこうして掻き集めた訓練度の低い兵士たちを、太鼓や銅鑼によって無理やり前進させたり後退させたりしながら、「高名せすんは一命限り勝負」という覚悟の鎌倉武士たちと戦わなければなりませんでした。
そのため元軍は、菊池武房や白石通泰といった100騎余りの武士団が駆使する集団戦法には、まったく歯が立たなかったのです。

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