SACの部屋

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忙しさにかまけて書くのを怠って来た群馬県の戦跡レポの2回目です。
(前回http://blogs.yahoo.co.jp/sac_murakumo/56913362.html)

2015年8月6日木曜日

伊勢崎市の「時報鐘楼」を撮り終え、続いて太田市へ。

食事の関係で県道39号(足利伊勢崎線)を走り・・・。
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県道78号(太田大間々線)のバイパスや・・・。
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太田市道「太田環状線」を走って・・・。
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太田市石原町にあるイオンモール太田ショッピングセンターに到着。
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東側の駐車場。気温35度超。猛烈に暑い・・・。
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南側の緑地帯へ。猛暑の中、カメラを持ってトボトボと歩く俺。汗が噴き出す。暑い暑い・・・。
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この一角にコンクリート製の物体が鎮座している。
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「下小林の高射砲陣地跡」です。直径4.5mの砲座が据えられています。
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このショッピングセンターは平成15年12月にオープンしたわけですが、その直前に行われた敷地の発掘調査で6基の砲座が発見されました。その内の1基を移設し保存しています。解説板も設置されています。
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発見時の写真。
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99式8cm高射砲が設置されていました。
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上から見た図。
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99式8cm高射砲。正式には「九九式八糎高射砲」。ドイツ製の8.8cm高射砲をコピー生産(後にライセンス生産)したもので、昭和16年に正式化され、本土防空の主力を担いました。約1000門が生産されたとの事です。
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(写真http://self.gutenberg.org/より)

発見場所と移設された現在の場所を示しています。
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西側駐車場。本来はこの辺りに砲座があったそうです。
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航空写真にて移設の状況を示します。
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(Yahoo地図にて作成)

太田市(戦時中は新田郡太田町。市制移行は昭和23年)には国内有数の航空機メーカーであった中島飛行機の太田工場(現在の富士重工群馬製作所本工場)が置かれており、国内随一のマスプロ生産能力を発揮して陸海軍向けの航空機を生産していました。大戦末期には「大東亜決戦機」とも称された陸軍の4式戦闘機「疾風」の主力生産拠点となっていました。さらに太田町の南の邑楽郡小泉町(現邑楽郡大泉町)には中島飛行機の小泉工場(海軍機の生産拠点。現パナソニック/三洋電機東京製作所)があり、太田工場と小泉工場の間には試験飛行等に使用される太田飛行場(現富士重工部品センター)がありました。

この太田工場や小泉工場、太田飛行場を護るため、昭和19年11月に東部高射砲集団(司令部:東京代官山)隷下の独立高射砲第4大隊が配備されました。
(ちなみに東部高射砲集団は12月に高射第1師団に改編され、昭和20年5月には司令部を上野(現国立科学博物館)に移します)

独立高射砲第4大隊は4個中隊からなり(諸説あり)、1個中隊は3式12cm高射砲、3個中隊は99式8cm高射砲を装備し、各中隊は6門、合計24門も保有する部隊でした。守備範囲に比して砲数が多いとは言えませんが、当時の日本陸軍としては有力な高射砲部隊でした。最新鋭の3式12cm高射砲は最大射高14000mで高高度を飛行するB-29にも対処可能でしたが、99式8cm高射砲は最大射高10420mで、B-29が中高度に来ないと厳しいものがありました。

現在の地図に当時の配備状況等を記します。,今回紹介した高射砲陣地があった下小林。ここには第3中隊が置かれていた事が判明しています。△和臑睨槁瑤搬1中隊が置かれていた由良。第1中隊には最新鋭の3式12cm高射砲が配備されていました。は古戸、い肋泉。古戸と小泉にも高射砲陣地があり、残る第2中隊と第4中隊が置かれていたはずですが、正確な陣地所在地も含め判然としません。イ和静長場、Δ肋泉工場、Г和静槌行場です。中島飛行機の2工場だけでなく、利根川に架かる「刀水橋」も含めて24門の高射砲で守らなければならないわけですから、荷が重かったと言わざるを得ません。
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(Yahoo地図にて作成)

独立高射砲第4大隊が太田周辺に配備されて2ヶ月ちょっとの昭和20年2月10日、最初の試練がやって来ました。米陸軍航空軍第20航空軍団隷下の第21爆撃機集団(指揮官:カーティス・ルメイ少将)は、太田工場および小泉工場に対する爆撃作戦を実行に移したのです。以下に米第20航空軍司令部編纂の「タクティカル・ミッション・レポート」を参考に概要を記します。
(参照http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4002507)

参加部隊:第73爆撃航空団(B-29爆撃機:83機)および第313爆撃航空団(B-29爆撃機:35機)。計118機
離陸開始時間:2月10日0606時(日本時間)
爆撃時間:2月10日1505時〜1541時(日本時間)
爆撃高度:7925m〜8961m
目標に投弾した機数:84機
帰投したが目標に投弾出来なかった機数:22機
損失:12機(敵戦闘機によるもの:1機、事故および故障によるもの:3機、不時着:7機、原因不明:1機)
帰投時間:2月10日1910時〜2324時(日本時間)

この空襲に対して日本側は戦闘機部隊である第10飛行師団が迎撃に当りました。米側報告では日本軍戦闘機による損失は1機ですが、日本側は3機の戦闘機が体当たりを行うなど敢闘しています。また高射砲部隊は太田の直接防空に当たる独立高射第4大隊が全力射撃で応じ、撃墜3機、撃破11機を報じています(当然ながら途中経路に配備された他の部隊も射撃)。米側報告では高射砲による損失は無かったものの、29機が被害を受けています。

第73爆撃航空団のB-29。垂直尾翼にはアルファベットとスクエアマーク、数字を組み合わせた部隊識別記号が描かれています。この記号が使われたのは1945年3月までで、太田空襲時の記号もこれでした。第73爆撃航空団には4個の爆撃航空群が配されており、第497爆撃航空群が「A」、第498爆撃航空群が「T」、第499爆撃航空群が「V」、第500爆撃航空群が「Z」を付されていました。この写真は第73爆撃航空団第497爆撃航空群の所属機である事が分かります。
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燃料と爆弾を満載してマリアナ諸島の基地をやっとの思いで離陸し、日本本土までは片道約2000kmの長距離飛行。与圧室装備でB-17やB-24に比べれば居住性は向上したとはいえ、往復15時間にもおよぶミッションは乗員にかなりの疲労を強いたものと想像されます。しかも墜落すれば脱出出来たとしても陸地は敵地日本。または重厚な救助部隊が配備されているとはいえ海上への降下。当時は敵であったとしても、B-29のクルーの心身への負担には同情を禁じえません。
(写真http://www.nationalmuseum.af.milより)

第313爆撃航空団のB-29。垂直尾翼にはアルファベットとデルタマーク、数字を組み合わせた部隊識別記号が描かれています。この記号が使われたのは1945年3月までで、太田空襲時の記号もこれでした。第313爆撃航空団には4個の爆撃航空群が配されており、第6爆撃航空群が「L」、第9爆撃航空群が「X」、第504爆撃航空群が「E」、第505爆撃航空群が「K」を付されていました。この写真は第313爆撃航空団第6爆撃航空群の所属機である事が分かります。
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ところでこの写真、手前の荒々しい岩からは噴気が上がっています。恐らく占領直後の硫黄島ではないかと思われます。硫黄島は1945年2月16日から米軍が上陸を開始し、3月16日に完全占領を発表しました(日本側の玉砕発表は3月21日)。米軍は飛行場を占領すると、戦闘中ながら急速に滑走路の整備を行い、3月4日には最初のB-29が不時着しています。硫黄島は日本本土空襲より帰投中のB-29にとって格好の不時着地でしたが、太田空襲時はまだ日本側の支配下にありました。
(写真http://www.nationalmuseum.af.milより)

爆撃報告書より。太田工場とその周辺の航空写真ですが、特にキャプションがありません。おそらく爆撃後の写真と思われます。右下に天神山古墳が写っています。
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これも爆撃後の写真と思われます。工場以外の地域にも無数のクレーターが残っており、爆撃の生々しさを物語っています。この爆撃における太田工場の被害は3〜4割で、壊滅には至りませんでした。日本側は復旧に努め、操業を続行しています。太田工場はこの後もB-29だけでなく米空母からの艦載機や硫黄島からの米戦闘機の空襲を数次に亘って受け大きな被害を被っています。
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爆撃後の偵察により爆撃効果を評価したもの。
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終戦時の太田工場を写したもの。武装解除指令によりプロペラは外されていますが、陸軍の4式戦闘機「疾風」がズラリと並んでいます。度重なる空襲を受けつつも太田工場は「疾風」の主力生産工場として昭和19年4月から終戦まで約2800機を生産し、さらに海軍の零式艦上戦闘機のライセンス生産も行いました。劣悪な環境ながら空襲に耐えつつ操業を続けた中島飛行機の関係者の努力には頭が下がる思いです。
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(文林堂刊「世界の傑作機No19陸軍4式戦闘機「疾風」」より)

昭和22年11月撮影の航空写真。終戦から2年が経過していますが、太田工場の被害はまだ癒えていません。_湿林の高射砲陣地があった場所。中島飛行機太田工場。E貮霤監斬静脹悄づ型聖蓋妬および女体山古墳。ヅ貮小泉線。ε貮隶棒崎線。У貽光例幣使街道。┠嫁聾道太田妻沼線/埼玉県道妻沼太田線(現国道407号)、県道太田桐生線(現国道407号)。県道前橋館林線(現県道2号(前橋館林線))。休泊川。
イメージ 24

(国土地理院HPより)

下小林の高射砲陣地を拡大したもの。終戦2年にして陣地跡は開墾され、田畑と化しています。
イメージ 25

(国土地理院HPより)

昭和38年4月撮影の航空写真。円形の構造物らしきものが写っています。解説板には高射砲陣地は平成15年の調査で発掘されたとありますが、ひょっとしたらこの時に何らかの工事で一度砲座が1基だけ発掘されたのではないでしょうか。そしてまた埋められ、平成15年まで地中で眠り続けたのではないでしょうか。
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(国土地理院HPより)

猛暑の汗を拭きつつ、この砲座の上で高射砲を操り戦った独立高射第4大隊第3中隊の将兵に思いを馳せ、次の撮影地へ向かいました。
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上記以外の主要参考サイト
「日本陸軍高射師団について」http://www2u.biglobe.ne.jp/~surplus/tokushu28.htm
「碑 私たちの戦争体験」http://www.jswork.jp/img/jsebookno_143_842.pdf
「日本陸軍航空史」http://lab4.jp.apan.net/nishiko/murakawa/

(つづく)

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お久しぶりです。先週はまた総合火力演習に行ってきました。終戦記念日が誕生日の私には、8月は毎年お祝いよりも物を思わされる気分の季節でした。
SACさん、この記事は凄い。関係者の方々に読んで頂いたらと思います。
ちゃんと台座を保存しようという地元も素晴らしい。学校現場でも戦争についてはなかなか教えてないか、悲惨さばかりを強調するかですが、難時に必死で生産を守ろうとしていた忍耐力が戦後の復興に転化した面もあったのではと。

2015/8/30(日) 午前 9:07 [ 鉄火お嬢が行く! ] 返信する

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> 鉄火お嬢が行く!さん
ご無沙汰しております。総火演2度行かれたんですね。すごいです。タフですね。

中島飛行機は度重なる空襲や資材不足、人材不足にも関わらず操業を止めませんでした。それはやはり偉業として讃えるべきですね。たとえ負け戦と言えども。

2015/8/30(日) 午後 8:32 SAC 返信する

イオンモールでこうした戦争遺跡を保存しているとは意外ですね。奈良は戦争遺跡ではありませんが、イオンモール大和郡山建設中に平城京の羅城跡が発見されたので、それをわかるようなモニュメントが設置されています。企業に歴史を大切にするという考えがあるという事は大切だと思います。

2015/8/30(日) 午後 8:45 大納言兼加賀守 返信する

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> 大納言兼加賀守さん
こんばんは。発見された6基中1基だけとはいえ、よく保存してくれたものです。

奈良行きたいですねえ・・・。

2015/9/1(火) 午前 4:29 SAC 返信する

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