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群馬県の戦跡レポの3回目です。県内の戦跡については他にも書きたい場所がありますが、とりあえず今回で一区切りとします。 (前回http://blogs.yahoo.co.jp/sac_murakumo/56936584.html) 2015年8月6日木曜日「下小林の高射砲陣地跡」の撮影を終え、国道122号にて邑楽郡邑楽町へ。「竜舞東交差点」からは県道2号(前橋館林線)と重用。ほどなく邑楽町へ。 「大根村交差点」を左折し群馬県道・栃木県道152号(赤岩足利線)に入る。邑楽郡邑楽町藤川地区(戦時中は邑楽郡高島村藤川)の住宅地を抜けると・・・。 邑楽郡邑楽町秋妻地区(戦時中は邑楽郡高島村秋妻)に入る。工場や住宅が点在する広大な田園地帯が広がります。 あと1kmほどで栃木県との県境という地点に、長閑な田園風景には似つかわしくない案内板が立っています。 「B-29墜落地点」。今回の目的地です。それにしても暑い・・・。 案内に従って県道を左折、農道をちょっと走ると・・・。 右側に案内板がありました。 用水路の脇に立つ案内板。 なかなか立派な案内板です。 今から70年前、昭和20年2月10日の太田空襲(前回参照http://blogs.yahoo.co.jp/sac_murakumo/56936584.html)において、米軍は作戦に参加した118機のB-29爆撃機の内、12機を喪失しました。その内の2機がこの地に墜落しました。 関係要図。図中の清岩寺はこの後紹介するので御留意を。 写真まで添付されて親切な案内板です。米軍では大部分の部隊で、搭乗機にニックネームを付する事が許されており、墜落した2機のB-29はそれぞれ「ディーナーボーイ」(機番42-24815)、「スリックスチックス」(機番42-24784)と名付けられていました。「スリックスチックス」は中島飛行機太田工場を目前にして日本軍戦闘機の体当り攻撃を受け空中分解、一部が「ディーナーボーイ」に激突し、2機は当地に墜落しました。 これは墜落炎上する「ディーナーボーイ」。地元に住んでいた栗田国利氏(故人)が撮影したもの。栗田氏は中島飛行機の小泉工場(前回参照)に徴用されていたが、自宅方向にB-29が墜落したので心配になり自宅へ戻りました。幸い自宅は無事で、カメラを持って墜落現場に駆け付け墜落機を撮影しました。しかし警戒に当たっていた憲兵にカメラを没収されてしまいます。ところが栗田氏は没収寸前に撮影済みの乾板をポケットに隠しており、この貴重な写真が現在に残される事となります。 (参照http://blog.livedoor.jp/safetyisland/archives/51626329.html) 出撃直前、装備の点検を行う「スリックスチックス」の乗員たち。解説文にある通り、彼らはこの写真を撮った約8時間後に群馬の空で撃墜される事になります。機長マック・スローター大尉ら12名の乗員は機と運命を共にして全員死亡。当時は敵兵だったとはいえ、無情であります。 同じく「ディーナーボーイ」(機番42-24815)。 案内板の場所から未舗装の道に入ります。足利の山々が見えます。 右側を見ると赤い印が立っています。 「ディーナーボーイ」が墜落した現場を示しています。上掲の栗田氏撮影の写真はこの場所で撮られたのです。投弾前だったので機内の爆弾が誘爆して大火災になったそうです。 左側は「スリックスチックス」の尾部を除く主要部分が墜落した場所となります。遠景には太田市を象徴する金山が見えます。そしてその手前にある富士重工群馬製作所本工場(旧中島飛行機太田工場)もちょっと見えます。2機のB-29は攻撃目標のわずか5km手前で墜落しました。 (金山参照http://blogs.yahoo.co.jp/sac_murakumo/56131380.html) さて、「スリックスチックス」の尾部が墜落した現場に行ってみます。秋妻地区の閑静な住宅地を通って・・・。 矢場川に架かる「旭橋」が見えて来ました。 「旭橋」 墜落当時の旭橋は旧橋か旧旧橋ではないかと思われます。現在の橋の竣工年は確認出来ませんでしたが、新しい感じがします。矢場川は群馬・栃木の県境の川。対岸は栃木県足利市県町となります。 この旭橋の栃木側の上流側に「スリックスチックス」の尾部が墜落したそうです。 墜落現場には何の案内板もありませんでした。 しかし70年前、たしかにB-29「スリックスチックス」の尾部がここに落下したのです。 栃木側から見た旭橋。県境とは思えない雰囲気です。しかし暑いなあ。猛暑の無風。汗が噴き出します。 再び群馬側に戻ります。 旭橋から100mほど南にある清岩寺へ。 しかし暑い。熱中症になりそうな暑さ。暑さのせいか、人の気配は皆無。エアコンの効いた車から降りると、汗がたちまち噴き出しボーっとしてくる。炎熱酷暑の中をカメラを持ってトボトボと・・・。 戦争関係の慰霊碑が建つ場所へ。 ここに2機のB-29の乗員の慰霊碑があります。 「B29墜落搭乗員慰霊碑」。2機に搭乗していた23名は全員死亡。 「ディーナーボーイ」の11名の搭乗員。 「スリックスチックス」の12名の搭乗員。 上掲写真を拡大したもの。出撃前、装備の点検を行う「スリックスチックス」のクルー。戦闘配置時に着用する酸素マスク、ヘルメット、防弾ジャケットを身に着けています。整列した部下の装備を点検する背中を向けている人物は、おそらく機長のマック・スローター大尉ではないかと思われます。 戦地に赴く彼らは当然ながら一定の覚悟はしていたと思いますが、しかしまさかこの約8時間後に自分たちが死ぬとは思っても見なかったでしょう。目撃談によれば、2機のB-29は空中衝突後、クルクルと木の葉のように舞いながら落下していったとの事です。乗員たちは回転する機内で遠心力によって脱出する事も出来ず、死の恐怖の中で最期の瞬間を迎えたのだと想像されます。出撃前に撮られたこの写真が、彼らの遺影となったわけです。当時は敵だったとはいえ、異郷の地で短い人生を終えた彼らを哀れに思わずにはいられません。 誰が2機のB-29を落としたのか?前述の通り、まず「スリックスチックス」に日本軍の戦闘機が体当り攻撃を行いました。これにより同機は空中分解し、一部が「ディーナーボーイ」に激突、2機のB-29は墜落しました。では、この体当り攻撃をした日本軍戦闘機はどこの部隊の誰が操縦していたのでしょう。この昭和20年2月10日の太田空襲では、陸軍の第10飛行師団が主力となって防空戦闘を行いました。この中で、3名のパイロットがB-29に体当り攻撃を敢行しています。 氏名階級:吉沢平吉中尉 所属部隊:飛行第47戦隊(成増飛行場) 使用機:4式戦闘機「疾風」または2式単座戦闘機「鍾馗」(おそらく疾風の可能性が高い) 氏名階級:梅原三郎伍長 所属部隊:飛行第244戦隊(調布飛行場) 使用機:3式戦闘機「飛燕」 氏名階級:倉井利三少尉 所属部隊:第1練成飛行隊(相模飛行場) 使用機:4式戦闘機「疾風」 吉沢中尉の戦闘状況については以下を御参照ください。 (「成増陸軍飛行場秘話2〜小隊長ハ還ラズ〜」http://akatsuka-tokumaru.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-e094.html) 梅原伍長の戦闘状況については以下を御参照ください。 ({飛行兵の慰霊碑 筑西の空に散った命」http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/sengo70_ibaraki/list/CK2014102002100003.html) 倉井少尉の戦闘状況については以下を御参照ください。 (「一錬飛本土防空 航空特幹生の苦労」http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_348_1.pdf) 以上を読んでみると、おそらく倉井少尉が「スリックスチックス」に体当りを行い、「ディーナーボーイ」を道連れにしたと判断して良いと思われます。 昭和二十年二月十日、相模湾上空より関東方面に侵入したB29の編隊は、群馬県の中島航空機の太田製作所を目標に来襲したようで、この工場が「キ八四」の機体を製作する主力工場であることが米軍に察知されていたか否かは知るよしもなかった。勇躍、僚機と共に出撃した倉井教官は、群馬県上空でB29の梯団一九機を発見する。迎え撃つのは僚機と二機のみで、敵機の集中射撃を浴びながら梯団の長機目がけて突込み、体当りを敢行し、ついに帰らざる荒鷲となる。僚機もまた多数被弾し、墜落途中で運よく落下傘が開き一命を取り止める。その僚機であった坂田軍曹の報告により、ベテランで胆力がある倉井教官機はB29梯団の先頭機(編隊長機)の尾翼に体当たりした。操舵性を失った長機に後続機が追突し、一挙に二機の超重爆撃機を葬った。 倉井少尉搭乗の4式戦闘機「疾風」のイラスト。敵機を阻止するために決死の覚悟の体当り。まさに「護国の鬼」です。後世を生きる我々はただ無心に合掌し、冥福を祈るのみです。 (ハセガワ製の模型のボックスアートより) B-29乗員の慰霊碑の隣には昭和20年2月16日に太田上空で高射砲に撃たれ足利市に墜落した米海軍艦載機の乗員慰霊碑もありました。空母「バンカーヒル」(CV-17)搭載の第84雷撃飛行隊(VT-84)所属のTBM雷撃機「機体番号38316」の乗員3名(全員死亡)の慰霊碑です。 昭和20年3月、被弾しつつも「バンカーヒル」に帰還したVT-84のTBM雷撃機。足利市に墜落した「38316」もこれとほぼ同様のマーキングだったと思われます。この写真の機体は辛うじて帰還出来ましたが、「38316」は帰還出来ず、3名の乗員を道連れに足利の地に墜落しました。 (文林堂刊「世界の傑作機No42TBF/TBMアベンジャー」より) ちなみに空母「バンカーヒル」は昭和20年5月に特攻機2機の攻撃により大火災を起こし戦列を離れる事になります。特攻機2機の内の1機を操縦していた小川清少尉は高崎出身です。群馬県とは数奇な縁があり、いずれまた一文を書きたいと思っています。 衆議院自民党の笹川議員の追悼文。 命を賭して戦った日米将兵に思いを馳せつつ、私は猛暑の当地を離れました。戦争は人類の「業」であり、その業の犠牲の上に現在の我々があります。ただ単純に「戦争ハンタイ」「九条護れ」だけでは平和は維持出来ません。日米安保と防衛努力の庇護の中で護憲の幻想に包まれぬくぬくと暮らす日本人。戦後70年経っても未だに「憲法違反か否か」の議論しか出来ず、現実的な安保論議も進められない現状を見ると、「あの戦争は何だったのか」と思わざるを得ません。 上記以外の主要参考サイト 「神風特攻隊戦果一覧表」http://kamikaze.wiki.fc2.com/
「日本陸軍高射師団について」http://www2u.biglobe.ne.jp/~surplus/tokushu28.htm 「日本陸軍航空史」http://lab4.jp.apan.net/nishiko/murakawa/ (おわり) |
歴史探訪
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はじめまして。
近くに住んでいながら、初めて知りました。
当時の状況も詳しく調べてみたくなりました。
近々、自分の目で見に行きたいと思います。
2015/9/1(火) 午後 3:28 [ onm*ki*115 ]
SACさん、お久しぶりです。
こんなことがあったなんて、恥ずかしながら知りませんでした。
大変勉強になりました。
ありがとうございます。
2015/9/1(火) 午後 8:12 [ 迷道院高崎 ]
> onm*ki*115さん
こちらこそ初めまして。いろいろ調べてみてください。そしていろいろ自分にも教えてくださいね。
2015/9/3(木) 午前 6:26
> 迷道院高崎さん
こちらこそお久しぶりです。知る人ぞ知るという感じですよね。自分も数年前に知りました。いろいろ案内板を設置してくれた地元の人たちに感謝です。
2015/9/3(木) 午前 6:27
はじめまして。
戦時中、群馬に墜落したB29について調べていて、こちらのブログにたどりつきました。
この時期、TV等で戦争関連の番組があり、戦時中、中島飛行機で働いていた父がB29の残骸をトラックで回収に行った話をしてくれたのです。父が中島飛行機で働いていたことは知っていましたが、B29の話は初耳でした。父のトラックは墜落現場までは近づけなかったらしいのですが、その後工場に運び込まれた残骸を見たらしいです。機体の1部に絵が描かれていて、女性が日本兵らしい人物の足元でマッチを擦って火をつけるような絵だったそうです。
工場近くの山からB29が飛んでいるのを見ていたらしいのですが、高射砲が全く届かず、歯がゆい思いをしたそうです。
こちらのブログで色々詳しく知ることが出来ました。
ありがとうございました。
父が元気なうちに群馬に行ってみたいです。
2017/8/15(火) 午後 11:29 [ iti*ku*tar* ]
> iti*ku*tar*さん
こちらこそ初めまして。読んでくださってありがとうございます。中島飛行機は大工場だったので働いていた方も多かったでしょうね。ちょっとした体験談を掘り下げて後世に伝えるのが我々の務めだと思います。
2017/8/17(木) 午前 3:21
> iti*ku*tar*さん
> iti*ku*tar*さん
2017/12/4(月) 午後 4:04 [ ara*1*592*02 ]
iti*ku*tar*さん
あなたと同じく太田墜落B29を調べています。
父上様のトラックでの残骸回収の話是非、もう少し詳しく教えて下さい。マッチを擦っている写真あります。太田工場での残骸の写真も
持っています。連絡をお願いします。
2017/12/4(月) 午後 4:25 [ ara*1*592*02 ]
今は田んぼの中に立派な道ができています、当時は押し車もやっとの
あぜ道でした、どうやってあ巨大な機体を持ち出したのでしょうか
搬出の場を見た方から話を聞いた方。教えてください。
2017/12/7(木) 午前 7:38 [ ara*1*592*02 ]
> ara*1*592*02さん
メッセージ頂いていたのに全く気付かずすみませんでした。
ara*1*592*02さんのゲストブックの方にお返事させて頂きました。
2019/2/25(月) 午後 10:51 [ iti*ku*tar* ]