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県道216号(長久保郷原線)にて安中市松井田町を走る。 増田川に架かる「姥堂橋」を渡ると・・・。 松井田町下増田と松井田町国衙の境界を進む県道216号。姥堂橋を渡った直後に右折して田んぼ道に入ります。 未舗装の田んぼ道を進む。 この道でいいのかね〜???と思いつつ進むと・・・。 潮家墓地の所を右折します。 右折しました。お、何かあるぞ。 どうやら左側が目的の場所らしい。 ありました。潮藤左衛門顕彰碑。 場所はここ。安中市松井田町下増田にあります。増田川右岸です。 「義人潮藤左衛門散華之地」 顕彰碑。合掌。 碑文。一部手を加えてあります。 顕彰碑 世は八大将軍徳川吉宗の時代、元禄の華やかな時も過ぎ「享保の改革」断行の真只中であった。 その頃、当地は安中藩内藤丹波守政森の支配下、天候不順や浅間山の噴火による大凶作が続いた。その上、重い年貢を課せられ課役も碓氷峠越え坂本宿への人馬の強制的な割り当てなど、時期を問わず過酷を極め、農民の窮状は目を覆うばかりであった。 享保12年(1727年)3月、当下増田下村名主藤左衛門ら安中領内21ヶ村全名主組頭が会合、藩に対して幾度となく年貢課役減免の要請を行い、ようやく同年4月14ヶ条からなる譲歩案が提示された。 下増田上村市左衛門、峰村次左衛門ら7人は承服しがたいと強い不満を表し、藩より注意人物の扱いとされ、同年11月以降「村外に出ること」「他村と同調すること」を固く禁じられた。 しかし藤左衛門は納得できず密かに江戸へ向い、幕府へ直訴(越訴)の機をうかがっていたが、藩の厳しい探索により捕えられ一連の騒動の首謀者として翌享保13年(1728年)6月29日、増田川姥堂河原中州にて打首の刑に処せられたのである。 その後、安中藩は第二、第三の騒動を恐れ、年貢課役のさらなる減免を計ったと言われている。身を捨てて村民を救った郷土の義人潮藤左衛門の偉大なる功績を末永く後世に伝えたく地域をあげてここに顕彰碑を建立する。 平成15年3月吉日 藤左衛門顕彰碑建立委員会 松井田町教育長小林一郎書 「寄潮藤左衛門翁顕彰碑建立」 碑文。一部手を加えてあります。 封建領主専制の世、苛斂誅求重税を課す。 領民悉く塗炭の苦しみ窮状の農民を救済せんと欲し、減税の嘆願数度に及ぶ。 名主の代表密かに会合し、鳩首協議し直訴を決す。 死を決して遠路江戸に赴く。 時に利あらず謀議露見し、藩吏に捕えられ郷里に護送さる。 直訴の罪は軽からず斬首となる。 時に享保13年夏。哀れ増田川原の露と消ゆ。 義人潮藤左衛門。 翁の偉業を後世に伝承せんと、此の地に建立す。 安中市大竹 瀬下正親謹詠 九十九かるたの石碑。「人のため世のため散った藤左衛門」。 なかなか立派な顕彰碑でした。ただし周囲には電気柵が張られているので注意。 傍らを流れる増田川。向こうに見えるは先述の姥堂橋。このすぐ下流で九十九川に合流、九十九川は安中中宿にて碓氷川に合流。碓氷川は高崎で烏川に合流し、烏川は利根川に合流、太平洋へ。 長雨が続き水量は多い。河川改修により今は護岸が整備されていますが、藤左衛門が処刑された当時はもっと河原っぽい雰囲気だったのでしょう。 収穫をあと一ヶ月後に控えた稲穂が頭を垂れる。 わずかな平地を切り拓き米を作る。藤左衛門の時代の耕作地は今と比べれば貧弱だったでしょう。 米のその一粒一粒が、現代人の目からは想像も出来ないくらいに、かけがえのない時代がありました。江戸時代だけではない。たかだか半世紀ちょっと前までそうだったはず。米を、食料を、大事にしましょう。 曼珠沙華が開花の時期を迎えていました。畦のあちこちに咲く。 |
歴史探訪
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