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昨年、県道2号(前橋館林線)の探索を行った時から気になっていた館林市日向町にある館林市指定史跡「日向義民地蔵」。今年4月に5年に一度の供養祭が行われたそうですが行けませんでした。しかし先日ようやく行って来ました。 (関連記事http://blogs.yahoo.co.jp/sac_murakumo/56286836.html) 館林市に入ります。 ここは館林市日向町。 館林市に入って200m足らず、左側に「日向義民地蔵尊」が見えて来ます。「日向交差点」のすぐ手前です。 蛇足ですが、日向交差点を左折すると東武伊勢崎線・多々良駅があります。青看板を見るとまるで日向交差点が栃木県道・群馬県道148号(野田多々良停車場線)の交点のように見えますが・・・。 実際はこうなります。日向交差点は県道371号(多々良停車場線)と国道122号の交点。県道148号との交点にはなっていません。まあ、道路マニア以外にはどうでもいい知識ですが・・・。 (Yahoo地図で作成) 閑話休題・・・。 さて、日向義民地蔵尊です。左側の道が国道122号(および県道2号)。右側の道はひょっとしたら「古河往還」だった道かも知れぬが、よく分からない。 (古河往還:太田にて日光例幣使街道と分岐し、館林を経て古河の奥州街道に至る旧街道。現代の群馬県道2号、国道122号、国道354号等を合体したような道) ここはかつて日向刑場があった場所。館林藩領域等の罪人の処刑が行われていました。群馬・栃木県境を成す矢場川(かつての渡良瀬川本流)がすぐ近くを流れています。 場所はここ。日向交差点のすぐ手前。 (Yahoo地図で作成) 拡大したもの。ZENRINさん、そこは県道148号じゃないよ・・・。 (Yahoo地図で作成) 説明文。上が文語体、下が口語体。 口語文に改行、句読点等を加えたものを載せます。 寛文元年(1661年)、徳川三代将軍家光の第四子である徳川綱吉が25万石で館林城主になった。 この時の館林藩の城付の領地は、上野国館林領から、新田領、桐生領、下野国佐野領、足利領までに及んだ。 綱吉は寛文から宝永年間にかけて、領地全域の検地をおこない年貢の増収を計ったが、こうしたなか延宝3年(1675年)の冬、領内の台之郷、石原、富田(現在は太田市域)などの村で年貢徴収にあたり、役人が「目こぼれ」と称し、年貢米1表が3斗5升のところを1斗余分に徴収するという事件がおこった。 これに対し、山田郡台之郷村の小沼庄左衛門、森尻右馬允、栗原四郎衛門、富田村の小沼久四郎、石原村の栗原三左衛門をはじめとする18名の名主たちが代表となって、訴状を作成し、藩に申し立てを行ったが、役人に聞き入れられなかったことから、江戸へ上がり藩主に直訴を行った。 これによって、農民救済の願いはかなったが、当時ご法度であった直訴を行った首謀者として18名は捕らえられ館林藩に引き渡され、延宝4年(1676年)、日向刑場において処刑された。 その後、元禄17年(宝永元年、1704年)、農民の犠牲となって処刑された18名への報謝の意を込め、その冥福を祈るため、日向村をはじめとする周辺の60数ヶ村の村民により一体の地蔵尊が造られ、供養されてきた。以後「義民地蔵」と呼ばれている。 ここは日向刑場跡でもあり、江戸時代の領主と領民の係わり、特に年貢取り立ての状況を知る上で欠くことのできない遺跡である。 館林教育委員会 平成12年3月20日設置注:領主の綱吉は江戸定府(参勤交代を行わず大部分の家臣と共に神田御殿に詰める)であり、領主への直訴は江戸に上る必要があった。綱吉の時代、館林藩領域では渡良瀬川の付け替え等河川改修で大々的な開墾が行われ、現在の礎になった。しかし綱吉の生涯において館林を訪れたのは一度のみ。日光参詣の帰路に立ち寄っただけだという。 地蔵堂に人の気配は無く、地蔵を拝む事は出来ないかと思ったが・・・。 参詣者の配慮か戸のガラスが1枚外されており、地蔵を見る事が出来ました。合掌。 |
歴史探訪
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