SACの部屋

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今回は関東大震災です。引用元・参考資料は最終回で紹介します。
(写真引用元等はその都度紹介します。また地震そのものは「大正関東地震」などと呼ばれていますが、ここでは災害も含めた一般呼称「関東大震災」で統一しています)

20世紀 1923年 関東大震災その1

画像は大正10年に撮影された銀座(現中央区、当時は京橋区)の風景です。当時第一次大戦後による特需終了にともない景気は停滞していました。しかしそれでも東京は世界有数の大都市として成長を続けていました。(画像引用元:中央区HP)
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前兆現象?

数ヶ月前から関東各地で有感地震が続発、鎌倉や藤沢では正体不明の轟音が聴かれるようになりました。富士五湖では水の濁り、水位が下がるなどの現象が見られました。

8月に入ると地熱上昇の影響か稲が早く実り、野菜や果樹が大豊作となりました。相模湾では海水の濁りが目撃され、魚がほとんど獲れなくなりました。品川では安政地震でも枯れたという井戸が再び枯れ、古老達を不安がらせました。

8月下旬には伊豆半島で海女が海底からの激しい泡立ちを各所で目撃。隅田川では魚が大量に浮き上がりました。相模湾や東京湾の沿岸ではハゼが大発生、東京の下町各所ではネズミの大群が逃げて行く現象が見られました。また東京や神奈川では井戸枯れが続発しました。

地震数日前になると横浜や横須賀で無数のカニが陸に上がってくるのが目撃され、東京の空ではカラスの姿がほとんど見られなくなりました。他にも横浜の帷子川でのウナギ大量発生やネズミの逃避など動物の異常行動が見られました。また相模湾や東京湾で異常発光現象、東京上空では異様な雲(俗に言う「地震雲」か?)が目撃されました。

地震当日(大正12年・1923年9月1日土曜日)は台風が能登半島を通過中でした。関東地方も前日までは台風による風雨が続いていましたがこの日の朝になると天候は急速に回復しました。残暑の日射しが戻ったものの台風の影響による強風は続いていました。相模湾では深海魚が浮かび上がり、東京湾では発光現象や異様な雲が見られました。箱根温泉では湯が急速に濁り、昼近くになると湧出が止まりました。

このように地震数ヶ月前から直前にかけて紹介し切れないほどの異常現象が起こりました。各地で地震の前兆を疑う声もありましたが、それらを体系的に分析する機関は無く、ほとんどが地震後に「そう言えばあの時こんな事があった」的な情報として伝えられました。また現在においてもこれらの宏観異常現象と地震発生の因果関係は解明されておらず、地震の予知が困難である事に変わりはありません。

地震発生!

9月1日午前11時58分、東日本が乗る北米プレートとフィリピン海プレートの境界に当たる相模トラフで断層の大破壊が始まりました。断層面は小田原付近から房総半島南端に約130kmにおよぶ巨大なもので、まず小田原直下で顕著な破壊が起きました。これが本震の第1イベントで、続いて約10秒後に三浦半島直下でも大破壊が始まりました。これが本震の第2イベントです。関東大震災の本震はこのふたつの大破壊で構成されており、「双子地震」とも言われています。ただし揺れを区別して感じる事が出来たのは震源直下でのみで、東京などでは地震波の影響から1分程度の連続した揺れとして感じられました。

本震の規模はマグニチュード(以下Mと略)7.9。東京の一部地域、神奈川県では相模湾沿岸、三浦半島の東京湾沿岸、千葉県は南部などで震度7を感じ、東京の西部や南部、埼玉県の西部、神奈川県と千葉県の広い範囲で震度6強〜弱を感じました。阪神大震災の約10倍に達するという激震域の人々は突き飛ばされるような凄まじい揺れに立ち上がることもままならず、瞬時に倒壊する建物・家屋が続出しました。
(震度は現在の震度階級による。当時の震度階級は6までで強弱は無し)

本震から約2分後の12時1分、断層の大破壊に引きずられて東京湾北部の岩盤でも破壊が始まります。第1の余震です。余震とはいえ規模はM7.2と阪神大震災(M7.3)に匹敵するものです。さらに12時3分には山梨県東部でも岩盤の破壊が始まりM7.3の第2余震が発生します。M7以上の余震はこの後12時48分(東京湾)にも発生し、翌日の9月2日は千葉県勝浦沖(M7.6)と九十九里沖(M7.1)でも発生します。もちろん小規模な余震は数限りなく発生しています。

関東大震災の特徴は本震に匹敵するような大きな余震が最初の短時間に集中している事で、これがよりいっそう建物の倒壊率を高め、初動の救助・消火活動を阻み、被害を拡大したと言われています。

これは関東大震災の震度分布と本震(第1および第2イベント)、余震の震源を示しています。(画像引用元:鹿島建設HP)
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火災

各地の激震域では建造物・家屋の倒壊が相次ぎました。住宅の全壊および半壊はそれぞれ12万戸を超え、逃げ遅れた人々の大部分が圧死しました。また昼時であったため家庭や飲食店で使用中のかまどや七輪の火が始末する間もなく火災の原因になり、さらに工場や学校・研究機関などの薬品類も火災を拡大させました。

特に大火災に至ったのは東京と横浜で、中でも東京市内15区では130ヶ所余りで火の手が上がりました。出火場所の約半分は消防や一般市民の消火活動により消し止められましたが、浅草区、本所区、深川区、下谷区、神田区、日本橋区、京橋区(いずれも旧東京市15区制の区名)など隅田川両岸を中心としたいわゆる「下町」の区域において発生した火災は時間を追うにつれて大火災に発展しました。

下町地域のほとんどが沖積平野の軟弱な地盤の上にあり、地震動が増幅されて大部分の家屋が倒壊しました。下敷きを免れた人びとは逃げるのがやっとで火の始末をする余裕はありませんでした。このため下町地域の火災は木造家屋の燃えやすさも手伝ってどんどん拡大し空前の大火となりました。また台風の影響による強風も火災拡大の原因になりました。

水道管は各所で破損して消火活動は困難となりました。火災により避難は次第に困難になり、とくに隅田川では両国橋と新大橋以外の橋がすべて焼け落ちたため逃げ場を失った避難民で大混乱となりました。また避難者が携行または荷車に載せた家財道具も混雑・混乱に拍車をかけました。

ここに伊藤和明著「日本の地震災害」(岩波新書)で引用された東京消防庁の一文を紹介します。

「隅田川の両岸は、避難の群衆でただ黒い一列の塊のようだった。厩橋も、吾妻橋も同様、浅草方面から向島へ逃げる群衆が本所全域にひろがった火勢に追われ、喚声をあげて逆戻りしてくるところ、両国方面から逃げ走ってきた群衆と安田邸まえで衝突し、みるみる大混乱をひき起こし、ある者は踏みつぶされ、ある者は川に墜落するなど多数の死者を出した」

「川の中で、背の立つ深さのところにも避難民はひしめいていた。両岸から吹雪のように飛んでくる火の粉や、真赤に焼けたトタン板、火のついた戸板、電柱などに頭や顔をやられ、川中に墜落、死傷した者などどれほどいたかしれない。また川の中の避難民は、それをさけるために、次第に深みに押し流され、水中に没していった」

日比谷公園での火災。火災拡大前の写真で避難者と野次馬が見られますが、まだ大混雑にはなっていません。
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上野公園に押し寄せた避難者。
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駒込動坂付近から見た上野方面の火災。
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大久保から見た東京中心部の火災による猛煙。
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立川から見た猛煙。
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燃え上がる警視庁。政府機関・官公庁も壊滅的打撃を受けました。このため防災に当たるべき諸機関の初動対処も大きく阻害されました。(画像引用元:以前にネットで拾ったもので出所不明)
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火災旋風

本所区(現墨田区)の隅田川河岸に7万峩瓩す大な空き地がありました。陸軍被服廠移転に伴なって東京市に払い下げられた土地で、公園として整備中でした。震災当日、ここには多数の人びとが避難して来ました。当初は避難者の数も少なく、皆座って激震の恐怖を癒やしました。この機会に一儲けしてやろうと、避難者相手にラムネを売る露店まで現われました。

時間を経るに従い、遠かった火災が次第に被服廠跡にも近づいてきました。各所で逃げ場を失った群集が続々と押し寄せ、いつの間にか4万人もの人びとと携行した家財道具で広大な土地は身動きもとれないほどの混雑を来たしました。次第に避難した人々の周囲で熱風が吹き荒れ始めます。大火災により空気が薄くなり、それを補うために周囲から風が吹き込みます。それが旋風となって吹き荒れるのです。やがて旋風は火炎そのものとなりいわゆる「火災旋風」となって可燃物を求めて荒れ狂います。この「火の竜巻」は防火帯となるはずだった隅田川などの河川をも越え対岸に燃え移ります。

4万の人びとが避難した被服廠跡にも火災旋風は吹き荒れました。それは誰も予想もしなかった巨大なエネルギーで人間はもちろん、馬や荷車さえも空中へ舞い上げ、地上に激突させました。火の粉が人や家財道具に燃え移り人びとは瞬く間に火に吞まれました。燃焼による酸素不足で窒息死する者、輻射熱で蒸し焼きにされる者など、直接火が着かないで死ぬ者も続出しました。この火炎地獄で奇蹟的に助かった人びとは約2000人で、関東大震災の犠牲者の約4割がこの被服廠跡で亡くなっています。

関東大震災の死者・行方不明者はおよそ10万5000人。この内約9割の人びとが火災で焼死しました。

陸軍被服廠跡地に押し寄せた群衆。この人びとをやがて火災旋風が襲います。(画像引用元:以前にネットで拾ったもので出所不明)
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被服廠跡を埋め尽くした遺体の山。9月4日撮影。残暑の季節であり腐敗は急速に進み酸鼻を極める光景だったそうです。
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被服廠跡以外でも惨状は繰り広げられました。これは吉原弁天池を埋め尽くした遺体の山。吉原遊郭は遊女の逃亡を防ぐために元々避難がほぼ不可能な構造となっており、火災により逃げ場を失った遊女たちは次々に池に身を投じ溺死しました。彼女らはほとんどが東北の貧農から売られてきた娘達であり遊郭で幽閉同然の生活を送り春を売っていました。弁天池の約500人に達するという遺体の大半がそういった遊女達でした。
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大火災は9月3日の昼前にようやく鎮火しました。東京だけでも焼失家屋37万8000戸、焼失面積3830haに及びました。当時の東京市の64%が燃え落ちるという凄まじい火災でありました。

焼け野原と化した浅草。向こうに見えるのは当時東京有数の高層建築だった「凌雲閣」(通称「十二階」)。半壊焼失したので後に陸軍工兵隊により爆破解体されました。
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焼け落ちた神田橋に仮設橋を架けた陸軍工兵隊。
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焼失した日本橋・三越呉服店。
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焼失した旧両国国技館。
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焼失した警視庁(有楽町)。
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(特記以外の画像引用元:国立科学博物館HP)

(関東大震災はまだ続けます)

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関東大震災はやはり規模が大きいですね。
前兆現象もいろいろあったみたいです。
最近日本海側で深海魚が海岸に上がってきているのが気になります。
私が東京に住んでいる間に関東大震災が来ないことを祈ります。

2010/3/11(木) 午後 6:00 [ - ] 返信する

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フォックスワンさん、こんばんは。返事が遅れてすみません。そう言えばリュウグウノツカイが大量に上がっているらしいですね。関東大震災は当分大丈夫みたいですが、直下型地震はヤバイですね。

2010/3/14(日) 午前 5:39 SAC 返信する

初めてお邪魔させていただきましたが、ちょうど日付が東日本大震災の1年前で、ちょっと驚きました。
そうですか、そういった前兆はいろいろとあったのですね・・。

2011/5/26(木) 午後 0:03 [ カノンはじめ ] 返信する

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kanonhajimeさん、はじめまして。返事が遅れて申し訳ありません。自分でも今気付きました。書いて1年後にこんな事になるなんて、自分でも驚いています。今回もいろいろ落ち着けば、宏観異常現象も整理されるでしょう。地震予知への活用も望まれます。

2011/5/29(日) 午前 11:15 SAC 返信する

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とても興味深く拝見させていただきました。内容もそうですが、写真は本当に衝撃的でした。ここのところ地震つづきで東京に大地震が来るのでは?富士山が噴火するのでは?とどうも落ち着かない日々です。また、拝見させていただきますね。

2012/2/1(水) 午前 11:22 [ sum**e8861 ] 返信する

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sum**e8861さん、こんばんは。読んでくださって感謝します。相模トラフで発生する関東地震発生の可能性は低いようですが、東京湾北部を震源とする直下型地震は発生の可能性が高いですね。富士山噴火も近いかもしれません。

本記事シリーズの「その1」をご覧ください。今回の震災は「想定」されていました。「想定外」は愚者の言い訳です。

2012/2/1(水) 午後 11:17 SAC 返信する

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