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前編(http://blogs.yahoo.co.jp/sac_murakumo/56973240.html)の続きです。前編を踏まえてお読みください。 中編と後編では茂左衛門地蔵尊千日堂所蔵の絵物語を引用しつつ、茂左衛門縁の地を紹介します。 沼田城址「大阪城落城の跡、東軍(徳川)に属した真田信幸は功績により俸禄を加えられ松代10万石を本拠地にした。伊賀守(兵吉)が幼少なので月夜野小川城にあずけ、沼田城3万石は叔父の大内記信政に預けられた」暴君真田伊賀守信直の居城だった沼田城。財政はすでに破綻していたにも関わらず、松代への対抗意識から五層の天守を築造、領民へのさらなる増税へと虐政を加速させました。財政の実態にそぐわぬ豪華な居城は、暴政の象徴とも言うべきものでした。 利根川と薄根川、さらには片品川が作り出した沼田台地。峻険な断崖の上に沼田城は存在していました。これは県道262号(沼田停車場薄根線)の「薄根跨線橋」から見た沼田台地。ここにかつて沼田城がありました。 (2015年9月4日撮影) 同じく県道262号から見上げた沼田台地。この先、「榛名坂」と呼ばれる急坂にて台地の上へ昇る。 (2015年9月4日撮影) 沼田城址へ。場所はここ。県道262号と県道274号の表記は間違っているので注意。 (Yahoo地図より作成) 沼田藩改易後、沼田城は破却。堀の大部分も埋められてしまいました。大正時代に公園として整備され、現在では市民憩いの場。県内随一の桜の名所となっています。 (2014年4月15日撮影) 復元図。南から北方向を望む。 (2014年4月15日撮影) 水牢「12月20日までに年貢を納めなければ、役人が家捜しの上、蓄えておいた来年の種籾まで強奪し或いは田畑家屋敷家財道具を競売し尚不足あれば、人質を取って親類縁者を呼び出し、眼前に呵責を加えて身代金を償わせる。期限内に納められないと、直ぐに捕らえて水牢に打ち込む、酷寒の水牢に投げ込まれては生命のあるべき筈がない。八寒地獄にて命とられた者は数知れない」沼田藩がかつて支配した吾妻郡に虐政の物語る遺跡として2ヶ所の水牢が現存しています。 吾妻郡東吾妻町新巻にある「池廼薬師堂水牢跡」。 (2015年8月3日撮影。以下当地はすべてこの日に撮影) 場所はここ。渋川方面から県道35号(渋川東吾妻線)を原町方面へ進み、「新巻交差点」で左折し道なりに進むと左側にあります。 (国土地理院地図にて作成) 東吾妻町指定史跡。 池廼薬師堂。 あまりにも残酷。想像するだけでも身の毛がよだちます。鬼畜にも劣る所業とはこの事でしょう。 水牢の一部が現存しています。知らなければ単なる池と思ってしまうでしょうが、投獄された農民たちの怨嗟の声が聞こえて来そうです。合掌。 現在も湧水が注ぎます。この日(2015年8月3日)は35度を超える猛暑日でしたが、この水は信じられないくらい冷たかった。刑が行われたのは12月。地獄の責苦であります。 湧水を利用して池が作られていました。水牢からの水が注ぎます。「新巻憩いの森公園」の一角を成しています。 今は長閑な里山風景が広がります。かつては重税にあえぐ農民たちの困苦欠乏の生活がありました。 水牢はもう一ヶ所。続いて吾妻郡中之条町横尾にある桃瀬の水牢跡へ。 (2015年8月3日撮影。以下当地はすべてこの日に撮影) 「桃瀬の水牢跡」。中之条町指定史跡。 場所はここ。国道145号側に案内が建っています。 (Yahoo地図より作成) 案内板と標柱が建っています。 中之条カルタに詠まれているそうです。 江戸時代以前から使われていたそうです。子供も投獄するというのですから、非道極まります。 木々が鬱蒼と生い茂り、そのディテールはよく掴めません。冬場に来た方がいいかもしれません。 石垣の一部が見えます。 ここも湧水のようで、夏でも冷たい水が流れていました。これまた投獄された農民たちの怨嗟の叫びが聞こえて来そうです。合掌。 豊かな水田が広がります。ここもかつては悲劇の現場でありました。 迦葉山「延宝3年8月には、殺生禁断の御朱印地、迦葉山に領内の百姓並びに家中のもの共を狩り集め大仕掛けな巻狩を催して、霊域を冒瀆した」伊賀守は重税を納めるために農作業に忙しい農民達を休ませ、その農民達を猟犬の代わりとし、山中を走り回らせたと伝えられます。何という悪虐ぶりでありましょうか。 沼田市中発知町から見た迦葉山。天狗の霊峰、迦葉山龍華院弥勒寺があります。 (2015年4月23日撮影) 迦葉山の場所はここ。「殺生禁断の御朱印地」で伊賀守は巻狩を行い、霊場を汚しました。 (Yahoo地図より作成) 迦葉山での非行は伊賀守だけではありません。1972年冬、極左暴力過激派集団である連合赤軍はここに「迦葉ベース」を造り軍事訓練を行いました。それだけでも霊場を汚すに十分ですが、さらに「総括」と称して同志3名を虐殺しています。極左に参加した人間の死を私はまったく悼む気にはなれませんが、神聖な場所での非行はまったく許しがたい。その末裔のような連中と、それに扇動された愚民が現在国会前で調子に乗ってデモをしています。そんな奴等が「民主主義」を語るとは笑止千万であります。 県道266号(上発地材木町線)から見た弥勒寺への山道入口。機会に恵まれずまだ弥勒寺へは行った事がありません。 (2014年4月24日撮影) 市兵衛地蔵尊「延宝8年11月、真田政所村の名主松井市兵衛が虐政に堪えかねて願書を携え支配向きへ訴訟のため出府した。願書は幕府の目付けに留め置かれたが、その身は故郷へ送り還され牢舎1年、越訴の廉で天和元年12月29日に斬首に処された。世に首斬市兵衛と呼ばれ、今尚市兵衛地蔵尊として祀られている」直訴は失敗に終わったものの、この松井市兵衛の犠牲は茂左衛門に並ぶものです。茂左衛門と共に末永く記憶されるべき人物であります。 利根郡みなかみ町真庭にある「市兵衛地蔵尊」へ向かいます。県道61号(沼田水上線)を水上方面へ。「政所交差点」を左折します。 (2015年9月4日撮影。以下当地はすべてこの日に撮影) 左折しました。 国道17号の上に架かる「政所橋」の手前に市兵衛地蔵尊の入口があります。 政所橋。 政所橋から見下ろすと、国道17号が中央を走り、その両側を関越自動車道・月夜野ICのランプ道が走っています。 さて、政所橋から戻って市兵衛地蔵尊へ。 ここから入ります。徒歩がいいでしょう。軽自動車くらいなら入れるかもしれませんが、車両進入は賢明ではありません。 入口には「涙橋」の親柱が建っています。 涙橋は橋としての実態がありません。以前はちゃんと橋があったのでしょうが、道路改修で消滅し、親柱だけが残されたのかもしれません。 私道(?)のような道を進む。 振り返り、政所橋を見る。何やら工事関係者が昼休憩中。 何の工事かと思ったら、市兵衛地蔵尊への石段を作っているようです。 ありました。 場所はここ。 (Yahoo地図より作成) 市兵衛地蔵尊 市兵衛地蔵尊由来記。 市兵衛地蔵尊由来記 政所村(現みなかみ町政所)の松井市兵衛は、月夜野の杉木茂左衛門と同一目的で共に越訴を企てた人ですが、不運にして松井市兵衛の越訴は御取上げ叶わず、打首の刑に処せられました。 事の起りは、徳川時代、将軍家綱の頃、上州沼田の城主真田伊賀守信直は己の栄躍栄華と我がままを満たすため、悪政の限りを尽くしたと云われ、寛文元年には、領内177ヶ村に検地を行い、幕府より許された、3万石を2年後には14万4200石として、田の上下も極めず高い年貢を課し、又この他に加え、川役、綱役、山手役、井戸役、窓役、産毛役等と云う様な雑役を設け、あらゆる重税と扶役を課し、住民の生活を窮乏に落し入れました。 時に延宝8年には大飢饉あり、餓死する者、村を逃げる者など数知れず・・・・・。この頃より住民代表が幾度なく沼田の殿様に嘆願しましたが、いささかも御取り上げにならず、そればかりか其の都度水牢等に入れられる罪を受ける有りさまなので、愈々以って非常手段に依る外ない・・・・・・と、名主達が相談の結果立上ったのが政所村の名主松井市兵衛と月夜野村名主杉木茂左衛門でした。 その当時とすれば越訴は(領主を越えて訴え出す事は)固く禁じられており、之を犯せば重罪となる事は判って居りましたが、遂に延宝9年松井市兵衛は単身出府し幕府の使番、桜井正之助が登城の際訴状を差上げた所、御取上げ叶わず、直ちに捕縛投獄されて、天和元年12月29日真庭村の街道筋に於て打首の刑に処されました。 市兵衛の越訴は茂左衛門のそれより数か月ばかり早かった由、越訴御取上げの儀は相叶わなかったにせよ、後続の茂左衛門に取っては、幾多の参考となった事でしょう。 越訴の重罪を覚悟の上で、この大業を実行された市兵衛の業績は誠に壮挙でありました。後年市兵衛地蔵は地元真庭政所の住民に依って建てられて居りましたが、此の度、有志各位の御浄財に依って、刑場跡に近いこの地に本堂を建立しその徳を永く後世に伝えるものであります。 昭和50年3月18日 市兵衛地蔵尊奉賛会 縁日 春3月21日 秋9月24日(一部手を加えてあります) 堂宇を覗くと地蔵様の姿を見る事が出来ます。合掌。付近にある刑場跡碑はチェックリストを入れたスマホを自宅に忘れたため撮り損じました。無念。 義人茂左衛門屋敷跡「月夜野は伊賀守によって取り立てられた町だから町役人や肝煎は、久しい間の伝統で伊賀守に楯突くようなことは出来なかった。伊賀守の恩顧は充分にわきまえていた。私恩を以って公憤に代えることは茂左衛門の良心が許さなかった。
「直訴しかない」
吾妻郡須川村、天台宗大宝院住職昌月法印の手で願書が浄書された。将軍に直訴を決意し伊勢参りと称して茂左衛門は妻子と別れ江戸に向かう」 利根郡みなかみ町月夜野にある「義人茂左衛門屋敷跡」へ向かいます。 県道273号(後閑羽場線、国道17号旧道)を黒岩方面に向かって進むと、「月夜野交差点」を過ぎてすぐ右側にあります。 (2015年9月4日撮影。以下当地はすべてこの日に撮影) 現在は茂左衛門とは縁の無い方のお宅となっています。ただこの案内が建つのみ。ここから茂左衛門は決死の越訴を行うため、江戸へ向かいました。 |
歴史探訪
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