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神のもとめたまふ祭物(そなへもの)はくだけたる霊魂(たましひ)なり

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最近の悩み

・・・・といっても、単なるぼやきです。どうも本が読めなくなりました。だいたい30分ぐらいしか持たないのです。読むのもままならないぐらいだから、書くほうはもっとダメですね。 昨日も夜中に、しっかり読もうと取り組みはじめた途端に、すぐにうとうとしてしまって、家内からは、そんなところで大いびきをかいていないでちゃんと寝たら、と注意される始末です。

ぼやきついでに言うと、私は、半年前に倫理を学びなおそうと決心したのですが、この3ヶ月ほど更新できないでいました。 何もしていないわけではなく、哲学者カントでずっと引っかかっているのです。長距離通勤をしている合間を利用して、「道徳形而上学原論」と「実践理性批判」の2冊を読むには読んだのですが、さて要するに何を言わんとしているのか、まるでまとまりません。そんなわけで、ずっと足踏みしております。1冊も読まずに解説めいたことを書くのは良心が痛むと、妙な気を起こしたのが災いしたようです。ただ、今日の日本で、カントはもっと読まれるべきであるとも思うのでしがみついています。
それにしても、聖書以外の本をだんだん、読めなくなってきているような気がしています。いや、ひょっとすると聖書も?

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土曜学校の話

自分史のシリーズでいきなり飛びますけど、小学校時代の話をします。

子どものころ、近所にカトリック教会があった。割りに広い敷地で、教会堂のほかに神父さんの住居もあり、信徒館という平屋の建物もあった。牧師さんは、どこの国かは知らなかったが外国人であった。その信徒館では、平日は絵画教室や料理教室などに開放されていたようである。そのカトリック教会は、残念ながら今はなく、ただの公園になってしまっている。

さて、私は幼少より、自分からは友だちを作れない性格であった。それを心配した母が、とにかく学校以外で、同年代の子どもたちと交わって遊べる場所を求めて私を連れていったのが、ここで開かれていた土曜学校であった。今と違って、小学生が塾に行くなど珍しい時代である。

私の家庭はというと、クリスチャンホームではなく、両親とも高野山真言宗である。もっともそんなに熱心な信者ではない。だいたい、カトリックはおおらかで、信仰を押し付けられたりはしないので、気にせずに、私を行かせたのであろう。そこに来ている子どもたちも、ほとんどはクリスチャンの家庭ではなかったであろうと想像される。

もちろん、教会だから、日曜日にはミサが行われ、子どもたちのために日曜学校も開かれていて、信徒の子は日曜学校に行っていたわけである。だが、土曜学校は、それとは全く無関係に運営されていた。大学生の奉仕にすべて任されていたようである。今にして思えば、彼ら自身はカトリック信徒であったのだろう。そして土曜学校は、そこらの普通の子どもたちを集めて、健全に遊ばせることが主目的であったのだろう。

とはいっても、祈りも何もないわけではない。最後は教会に入って、ひざまづき、何を祈るかもよくわからぬまま祈っている格好をしていたし、始まりのときは、全員で主の祈りを唱えた。当時は、文語調で、私にはまるでお経であった。しかし、「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものである。今に至るも、主の祈りを唱えようとすると、小学校一年生のときに覚えさせられた文句でないと、私はどうも落ち着かない。

天にましますわれらの父よ
願わくは御名の尊まれんことを
御国の来たらんことを
御旨の天に行わるるごとく
地にも行われんことを
われらの日用の糧を
今日われらに与えたまえ
われらが人に赦すごとく
われらの罪を赦したまえ
われらを試みにひきたまわざれ
われらを悪よりすくいたまえ。アーメン。

父と子と聖霊との御名によりて。アーメン

今は、カトリックでも口語調になっていて、こんな文句を唱えたりはしない。

そのほか、聖歌もよく歌った。これがまた、聞いたことがないような歌詞で、子どもの私には理解できなかった。たとえば、「もろびとこぞりて」という曲がある。

もろびとこぞりてむかえまつれ
ひさしくまちにし主はきませり
主はきませり、主は、主はきませり

「きませり」という妙な言い回しが気に入らなかった私は、勝手に歌詞を「きません」と変えて、声を張り上げて歌ったところ、周囲から大目玉を喰ったことがある。

あと、「祈りに答えて慰めたまわん」というように、”わん”で終わる歌詞が耳障りであった。 犬じゃあるまいし、いちいち、ワンワン吼えていられるかと思った。

毎年、夏にはキャンプも行われた。皆さんがよく紹介されるような、神様を信じる青少年の情熱的で感動的なキャンプをイメージしないでいただきたい。もちろん、起居動作をともにすることで、健全な集団生活や社会生活のマナーを身につけることに注意が払われていたものの、思い切り遊んで楽しい思い出つくりをすることが第一の目的であったのだ。

その他、ピクニックもしばしば企画された。今、思うと大学生のお兄さんたちは、皆さん何を専攻されていたかは知らないが、ずいぶんしっかりしていて、かつ面白い方が多かったように思う。私は、小学校6年間通いながら、信仰の目が開かれることは決してなかったが、彼らのはたらきに感謝したい思いで一杯である。

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カントの哲学は、批判哲学といわれます。その主著である、『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三部作の題名からもそう呼ばれることが多いのです。カントは、これらの中で、科学的認識、道徳、美学についての考察を展開しています。そこにおいて、一貫して念頭にあったのは、人間の認識能力、つまり理性の能力のおよび範囲、そして限界です。


普通、私たちが外界の事物を認識する場合には、五感すなわち、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚といった感覚器官を通して行います。(佛教で言うと、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識) また、対象が存在しないならば、それを認識するはたらきもありえません。

これが直観であって、人間の感性のはたらきです。さまざまな対象を認識していくことにより、知識が経験として詰まれていくことになります。

さて、直観されたものはそのままではなく、整理、統合されていきます。その枠組みをカテゴリーと呼びます。このはたらきが悟性と呼ばれるものです。 つまり、悟性とは、感性が受容した対象をカテゴリーによって再構成する能力ということになります。

そして、ここからが理性を働かせる領域です。悟性によって確立されたもろもろの概念をベースに、理性が活動を始めるのです。

以上、おおざっぱですけど、感性、悟性、理性の関係を私が理解した範囲で記述しました。

さて、感性に戻りますけど、感性のはたらきとは、必ず特定の時間、空間を前提としてなされることに注意する必要があります。たとえば、私たちが同じ内容を話しているつもりでも、世代が異なると話がずれていることがよくあります。また、離れた地にいる者同士が話し合う場合に、前提が合っていなかったりすることもあります。

私たちの経験による認識というのは、実は何らかの時間、空間を限定した上でないと成立しないのです。したがって、認識されたものというのは、その物の本質ではなくて、現象にすぎないということになります。
なお、何らの時間や空間を限定しない対象そのものの姿を、カント用語では、物自体と呼びます。カントが未解決のまま残した、考えうるが認識できない存在、という問題です。

ところで、理性なるものは、さまざまな概念を取り扱おうとします。それらが、あくまで経験にもとづいた認識からくるものである場合は、問題がありません。しかし、そうでなく、単に頭の中で考えられただけの概念、もしくは、具体的な実体をともなわない抽象的なもの、たとえば、創造主の存在、意志の自由、霊魂の問題などに取り組もうとすると、とたんに理性は暴走したり、矛盾に陥ります。

なぜなら、永遠なるもの、絶対的なものというのは、特定の時間や空間を超えているからです。それは、理性の扱える範囲を超えてしまうことになります。こころみに、時間そのものに始まりや終わりがあるか、あるいは空間そのものが有限であるか無限であるか、どちらでしょうか。証明の方法は省きますけど(実は、私は理解できていません、失礼!)、カントによると、どちらでも証明できてしまうのです。

そこから、経験を超えたものについては、認識する理性は何も知ることはできないということになります。それらは、実践理性、すなわち道徳が扱うべき問題であるとしたのです。 
実践理性の問題については次回に触れることにします。

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