SACの部屋

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歴史探訪

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今回も群馬県の義民を紹介します。

2015年9月10日木曜日

台風一過でも晴れず、鬼怒川堤防決壊のニュースも知らぬまま、小雨の中を義民関係の撮影に出かけた。

国道254号を富岡方面へ。高崎市吉井町に入る。
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「黒熊交差点」。吉井町黒熊と小串の境界を走る国道254号。
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黒熊交差点を過ぎると右側に光心寺があります。
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場所はここ。住所としては吉井町小串になります。
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義民堀越三右衛門と三木市右衛門が祀られています。南毛霊場札所としても知られているようです。
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浄土宗光心寺。高崎市街地にある安国寺が管理しているようです。常駐の住職はいません。
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解説板。
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解説文。一部手を加えてあります。
 義民を祀る光心寺

 この寺は、義民堀越三右衛門、三木市右衛門の例を弔うために建立されました。江戸幕府四代将軍家綱公の世、寛文年間は凶作が続いて村人の困窮は甚だしかったのです。然るに、時の地頭倉橋内匠は苛酷なる重税を取り立て、特に小串、黒熊、白石、三ツ木の四ヶ村がその極に達し、同胞相擁して死を待つ有様でした。

 緑埜村の名主堀越三右衛門は、この球状を救うべく地頭所に減租を哀願したが聞き入れられず、ますます重税を課せられました。三右衛門は、死をもってこの危機を救おうと妻子に別れを告げ、江戸の幕府へ直訴しました。もとより直訴は法度なる故に捕らえられ、小串松原において磔の刑に処せられました。時は寛文7年(1667年)10月11日でした。なお更に一族の根をも絶たんとして幼児を捕らえ、長男は村人に匿われて難を逃れましたが、次男、三男はその三日後に斬殺されました。

 地頭倉橋は、少しも反省の色もなく増税を加えたため、黒熊村の三木右衛門は、三右衛門の志を継ぎ、また直訴を企てたが探知されて獄舎に繋がること8年、遂に国払いの刑に処せられました。元禄12年(1699年)10月23日没と伝えられます。

 この両氏の犠牲によって、寛文8年(1668年)倉橋内匠は改易となりました。村人の喜びは限りなく、これ偏に両氏の恩徳の賜と三右衛門が処刑された跡に、この両義民の霊を弔うため四ヶ村および近郷の人々の力によって光心寺が建立されました。それ以後毎年この霊を弔うため回向法会を厳修しています。

                              合掌

        平成元年4月吉日 義民堀越三右衛門・三木市右衛門遺徳顕彰会


亨保2年(1717年)に一度焼失したそうですが、寛保2年(1742年)に再建されたそうです。
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「遺徳顕彰之碑」。群馬県知事だった清水一郎(在任1976年〜1991年)の書。
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堀越三右衛門の墓の場所は事前に把握していたが、三木市右衛門の墓の場所は分からなかったので、これは助かる。かなりアバウトな地図ですが。
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続いて藤岡市緑埜にある堀越三右衛門の墓へ。国道254号から県道173号(金井倉賀野停車場線)へ。上信越自動車道の高架を過ぎると藤岡市緑埜に入る。
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「緑埜交差点」の一角ある平井公民館(右側)に案内が立つ。
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公民館の敷地に建つ案内。かなりくたびれている。ここから先が分からない。「ここより二〇メートル・・・」の消えかかった文字を頼りに歩いてみる。公民館の駐車場に停められます。
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直接関係無いのですが、駐車場の敷地に道標がありました。
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江戸時代の道標か?と胸踊りましたが、大正天皇即位記念なので、さほど古くはない。
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どこだろう???と住宅地をちょっと歩くと・・・。
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案内が立っていました。これは分かりにくい。注意していないと見落とすかも。
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路地を進む。犬にワンワン吠えられる。小雨降る平日の住宅街。カメラを持って歩く自分。プチ不審人物状態ですな(笑)
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場所はここ。737-6の辺りが平井公民館。付近に堀越三右衛門の生家跡もありますが、個人宅で住人不在だったので撮影しませんでした。
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堀越家墓地。合掌して入らせていただく。それにしても蚊がスゴイ。いっぱい刺されました。
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300年近くに亘る堀越家の人々の墓標がズラリと並ぶ中、特別に構えられた三右衛門の墓がありました。合掌。
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墓碑もありました。
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碑文。一部手を加えてあります。
 義民 堀越三右衛門の墓

 江戸時代、寛文年間領主の苛酷な重税に苦しむ庶民を救うため、この窮状を幕府に直訴して捕えられ極刑に処せられた義民堀越三右衛門の墓である。

 三右衛門は緑埜村の名主で近郷数ヶ村の代表として直訴に及んだが当時の法度にふれ、領主によって寛文7年(1667年)小串松原において磔の刑に処せられた。またその二男、三男も斬首された。

 この領主による暴挙が幕府の知るところとなり、領主は改易され以後善政が行われた。村人は報恩感謝の誠をもって三右衛門の霊を弔うため小串に光心寺を建立し回向を修している。

 法名 光心院葉散道悟居士

             平成16年11月佛歓日改修 一行山光心寺第十一世 法誉学真謹

続いて高崎市吉井町黒熊にある三木市右衛門の墓へ。

小高い場所にある三木家墓地。さすが名主です。かつての村を見下ろせる場所だったのかもしれません。背後には上信越自動車道が通っています。
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場所はここ。高崎市と藤岡市の境界辺りにあります。
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どこを向いても三木さんの墓ばかり。江戸時代の墓も多い。どれでしょうねえ・・・と辺りを見回す。カメラを持って墓地をウロウロする自分。かなりの不審人物である。

そしてようやく見つけました。
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墓碑が無ければ見つけられなかった・・・。
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碑文。一部手を加えてあります。
 義民 三木市右衛門の墓

 市右衛門は寛文7年(1667年)地頭の苛政虐民甚だしきを見るに忍びず、庶民の窮状を救わんと直訴を企てど探知され獄舎に繋がるること8年、遂に国払いの刑に処せらる。

 然りと雖も此の義挙は公儀の知る所となり庶民を救うこと大なり。村人は報恩謝徳の誠を捧げ光心寺に義民として祀らる。
                               合掌

                 平成3年1月 三木家一族改修 光心寺第十一世 法誉学真謹書

(つづく)

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