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伊勢崎空襲と時報鐘楼

戦後70年という事で、拙ブログでも何か書こうと思い立ちました。何を書こうかいろいろ考えましたが、日頃郷土群馬県についていろいろ書いているので「ここはやはり県内の戦争の記録を書こう」と思いました。これから数回に亘って群馬県内の戦跡を紹介します。

2015年8月6日木曜日

この日は県内3ヶ所の戦跡を探訪しました。

ピークを過ぎたとはいえ、群馬県内はまだまだ猛暑。そんな中、高崎市の拙宅を出発して国道354号(東毛広域幹線道路)等でまず伊勢崎市に向かいました。県外の人にとっては伊勢崎といってもピンと来ないかもしれません。横浜の伊勢佐木町じゃないですよ。群馬県の伊勢崎市です。「いせさき」と読みます。発音の主流は「いっさき」だと思います。自分もそう発音しています。
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伊勢崎市曲輪町にある市立伊勢崎北小学校へ。数年前に新校舎に移行。きれいな学校です。
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赤石学校門柱。
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明治15年に建てられたものだそうです。
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で、本題はこちら。「旧時報鐘楼」です。
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大正4年(1915年)完成、落成は翌大正5年1月。レンガ造りの外観ながら、県内最古の鉄筋コンクリート建築。
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伊勢崎市指定重要文化財。
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伊勢崎出身で横浜で薬種商を営んでいた小林桂助氏が工事費2650円(現在の約5000万円に相当)を負担したそうです。当時の伊勢崎は周囲から「伊勢崎時間」と呼ばれるほどアバウトな時間ですべてが行われていたと言われ、伊勢崎町長(当時は町制)だった石川泰三は正確な時間の運用を町民に啓蒙したそうです。しかしなかなか効果が出ず、小林桂助に相談した結果、時報鐘楼の建造が決まりました。竣工は大正天皇の御大典と小林翁古希の祝いに合わせたそうです。
(参照www.city.isesaki.lg.jp/www/contents/.../files/kyujihosyoro.pdf)
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完成当時の時報鐘楼。落成式の写真といわれています。
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(郷土出版社刊「写真が語る激動のふるさと一世紀/桐生・伊勢崎・みどりの100年」より)

伊勢崎に時を告げ続けた時報鐘楼。1937年(昭和12年)10月に警察署のサイレンに代わるまで20余年に亘って鐘の音が町内に鳴り響いたそうです。鐘は戦時中に供出され、還って来ませんでした。
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1945年(昭和20年)8月14日〜15日の伊勢崎空襲でこの一帯は焼かれ、時報鐘楼も火に包まれました。
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塔屋はその空襲で焼失。戦後復元されました。
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黒く焼け焦げたレンガ。空襲による猛火を今に伝えます。
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時報鐘楼は取り壊しも検討されたそうですが、市制50周年(1940年に市制移行)を記念して永久保存される事になりました。
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門柱と共に伊勢崎の歴史を語る時報鐘楼。
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1945年8月15日伊勢崎空襲

ではここからは各種資料を参考に伊勢崎空襲について調べてみましょう。

米第20航空軍司令部編纂の「タクティカル・ミッション・レポート」。「戦術任務報告書」とでも言いましょうか。1945年8月14日〜15日に行われた任務番号325〜330のレポートを中心に伊勢崎空襲の実態を再構成します。
(国立国会図書館デジタルコレクション参照http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4002578より)
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1945年7月末、日本各地に米軍の伝単(ビラ)が撒かれました。このビラには群馬県内としては前橋のみが記されています。伊勢崎と記したビラも撒かれたそうです。
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(伊勢崎市刊「伊勢崎市史/通史編3/近現代史」より)

再び米軍の戦術任務報告書より。

1945年8月14日、対日爆撃作戦を実施中の第20航空軍団隷下の第21爆撃機集団(指揮官:カーティス・ルメイ少将)は、日本本土6ヶ所に対する爆撃作戦を行いました。以下に概要を記します。

任務番号325:光海軍工廠(山口県)
 第58爆撃航空団 167機発進(0510時離陸開始) 157機投弾(1317時目標進入開始) 帰投終了時刻2245時

任務番号326:大阪砲兵工廠(大阪府)
 第73爆撃航空団 161機発進(0515時離陸開始) 145機投弾(1316時目標進入開始) 帰投終了時刻2111時

任務番号327:麻里布操車場(山口県)
 第313爆撃航空団 115機発進(0400時離陸開始) 108機投弾(1055時目標進入開始) 帰投終了時刻1956時

 
任務番号328:日本石油土崎製油所(秋田県)
 第315爆撃航空団 141機発進(1542時離陸開始) 132機投弾(2348時目標進入開始) 帰投終了時刻15日1100時

任務場号329:熊谷市街地(埼玉県)
 第313および第314爆撃航空団 93機離陸(1652時離陸開始) 81機投弾(15日0023時目標進入開始) 帰投終了時刻0814時

任務番号330:伊勢崎市街地(群馬県)
 第73および第314爆撃航空団 93機離陸(1702時離陸開始) 86機投弾(15日0008時目標進入開始) 帰投終了時刻15日0941時

これらの爆撃は今後予想される日本本土上陸作戦(未実施)のための継戦能力減殺と、日本政府に対するポツダム宣言受諾を強要するためのダメ押し等を目的としていました。「アメリカは終戦直前まで無差別爆撃を行った」と批判する記事をネット上で散見しますが、それはあくまで現在の視点での批判であり、15日正午に終戦となるかどうかは、当時は分かりませんでした。米軍からすれば、戦争の終結は未定であり、これまでどおり戦闘を継続するのは当然の事でした。それは日本軍も同じ事です。

ただポツダム宣言受諾に際しては、米軍は作戦中止を考えていたようです。以下伊勢崎空襲に参加した第314爆撃航空団/第39爆撃航空群のパイロットの手記を引用します。
「出撃前のブリーフィングにおいて、我々は作戦中止暗号を伝達された。目標に向け飛行中にこの暗号を受信した場合は、我々は機に搭載した爆弾を海上に投棄して基地に引き返す事になっていた。その暗号は「ユタ(UTAH)」であったが、実際にはその指令を受ける事は無かった」
(https://sites.google.com/site/experiencesofonepilot/より)

任務番号325〜330の飛行コースを示したチャートです。各任務における各航空団の離陸時刻、陸地進入時刻、目標進入時刻、陸地離脱時刻、着陸時刻が記されています。総計770機のB-29が参加する爆撃作戦であり、日本側にとって対抗手段はほぼ皆無でした。東日本においては土崎製油所への編隊が先行し、熊谷および伊勢崎に対する編隊はそれにつづいてほぼ同時進行で飛行する事になっていました。
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事前に偵察機が撮影した目標写真。光海軍工廠、大阪砲兵工廠、麻里布操車場、土崎製油所は明確な大型施設が見えますが、中小都市の熊谷と伊勢崎は目だった建造物は見当たりません。一応、同報告書には伊勢崎には「中島飛行機の部品や機体を製造する工場が存在する」とされています(中島飛行機伊勢崎工場)。
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爆撃作戦に使用されたボーイングB-29「スーパーフォートレス」爆撃機。排気タービン付2200馬力エンジン4基、最高速度576km/h、最大爆弾搭載量約9t、航続距離6600km(爆弾約7t搭載時)、機関銃13丁、乗員10名。当時世界最高の能力を誇る爆撃機でした。開発は難航し、作戦配備後もトラブルが続出しましたが、それでも米本土から遠く離れたマリアナ諸島や中国大陸において高い稼働率を維持し、数百機規模の連日運用を可能としたのはアメリカの国力あったればこそでしょう。
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(写真http://www.nationalmuseum.af.milより)

伊勢崎空襲に参加した第73爆撃航空団のB-29。写真は1945年5月29日の横浜空襲時のもの。この空襲は昼間爆撃であったが、伊勢崎空襲は上述の通り夜間爆撃でした。
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(写真http://www.nationalmuseum.af.milより)

同じく伊勢崎空襲に参加した第314爆撃航空団のB-29。写真は同じく5月29日の横浜空襲時のもの。焼夷弾をバラ撒いています。空恐ろしい光景です。
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(写真http://www.nationalmuseum.af.milより)

土崎、熊谷、伊勢崎の各作戦参加機に対する救助体制を示したチャート。飛行コースに沿って海軍の潜水艦、水上艦艇、空中投下式救命ボートが配備されています。如何に日本軍が弱体化していたとはいえ、福島沖や房総沖、伊豆沖に潜水艦や救難機が展開している事に驚かされます。
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各爆撃作戦には直接の護衛戦闘機は付きませんでしたが、14日日中に硫黄島に展開する第7戦闘機集団の第15、第21、第506戦闘機群のP-51D戦闘機151機、第414戦闘機群のP-47N戦闘機35機の計186機による関西地区、中京地区、紀伊半島に対する掃討作戦が実施されました。日本軍機の迎撃は無く、各部隊は機銃掃射を実施、地上において(場所不明)4式戦闘機「疾風」と97式重爆撃機を各1機破壊した他は、地上施設や民間施設を銃撃しました。戦果報告の末尾には小型漁船5隻を破壊したと記されています。対空砲火で2機のP-51が撃墜され、原因不明によりP-51とP-47各1機が墜落しています。パイロット1名が行方不明となり、3名が救助されたそうです。
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硫黄島上空を飛行する第7戦闘機集団のP-51D。当時総合性能において世界最高レベルにあったP-51DやP-47Nの大編隊を前に、断末魔の日本軍は対抗手段がありませんでした。
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(写真http://histclo.com/essay/war/ww2/camp/pac/iwo/iwo-res.htmlより)

さて、話を伊勢崎空襲に戻します。

伊勢崎への進入経路と航法レーダー写真です。洋上を北上したB-29編隊は銚子沖で変針し日本本土へ侵入。霞ヶ浦北方でさらに変針し、伊勢崎へ直行します。
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航法レーダー写真を一部拡大します。霞ヶ浦北方で変針した際のもの。東京や古河が写っています。古河西方に写っている橋は何でしょうか。利根川に架かる橋だと思われますが、「昭和橋」(現国道122号)は当時は木橋でレーダーには映り難かったと想像されます。となるとさらに西方にある「刀水橋」(現国道407号、当時は旧橋だが、鉄製)ではないかと思われます。
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伊勢崎に侵入しつつあります。西方には前橋、東方には足利、小泉が写っています。南方に写っている橋は何でしょうか。「上武大橋」か「坂東大橋」ではないかと思われますが(共に鉄製)、位置的に見て「上武大橋」ではないかと想像されます。
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さらに伊勢崎に侵入しつつあり。伊勢崎市の東西を流れる2本の河川が写っています。西側は広瀬川、東側は粕川でしょうか。南方に写る橋はやはり「上武大橋」ではないかと思われます。
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現在の「上武大橋」。県道14号(伊勢崎深谷線)の橋(当時は「県道境深谷線」)です。現橋は1934年(昭和9年)開通で、80年以上の歴史を持っています。幅が狭く老朽化しているため、現在新橋が建設中です。
(2014年6月17日、埼玉上流側より撮影)
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恐らくB-29のレーダーに映ったであろう上武大橋。歴史の生き証人です。
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伊勢崎空襲時の攻撃状況を記しています。B-29編隊は15450〜18200フィート(4709〜5547m)の高度で進入し、先導機として12機が先行した事や、低層雲や煙が多く目標を視認した機は17機に過ぎず、70機はレーダー航法で爆撃を行った事が記されています。目標を捉えられず進入をやり直した機もあり、全機が投弾を終えるまでに127分も要したそうです。
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日本側の反応を記しています。B-29編隊は伊勢崎への行程で太田上空を通過した際、重高射砲および中高射砲の射撃に遭遇したそうです(損害無し)。伊勢崎上空においては高射砲の反撃無し、撃墜または損傷した機は無しとなっています。帰路においては立川、八王子、厚木、平塚の各上空で探照灯の照射を受けたとあります。当時太田には中島飛行機太田工場を守るために高射第1師団隷下の独立高射砲第4大隊が配備されており、有力な対空陣地が存在していました。重高射砲とは3式12cm高射砲、中高射砲とは99式8cm高射砲であると思われます。対する伊勢崎には高射砲の配備は無く、またここには記されていませんが、戦闘機の反撃もありませんでした。当時日本軍の防空戦力は疲弊しており、伊勢崎の防空はほぼ諦められていた観があります。
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ちょっと分かり辛いですが、伊勢崎空襲に参加したB-29に搭載された爆弾の総量が記されています。出撃した93機のB-29にはM-19集束焼夷弾(M69焼夷弾48発を内蔵):1856発(371.2t)、M47A2焼夷弾:8539発(294.4t)、M46照明弾:31発が搭載されていました。実際に投弾したのは86機で、M-19:1716発(343.2t)、M47A2:7858発(270.9t)、M46:27発が伊勢崎に投ぜられました。
(目標を外して玉村等に落下した分も含む)
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主に米軍側の資料を中心に見て来ましたが、ここからは日本側の資料で見て行きましょう。

昭和20年10月2日、市役所屋上から撮影した伊勢崎の惨状。当時伊勢崎市役所は本町(かつて西友があった場所)にあり、これは前橋方面を見た写真と思われます。無残な光景ですが、焼け跡にはバラックが建ち、復興の息吹が感じられます。ただ、市民の自主的な再建が意外に早かったため、それが逆に戦災復興計画を阻害する結果となり、混み合った狭隘な中心街が形成され、その後ドーナツ化現象による空洞化を招く事になりました。
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(郷土出版社刊「写真が語る激動のふるさと一世紀/桐生・伊勢崎・みどりの100年」より)

伊勢崎市の戦災焼失地図。市街地の40パーセントが灰燼に帰したとはいえ、米軍の爆撃が精確さを欠いた事、防空空き地の活用、市民の消火活動等により、焼失を免れた地域もありました。
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(伊勢崎市刊「伊勢崎市史/通史編3/近現代史」より)

以下、伊勢崎市史から空襲の模様を再現します。
 8月14日は、朝から快晴で、真夏の炎暑は日没後もなかなか去らず、道路からむっと熱気が立ちのぼる様な晩であった。

 2月10日に太田の爆撃でB29の乱舞を初めて見て、戦争の身近に迫った事を感じさせられた市民は、更に8月5日夜前橋の大空襲によって爆音と猛火に戦慄させられていよいよ灯火管制を厳にし、常時防空服に身を固めて、寝る時にさえ脚絆を巻きつけたままの人達が多かった。

 この夜もまだ宵の中に、かけっぱなしのラジオが、ピーピーと時々雑音を交えながら、「東部軍管区発表・・・・・・。敵B29の数編隊は鹿島灘及び伊豆半島上空より侵入・・・・・・。一隊は針路北北東・・・・・・。他の一隊は北西方面に向かうものの如し。関東北部及び東北、北陸地方は厳重なる警戒を要す・・・・・・。」

 毎夜毎夜繰り返される空襲警報に、またかと身支度した市民達も、間もなくこの編隊が東北地方(筆者註:土崎空襲と思われます)を襲ったらしい事をラジオで知り、ほっと一息つくと、連日の緊張に疲れ切った身を、防空服装のままごろりと横にして、うとうとと浅い夢を結んだ。

 しかし間もなく、グオングオングオンと、B29特有の爆音に夢を破られてハッと飛び起きた。暗い夜空に向かって、市外の南西部からパッと探照灯が点じられて、銀色のB29が1機その先芒の中に照らし出された。

 陸軍部隊は駐屯していても、防空火器を持たぬ事を知っている市民達は、無謀な事をするなと、思わずハラハラした。

 それから暫くたって、東方と西南方に炎上する火焔があかあかと見え出した。ついで前橋の時のような爆音が近づいたので、もしかすると、今夜は高崎でもやられるのかと思いながら跳ね起きた。とたんに市役所からサイレンが鳴り響いた。何処かの家のラジオがこの緊迫した情況も知らぬげにまぬけた警戒警報を饒舌っていて、市民達にもどかしさを感じさせた。この時はもう市の東部にある関東航空会社が被爆炎上したので市内の消防自動車は殆ど全部駈けつけた。ヒューヒューという空気の摩擦音に続いてバタバタバタと屋根を突き抜け、塀にぶち当たり壁を突き破って焼夷弾の雨が降りそそいぎ、たちまちあたりを青白く照らしながら火を噴き出した。その中に時々焼夷弾の炸裂する音が響き、見る見る市街北部に火炎の炎が吹き上がり、相次いで市内各所から大火柱が噴き上がって白昼の様に明るくなった。上空を襲う爆音はぐるぐる回ってB29の乱舞は続き、火の粉は東から西へと流れ落ちた。近くはパチパチと火のはせ飛ぶ音に入り交じって子供の泣き声、女の悲鳴、男の怒号、入り乱れる人の足音、水だ水だと叫ぶ警防団の人々の声。「かあちゃん、怖いよう」泣き声で母を呼ぶ幼児の声が、人々にハッとしたものを感じさせ、ゴーッと鳴る火炎の勢いに人々の恐怖は、いよいよ募る一方である。しかも、まだヒュー、バタバタバタッと攻撃は続けられる。あらかじめ市当局から空襲時の避難地区を指示されていたので、老幼婦女はまず市の郊外へ思い思いに家財をリヤカーや背中につけて逃げのび、市内には元気のよい男達ばかりが残ったのであるが、この物凄い火の勢いには、原始的なバケツリレーや火叩き等では手が出ず、しかも爆裂する爆弾に驚いて、結局家や家財を見捨てて、大半の人々は市外に逃げ出したのであった。

 市の目抜き通りである本町三丁目付近でも、「桜井紙店の付近に5、6人が残って必至にバケツで水をかけていた程度で、炎と煙の立ちこめる本町通りには、人影をあまり見なかった」(大沢三郎氏談)という。

 空襲30分か1時間後に、沛然として豪雨が降り出した。この雨の物凄さは、まるで百千の滝が一時に落ちかかる様な勢いであった。「家の付近まで火の手が迫ったので、隣組の人々と共に夢中で、バケツに水を汲んで掛けていたのだが、雨の最中には井戸のポンプで汲むよりも、樋から溢れる水を受ける方が早かった」(小暮賢太郎氏談)。これほどの豪雨も約10分ほどでぱったりと止んで、暫くすると一旦衰えた火勢も再び猛威を盛り返して、次から次へと延焼して行くのであった。

 やがて爆撃の敵機も去った事を見極めて、我が家を気づかいながら戻って来た人々も、居残った人々や警防団、消防自動車等に協力して消化につとめたにもかかわらず、遂に全市9273戸のうち1953戸を焼失する大損害を被ってしまった。
(伊勢崎市刊「伊勢崎市史/通史編3/近現代史」より)



「戦災概況図伊勢崎」より。昭和20年12月、復員者へ郷里の情況を知らせるため、第一復員省資料課が作成したものです。この伊勢崎空襲において米軍の爆撃は精確さを欠き、玉村等佐波郡各地にも焼夷弾が落下したそうです。
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(国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/より)

1946年(昭和21年)10月米軍撮影の伊勢崎市街地。赤枠の範囲が焼失地域をほぼ示しています。上掲の市役所撮影の写真のほぼ1年後です。すでに焼失地域に多くの建物が再建され、市民による自主的な復興が行われています。戦後全国115の都市が戦災復興都市計画事業施行都市に指定され、伊勢崎市もその中に含まれました。しかし終戦直後の市制の混乱等で、唯一伊勢崎市のみ計画が不実行に終わりました。
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(国土地理院HPより)

上掲写真を拡大したもの。焼失した北国民学校(現市立伊勢崎北小学校)と時報鐘楼が写っています。
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終戦から70年。そして伊勢崎空襲から今日で70年。時報鐘楼の焼けたレンガが終戦の日に行われた空襲を今に伝えます。
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(つづく)

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大変興味深く拝見させて頂きました。この様なジャンルの記事を探して良く読みますが、このブログの記事はとても読みやすくわかりやすく、写真も綺麗で驚きました!豊富な知識をお持ちの方が書かれたものは本当に面白いですね。勉強になりました‥ありがとうございます! 削除

2016/5/7(土) 午前 10:20 [ つっちー ] 返信する

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> つっちーさん
初めまして。読んでいただきありがとうございます。伊勢崎の空襲は知名度が低いので、自分のような県民が語り継いでいかないといけませんね。またよろしくお願いします。

2016/5/9(月) 午後 7:28 SAC 返信する

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