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神のもとめたまふ祭物(そなへもの)はくだけたる霊魂(たましひ)なり

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カントの哲学は、批判哲学といわれます。その主著である、『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三部作の題名からもそう呼ばれることが多いのです。カントは、これらの中で、科学的認識、道徳、美学についての考察を展開しています。そこにおいて、一貫して念頭にあったのは、人間の認識能力、つまり理性の能力のおよび範囲、そして限界です。


普通、私たちが外界の事物を認識する場合には、五感すなわち、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚といった感覚器官を通して行います。(佛教で言うと、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識) また、対象が存在しないならば、それを認識するはたらきもありえません。

これが直観であって、人間の感性のはたらきです。さまざまな対象を認識していくことにより、知識が経験として詰まれていくことになります。

さて、直観されたものはそのままではなく、整理、統合されていきます。その枠組みをカテゴリーと呼びます。このはたらきが悟性と呼ばれるものです。 つまり、悟性とは、感性が受容した対象をカテゴリーによって再構成する能力ということになります。

そして、ここからが理性を働かせる領域です。悟性によって確立されたもろもろの概念をベースに、理性が活動を始めるのです。

以上、おおざっぱですけど、感性、悟性、理性の関係を私が理解した範囲で記述しました。

さて、感性に戻りますけど、感性のはたらきとは、必ず特定の時間、空間を前提としてなされることに注意する必要があります。たとえば、私たちが同じ内容を話しているつもりでも、世代が異なると話がずれていることがよくあります。また、離れた地にいる者同士が話し合う場合に、前提が合っていなかったりすることもあります。

私たちの経験による認識というのは、実は何らかの時間、空間を限定した上でないと成立しないのです。したがって、認識されたものというのは、その物の本質ではなくて、現象にすぎないということになります。
なお、何らの時間や空間を限定しない対象そのものの姿を、カント用語では、物自体と呼びます。カントが未解決のまま残した、考えうるが認識できない存在、という問題です。

ところで、理性なるものは、さまざまな概念を取り扱おうとします。それらが、あくまで経験にもとづいた認識からくるものである場合は、問題がありません。しかし、そうでなく、単に頭の中で考えられただけの概念、もしくは、具体的な実体をともなわない抽象的なもの、たとえば、創造主の存在、意志の自由、霊魂の問題などに取り組もうとすると、とたんに理性は暴走したり、矛盾に陥ります。

なぜなら、永遠なるもの、絶対的なものというのは、特定の時間や空間を超えているからです。それは、理性の扱える範囲を超えてしまうことになります。こころみに、時間そのものに始まりや終わりがあるか、あるいは空間そのものが有限であるか無限であるか、どちらでしょうか。証明の方法は省きますけど(実は、私は理解できていません、失礼!)、カントによると、どちらでも証明できてしまうのです。

そこから、経験を超えたものについては、認識する理性は何も知ることはできないということになります。それらは、実践理性、すなわち道徳が扱うべき問題であるとしたのです。 
実践理性の問題については次回に触れることにします。

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とても勉強になりました。「純粋理性批判」わたしも高校時代知ったかぶりでちょっとかじったまま、哲学の時間に先生の代わりに授業をさせてもらいました。すっかり忘れていました。
さすが、sabiaさまの説明は分かりやすいです。
ここでまた勉強させていただきますね(^_-)-☆

2007/11/27(火) 午後 4:26 les fleurs 返信する

les-fleursさん、読んでくださってありがとうございます。「純粋理性批判」を読まれたのですか。それはすごい。私のカント理解は、生かじりの上、独りよがりですので、変なことを書いていたら指摘してくださいね。

2007/11/27(火) 午後 10:45 SABIA 返信する

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またまた、私だったら絶対に理解できないようなことを噛み砕いて書いてくださってありがとうございます。
ところで英語の哲学書はとても読めないのでカントについて書いてるところが主人の本の中であったので読み始めましたが、カントってImmanuel Kant と言う名前なんですねー。すごい名前なんですね。

2007/11/29(木) 午前 1:14 ぷぷ 返信する

つちはしさん、恐縮です。ここから先が大事だというのに、もうアップアップしています。(笑)
カントは敬虔な雰囲気の中で育ったようですね。そのせいでしょうか、難解さとは別に、カントの書いたものには知的誠実にあふれていると私は感じています。

2007/12/1(土) 午前 0:38 SABIA 返信する

私が今まさにレポートで書いているところ(しかも悶絶。笑)がこの記事の内容です。SABIAさんのように整然と自分の言葉で語れるように頑張ります!!

2010/2/1(月) 午前 2:29 [ macaron ] 返信する

macaronさん、前の記事を読んで下さってありがとうございます。レポートは大変だと思いますが、楽しみを持ってやれるといいですね。

私の倫理の学びはこのあたりで止まっていたことに気づきました。

2010/2/1(月) 午前 9:11 SABIA 返信する

『判断力批判』を読んだだけなので、私も十全にカント哲学が理解できているとは言い難いのですが、認識能力イコール理性の能力というのは曲解のように感じてしまいます。
認識能力とはむしろ「構想力と悟性」と捉えるのが正当ではないかと考えています。
その後に至って、悟性の能力が表象を概念へと捕捉させる。

概念を交えた場合に適応されるのは美でなく、完全性あるいは有用性である。

私は理性の能力というのは唯一到達可能な物自体、すなわち善を司る能力であると認識していまが、それに於いて、概念と理性の関係性というのは、曖昧です。

例えば、「このバラは美しい」という美の享受から「一般的にバラは美しい」と概念に移行した場合、それは理性の介入の結果であると言えるのか訝ってしまいます。

私のカント理解はまだ浅はかのようです。

2012/10/1(月) 午後 11:07 [ keita ] 返信する

はあ、曲解ですか、「認識能力イコール理性の能力」などと言っているつもりはないのですが、そう受け取られたわけですね。

判断力批判を読まれたというのはすごいことだと思いますが、もう少しわけのわかる文章を書いていただければなお良かったのにと思います。

2012/10/2(火) 午後 6:53 SABIA 返信する

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すごい! 納得です。
わたしのもやもやしていたところを、実に明瞭にわかりやすく解読していただきました。
Sabiaさんは、哲学者にして神学者なんですね。

この上に聖霊のバプテスマを受けられたら、
えらいことになると思います。
巨大な素質をお持ちと直感します。 削除

2012/10/6(土) 午後 5:26 [ shunpeita1 ] 返信する

鹿嶋先生、ありがとうございます。
ただ、私が勉強した本が良かっただけではないかと思っています。時間と気力体力が整えば、カント自身の著作にも、しっかり取り組みたいのですが。

2012/10/6(土) 午後 11:46 SABIA 返信する

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SABIAさんはご自分で『純粋理性批判』を読んでまとめられたと思ったのですが。入門書の受け売りで書いたのですね(啓蒙のためですか。)。 そういう私も受け売り人間です(困ったことに受け入りの内容がりかできていないことは確実です。 認識に関しては、『純粋理性』では、SABIAさんの言うとおり、「超越論的原理論 第二部門超越論的論理学 序論超越論的論理学の理念 1論理学一般について」の最初の箇所に書いてある有名な一節がありますね。「感性なしには、われわれにはいかなる対象もあたえられないであろうし、悟性なしには、いかなる対象も思惟されないであろう。内容のない思惟は空虚であり、概念のない直感は盲目である。たから、対象の直観を悟性的にすること(すなわち概念のもとにもたらすこと)とまったく同様に、対象の概念を感性的にすること(すなわち概念に対して直直観における対象を付与すること)が必要である。・・・ただ両者が合一されることからのみ、認識が生じうるのである。」有福孝岳訳『カント全集4 純粋理性批判上』岩波書店 2001 130頁 (A51,B75-76)。

2012/10/7(日) 午後 5:05 [ fwp*w*49 ] 返信する

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続き Ohne Sinnlichkeit würde uns kein Gegenstand gegeben, und ohne Verstand keiner gedacht werden. Gedanken ohne Inhalt sind leer, Anschauungen ohne Begrifee sint blind. Daher ist es eben so notwendig, seine Begriffe sinnlich zu machen, (d.i. ihnen den Gegenstand in der Anschauung beizufügen,) als seine Anschauungen sich verständlich zu machen (d.i. sie unter Begriffe zu bringen). ・・・ Nur daraus, daß sich vereinigen, kann Erkenntinss entspringen. Meiner Philosophische Bibliothek S. 130.

2012/10/7(日) 午後 5:06 [ fwp*w*49 ] 返信する

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続き 理性は第一批判において「超越論的論理学 第二部 超越論的弁証論 序論 仰怯柤静仮象の座としての純粋理性について A理性一般について」 で 以下のように書かれています。
「われわれのすべての認識は感官から始まり、そこから悟性に到り、理性のもとで終わる。直観の素材を加工し、思惟の最高統一のもとへもたらすものとしては、理性以上に高度なものはわれわれのうちには見出されない。」有福孝岳訳『カント全集5 純粋理性批判中』岩波書店 2001 15頁 (A299 B355)。

2012/10/7(日) 午後 5:08 [ fwp*w*49 ] 返信する

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続き Alle unsere Erkentnnis hebt von der Sinnen an, geht von da zum Verstande, und endigt bei der Vernunft, über welche nichts Höheres in uns angetroffen wird, den Stoff der Anschauung zu bearbeiten und unter die höchste Einheit des Denkens zu bringen. Meiner Philosophische Bibliothek S. 409.
理性は狭義では上級の認識能力です。また広義には感性の下級認識能力と上級認識能力を含むそうです(カント事典(401-2頁)) 。論を精確に追うためには広義や狭義の区別は必要みたいです。

2012/10/7(日) 午後 5:09 [ fwp*w*49 ] 返信する

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Keitaさんの言及されている「構想力」は認識源泉であると言われ、異質な感性と悟性をつなぐ働きがあるとされるのですが、kietaさんは「構想力」について第一批判の第一版の演繹論や超越論的図式論でのカントの議論を丁寧に説いてもらい、それから「構想力」が『判断力批判』でどのように展開されているのかを論じないといけないと思います。

2012/10/7(日) 午後 5:13 [ fwp*w*49 ] 返信する

ユウジさんは、ドイツ語も読めるのですか、うらやましい限りですね。
純粋理性批判は、今までいろいろな方の翻訳が出ていますが、紹介されている有福孝岳さんの訳が良いのでしょうか。それとも、最近出た中山元さんや熊野純彦さんの訳が、新しいから良いのか。私は、天野貞祐訳とか高峯一愚訳とかを考えていたのですが、

2012/10/7(日) 午後 5:34 SABIA 返信する

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記事がとても分かりやすい。
カントの新訳をこれから読んでみたい。

2014/4/11(金) 午後 1:01 [ - ] 返信する

稀有さん、ありがとうございます。最近、すっかり更新をサボっておりますがよろしく。どうぞ、カントを読んでみてください。

2014/4/12(土) 午前 0:20 SABIA 返信する

今日になって知ったのですが、石川文康さんの翻訳が出てますね。私のカントの知識は、ほとんど石川さんの本で得たものですので、読んでみたいです。

2014/4/12(土) 午前 7:31 SABIA 返信する

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