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何回かに渡って続いてきた群馬県の義民・義人シリーズ。県内ではもっとも有名な杉木茂左衛門を紹介して一区切りとさせていただきます。3回に分けて紹介します。 「天下の義人茂左衛門」群馬県でカルタといえば「上毛カルタ」。県外の方にはまったく知名度はりませんが、このカルタはすごいです。県民に群馬県の素晴らしさ、偉大さを教え、県民としての誇りを実感させるためのカルタです。幼少期から徹底的に教え込まれ、それはあたかも「洗脳」と言っても過言ではないでしょう。このカルタを知らない群馬県民はほぼ皆無といってもいいでしょう。しかし問題なのは、札の字句や絵柄は徹底的に憶えるのですが、その内容についてはほとんど教育されません。カルタ取りのスポーツ的側面のみに特化しているのはいかがなものか。 その中でも「天下の義人茂左衛門」は内容が分かりにくいもののひとつと言えるでしょう。子供にとって「天下の義人」という言葉も分かりにくいし、「茂左衛門」という人名らしきものが記されながら、絵札には月の出と寺社らしき建物が描かれていて内容が伝わりにくい。札の裏には解説の短文も記されていますが、子供はほとんど読まない。大人も読まない。意識して知ろうとしないと、茂左衛門の物語に触れる事は出来ません。 この絵札に描かれた建築物は現利根郡みなかみ町月夜野にある茂左衛門を祀る千日堂。背景は三峰山からの月の出。「平安時代中期の歌人で三十六歌仙の一人、源順(みなもとの したごう)が東日本の各地を巡行した際にこの地を通り、三峰山から昇る月を見て「よき月よのかな」と深く感銘し、歌を詠んだと伝えられ、これが「月夜野」の町名の由来と伝えられる」(wikiより)。ちなみに実際にはこのアングルから千日堂を見た場合、三峰山が背景になることはありません。したがって、この絵札の絵柄はフィクションです。 これは今年(2015年)4月12日に撮影した茂左衛門地蔵尊千日堂。天気はイマイチでしたが桜が満開でした。 (参照http://blogs.yahoo.co.jp/sac_murakumo/56753006.html) この時は家族同伴の花見ドライブだったので、細かい撮影は見送りました。 義人杉木茂左衛門之碑。公爵徳川家達の書。 茂左衛門地蔵尊由来記。 茂左衛門地蔵尊由来記 今から凡そ三百余年前のこと上州沼田領三万石の城主真田伊賀守信直は華美放漫の政治をした為に藩の財政は窮乏したので、これが立て直しの為領民の苦境をも考えず寛文年間再度に亘り無理な検地をして三万石を約五倍にあたる十四万四千余石とし、その上、凶年続きで困苦のどん底にあえいでいる百姓から過酷な取立を行い滞納者には残酷な刑罪に処した。 この惨状を見るにしのびず利根吾妻勢多の三郡百七十七ヶ村の領民の為に一命を捨てる覚悟で立上ったのが月夜野の百姓茂左衛門である。茂左衛門は姓を杉木と言い義気に富んだ中流の百姓であった。 天和元年(1681年)正月、領主真田伊賀守の非行、領民の惨状をしたためた訴状を懐にひそかに江戸に上り、上野輪王寺宮から将軍家へ巧妙な方法で直訴に成功した。 時の将軍五代綱吉は取調べの結果罪状明確なので伊賀守は改易沼田城破却の運命となった。 茂左衛門は本望をとげたのを見とどけたので、ひそかに郷里に帰り妻に別れを告げ自首を決意して江戸に向かうところを小袖坂で幕吏に捕らえられ、江戸送りとなり取調べの上、所成敗となり天和二年十一月五日、月夜野竹の下河原で磔刑に処せられた。 領民はその死をいたみ刑場のあとに地蔵尊を建て供養を続け、その遺徳をしのびきたが大正十一年旧領地をはじめ各地の特志家からの浄財によって、ここに茂左衛門を祀る千日堂が建立されたのである。 茂左衛門地蔵尊大祭 春秋彼岸中日 平成七年六月吉日 茂左衛門地蔵尊千日堂運営委員会(一部手を加えてあります) 改めて9月4日に一人で訪れました。秋の長雨が続いていましたが、この日は束の間の快晴。 上毛カルタとほぼ同じアングルで撮った千日堂。 この日はしっかりと撮影しました。案内人の方にはたいへん親切にしていただき、一時間近く歴史談義をさせていただきました。お土産までいただきました。本当に感謝です。 茂左衛門地蔵。 悪名高き伊賀枡。本来は幕府公認の新京枡をもって1升の単位としたが、伊賀守の時代の沼田藩ではこの大きめに作られた伊賀桝をもって1升とした。このため、百姓達は法外な年貢を強要される事となる。 ちょうど団体客が来ていたので、講堂にて一緒に映像資料を見させて頂きました。 この日(2015年9月4日)は茂左衛門縁の地をあちこち回りました(次回紹介)。各地の所在地はスマホに入れておいたのですが、実は不覚にも自宅に忘れてきてしまいました。案内人の方に詳しく教えて頂き感謝感謝であります。 松代藩相続争いが伊賀守の苛政を招く遠因となる。 松代藩相続争い(wikiより) 信直は真田信之の庶長子である信吉の次男として生まれる。当時の沼田3万石は独立した藩ではなく、松代藩の分領(分地)であった。沼田は信吉死後、信利の兄の熊之助が統治していたが、寛永15年(1638年)に幼くして没した。当時は信直も兵吉を名乗る3歳児だったため、信直の叔父に当たる真田信政が相続した。信直には沼田領のうちから利根郡小川村に5000石を分与され、小川城跡の二の丸を陣屋として、寛永16年(1639年)から明暦3年(1657年)まで母親と共に居住した。 明暦2年(1656年)、祖父の松代藩主真田信之が隠居したのに伴い、沼田領主であった叔父信政は本家松代藩を相続し、沼田領は代わって信直が領有することになる。 信政は2年後の明暦4年(1658年)2月に死去した。松代藩はまだ存命だった隠居の信之の決定により、信政の子の幸道を後継者とし、幕府に届け出た。一方で信直は自身が信之の長子信吉の子であることを理由として「真田家の、松代藩の正統な後継者は自分である」と幕府に訴え出て幸道の本藩相続撤回を求めた。 信直には正室の実家の土佐藩や老中で下馬将軍酒井忠清が後ろ盾となり、大規模な家督騒動を展開したが、6月、幕府は幸道をもって松代藩の後継者と最終決定した。このとき、幕命により沼田領は松代藩から分離独立させられ、信直を藩主として沼田藩として立藩した。(一部手を加えてあります) 以下に講堂に展示された絵物語にて茂左衛門直訴の一代記を紹介します。 (説明文には一部手を加えてあります) 「大阪城落城の跡、東軍(徳川)に属した真田信幸は功績により俸禄を加えられ松代10万石を本拠地にした。伊賀守(兵吉)が幼少なので月夜野小川城にあずけ、沼田城3万石は叔父の大内記信政に預けられた」 「沼田領のような山間の痩せ地、下田畑の多い地方では、いくら無慈悲に誅求しても、3公7民にも達し得なかった。それなのに普請道楽から酒池肉林へと云うのだから検地してあらゆる物に課税へと勧めた。その上通例1俵が4斗入りなのに、1俵につき伊賀桝(4升8合6勺)に一杯ずつ余分に納めさせた」 伊賀守は年貢以外にも多くの付加税を課した。 「井戸には井戸役、窓には窓役、婚姻には婚姻役、出産には産毛役、百姓の使う鍬には鍬役、川で魚を獲れば川役、網役がかかるといった誅求ぶりで、この悪政のもとに呻吟する領民の惨状ぶりは、目も当てられぬものがあった」 (参照http://space21.info/mozaemon.html) 「沼田領真田家の財政は叔父大内記信政の時代にすでに破綻に瀕していた。それに更に伊賀守の普請道楽から酒池肉林が禍した。叔父は破綻した財政を立て直すには、増税しかない為検地をさせ従前の3万石を4万2300石に打ち出した。伊賀守は更に松代に対抗するように10万石にしようと云うのだから乱暴とも無鉄砲とも形容の詞が無い。検地の対象は利根郡、吾妻郡、勢多郡の177ヶ村である」 検地の様子。稲作に適さぬ荒地も耕地と見なすという無茶な検地でした。背景には谷川岳が見えます。 「検地して14万4213石2斗4合(1石2.5俵)とした。3万石(75000俵)から14万4213石(360532俵)にした。その他1俵につき伊賀桝(4升8合6勺)一杯を余分に納めさせたから、実に5倍の増税である。余りの非道は、悪役人自身も末恐ろしく思われた」 「12月20日までに年貢を納めなければ、役人が家捜しの上、蓄えておいた来年の種籾まで強奪し或いは田畑家屋敷家財道具を競売し尚不足あれば、人質を取って親類縁者を呼び出し、眼前に呵責を加えて身代金を償わせる。期限内に納められないと、直ぐに捕らえて水牢に打ち込む、酷寒の水牢に投げ込まれては生命のあるべき筈がない。八寒地獄にて命とられた者は数知れない」 「搾取」という言葉すら尻尾を巻いて逃げ出すほどの過酷な取立てです。300年前の事とはいえ、激しい怒りを禁じえません。 「重税に苦しむ百姓に飢饉が追い討ちを掛け、餓死する者が相次ぎ、他の領地へ逃げ出す者が続出した」 領民の脱出を阻止すための関所が各地に設けられたため、道なき道を行く脱出行はこれまた困難を極めました。 「延宝2年6月江戸鎌倉河岸に新邸が落成した。伊賀守は有頂天になって、行列美々しく参観に乗り出した。道中館林領内では、供先を切ったとて頑是ない幼女を切り捨てにした。当時の館林城主は宰相綱吉で、その事を聞くや暴虐に頗る眉をひそめた」 「延宝3年8月には、殺生禁断の御朱印地、迦葉山に領内の百姓並びに家中のもの共を狩り集め大仕掛けな巻狩を催して、霊域を冒瀆した」 忙しい農民達に仕事を休ませ、その農民達を猟犬の代わりとし、山中を走り回らせたと伝えられます。何という悪虐ぶりでありましょうか。 「両国橋の架け替え、木橋の寿命がつきて延宝8年架け替えの布令が出された。真田家出入りの大和屋が落札した。伊賀守は用材の有無も事の難易も百姓の迷惑等も考えず、横受の相談せしめ手付金2000両を受け取った。二度の検地に種籾まで奪われ餓鬼道に喘いでいる百姓に、この助合はさらに焦熱の苦しみを添えるものであった。この年5月江戸では将軍家綱公が他界し、世子がないので館林宰相綱吉が入った」 用材調達の契約金は3000両とも言われています。沼田藩は用材納入のため、仕事に忙しい農民を動員したものの、納期を延期しながらも規格に合った用材を納められませんでした。動員人夫延べ16万8000余、費用8127両。大赤字でしかも納期を守れず。無理な作業で多くの農民が犠牲になったとの事で、無計画という言葉では済まされない事件でありました。この一件が後の沼田藩改易の大きな要因へと繋がります。 (参照http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2012/11/post-c62d.html) 「延宝8年11月、真田政所村の名主松井市兵衛が虐政に堪えかねて願書を携え支配向きへ訴訟のため出府した。願書は幕府の目付けに留め置かれたが、その身は故郷へ送り還され牢舎1年、越訴の廉で天和元年12月29日に斬首に処された。世に首斬市兵衛と呼ばれ、今尚市兵衛地蔵尊として祀られている」 直訴は失敗に終わったものの、この松井市兵衛の犠牲は茂左衛門に並ぶものです。茂左衛門と共に末永く記憶されるべき人物であります。 「月夜野は伊賀守によって取り立てられた町だから町役人や肝煎は、久しい間の伝統で伊賀守に楯突くようなことは出来なかった。伊賀守の恩顧は充分にわきまえていた。私恩を以って公憤に代えることは茂左衛門の良心が許さなかった。 「直訴しかない」 吾妻郡須川村、天台宗大宝院住職昌月法印の手で願書が浄書された。将軍に直訴を決意し伊勢参りと称して茂左衛門は妻子と別れ江戸に向かう」 「江戸に着いた茂左衛門は、上訴の方法についてあらゆる苦心を廻らした。股鑑近く政所の市兵衛にある、前者の轍をふんではならぬ。義人救世の秘策が生れ出した。訴状を金菊の紋章を付した高蒔絵の文箱に納め、上野輪王寺宮御用函の体に繕い中山道板橋の茶屋に故意に置き忘れ、茶屋の主人から宮家へ返納させ、尊貴の御手許を経由して将軍家へ回付されるようにした」 「板橋の茶屋つるやの主人は、不審に思い風呂敷の中を改めたところ将軍宛の文書に驚き東叡山に持参した」 「東叡山輪王寺宮は五代将軍綱吉公に訴状を手渡す。上野法親王宮から、沼田領の秕政を聞き茂左衛門の願意を取り上げられたも故なきにあらずである。伊賀守糾明の十ヶ条に、道中にて幼女のわきまえなき慮外を咎め切り捨てをなせしことを数え、「伊賀守も多くの子供がありながら乱暴者じゃ、憐憫なき邪慳者じゃ」と嘆いたと伝えられている」 「茂左衛門の訴状が、昌月法印の手によって書かれたことが露見した。不惜身命、7万の生霊のために、その時が来たのを知った昌月は後顧の憂いなきよう妻を離別し、後事を弟に託した。崇高い人格、測り知れぬ博識、聖者の一語々は鉄石をも貫く力強さをもって、伊賀守に迫った。然るに君側の奸、塚本舎人は、昌月を送り還して恩田の道端で生きながら石子詰の極刑に処した。儀僧昌月、彼は埋れ木の花咲く春を地下に待つであろう」 この昌月法印もまた、茂左衛門と共に記憶されるべき偉人であります。しかし何とも残酷な処刑でありましょうか。 「龍の口評定所へ伊賀守父子を呼び出し十ヶ条の糾明が行われた。 1、両国橋用材請負証文日限至て延着の事 2、百姓夫役心得ざる事 3、飢えに及びし百姓を救わざる事 4、奢侈に長じ美酒美女を愛する事 5、舊臣の者共に暇を差出し新参者共に出頭役儀申附る事 6、御朱印下馬を軽んじ寺院殺生禁断の場を狩り遊興の事 7、道中にて幼女のわきまえなき慮外を咎め切り捨てをなせし事 8、先代の祖開発奉行の地形に新検を入れ広大に貢ぎを取る事 9、将軍御祖先より由緒ある忠臣譜代の家来に暇を出し遣わせし事 10、(判読不能)」 あくまで両国橋普請の不始末が第一であり、農民への虐政は二の次となっている事が当時の政情を物語ります。 「もともと家臣任せの伊賀守に、申し開きの立つべき筈もない。天和元年11月22日将軍家の台命により 「真田伊賀守、行跡宜しからざる段上聞に達し吟味の箇条返答出来ざる條、重科たるによって、領地を召し上げ、奥平小次郎へお預け、又弾正小弼は、浅野内匠守へお預け仰せ付けられる」 伊賀守お気に入りの三人衆、悪虐の張本人共は其の夜の中に屋敷内に於いて、切腹を仰せ付けられた。天和元年12月19日城受渡しを終って家臣は離散した」 「板橋の茶屋に落書の奇策を敢行して、そのまま行方不明となった茂左衛門は事の成否を気遣い江戸に身を潜めて沼田領の様子を探った。真田家の没落を知った大誓願は窮民を救うにあるのだ。故郷の様子を知りたい、三郡の百姓の甦生に、賑わう煙を見ない内は安んじて自ら処するの道も取れない。ひそかに月夜野に現れ深更我が家の戸を叩いた。妻のぎんから詳細を聞き政道の改革甚だ意を見たぬを感じた。「今一度やらねば」と深く心に決した」 「177ヶ村のために、暫し身を潜めねばなるまい。再び江戸へ出ようと、子供達の寝顔に涙の別れを告げ、身を闇中へひるがえした。赤谷川の対岸、小袖坂へ差しかかった時、かねて作男となって留守中の我が家へ住み込んでいた幕府の隠密のために不意を打たれて、無念や終に捕らわれの身となった」 「法親王大悲の御涙は、終に将軍綱吉を動かし破格にも、赦免の上使が発せられた。時すでに遅し、処刑は、天和2年11月5日と決定した。月夜野橋の袂、竹の下河原の刑場には、中央の磔刑柱には永の牢舎に、髭茫々とやつれた義人が、高々と縛りつけられている。下には荒筵の上には、いたいけな妻子の姿。磔刑柱の上に瞑目していた茂左衛門は、「皆の衆─」と呼びかけた。 「茂左衛門は死んでも、沼田領の年貢は、3年たたぬに、屹度引き戻して進ぜますぞ!」と別れを告げた」 利根川竹の下河原の刑場。背景に雪の谷川岳を望む。 「赦免の上使は、三国街道を頻りに馬を急がして居た。宮家の無辺なる御慈悲に対し、又将軍家の重き使命に対し申し訳ないと一散に駒を馳せた。刑場の手前一里なる、井戸の上村の土橋へ差しかかった時、群集に遭い、刑場の模様を訊ねた。処刑の終わりを知るや自責の念終に、その場に於いて切腹し果てた。状橋地蔵尊として烈士の冥福を祈っている」 赦免の使者として江戸から月夜野へ向かいながらも、任果たせず自刃して責を負った小川安左衛門と加瀬甚之丞。道中各所で幕府隠密の妨害に遭い進行が遅れました。千日堂案内人の方の言によれば「赦免は幕府のパフォーマンスに過ぎなかった。直訴を許せば全国で続々訴えが出てしまう。このため、赦免しつつも茂左衛門の処刑は実行した。これでバランスを取った。もちろん使者の小川、加瀬両名はそんな事情は知らない。よって責任を取って自害したのです」との事。 「茂左衛門は磔獄門にされ、その首がさらされるのが哀れと親族の者が大雪の夜、盗んで逃げる。1人が踏みとどまり番人と戦って打殺し観音山の中腹に埋葬する。みくじ塚として残っている。 翌貞享元年2月から再検地を始め、同3年9月を以って終了した。その結果、6万5千石に軽減され、貞享のお助け縄と呼ばれた。 刑場跡には地蔵尊が建立され念仏堂を設けて、千日にわたる供養が行われた。そして千日堂と呼ぶ様になった」 茂左衛門の首を奪還するため、番人と闘う様子。 茂左衛門の妻ぎんも処刑されましたが、2人の子供は生き延びたそうです。長男は仏門に入り、父の霊を弔ったと伝えられます。 |
歴史探訪
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まさに時代劇に出てきそうな暴君ですね。
幸隆、昌幸の血は信繁にのみ流れて露と消え去ってしまったんですかね。
みんなが知るような大きな歴史も良いですが、地域に起きた歴史も興味深いですね。
事実、伝承、伝説…。
事実はもちろんですが、伝承や伝説に意味があると思い興味の種は尽きません。
そんな気持ちを楽しませていただきました。
ありがとうございます。
2015/10/12(月) 午後 1:23 [ みの ]
> みのさん
はじめまして。返事が遅れてすいません。伊賀守の暴政にもいろいろ背景があり一概に責められない部分もあります。しかしそれを差し引いてもひどいですね。読んでいただき感謝します。
2015/10/14(水) 午後 5:10