SACの部屋

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歴史探訪

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中編の続きです。前編(http://blogs.yahoo.co.jp/sac_murakumo/56973240.html)と中編(http://blogs.yahoo.co.jp/sac_murakumo/56974941.html)を踏まえてお読みください。

中編と後編では茂左衛門地蔵尊千日堂所蔵の絵物語を引用しつつ、茂左衛門縁の地を紹介します。

大宝院塚

「茂左衛門の訴状が、昌月法印の手によって書かれたことが露見した。不惜身命、7万の生霊のために、その時が来たのを知った昌月は後顧の憂いなきよう妻を離別し、後事を弟に託した。崇高い人格、測り知れぬ博識、聖者の一語々は鉄石をも貫く力強さをもって、伊賀守に迫った。然るに君側の奸、塚本舎人は、昌月を送り還して恩田の道端で生きながら石子詰の極刑に処した。儀僧昌月、彼は埋れ木の花咲く春を地下に待つであろう」
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この昌月法印もまた、茂左衛門と共に記憶されるべき偉人であります。しかし何とも残酷な処刑でありましょうか。

国道291号を沼田方面へ走っています。「セブンイレブン沼田井土上店」前を通過し・・・。
(2015年9月4日撮影。以下当地はすべてこの日に撮影)
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「石長センター」前に・・・。
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ここが入口???
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たしかにここらしい。
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しかし単なる石材店の資材置場然としているが・・・?大宝院塚はどこだろう???
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畑を耕す地主さんに聞いてみると「そこにあるよ」と案内してくださいました。畑の小道を進むと・・・。

ここが大宝院塚か!
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場所はこの辺。
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(Yahoo地図より作成)

ここで昌月法印が石子詰にされたのか!
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碑文を読む。
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          大宝院塚由来

 大宝院は利根郡新治村須川の駒形山大宝院宝蔵寺の院号であり、この塚は同院住職第六世の権大僧都昌月覚端法印が今から三百年前、此処で石子詰めにされて絶命し地元恩田の人々が遺骸を葬り霊魂を弔い、大宝院塚と呼び供養をつづけている。

 時の沼田城主真田氏五代伊賀守信直は三代信政以来の治水開拓事業を継続、上牧から師に至る四ヶ村用水路を完成して百余町の開田をはじめ、岡谷、押野、月夜野、真庭ほかの用水堰や水田を造成し表石高三万石を倍余の領地に開発したが千五百余の家臣の給米だけでも三万九千余石と給金を要し、財政窮乏したため奸臣らが建策し不法の見地を行ない、高十四万余石として重税を課した。

 ために苦しむ民百姓を救わんと真庭村の名主松井市兵衛は幕府の目付役桜井庄之助に訴状を提出、月夜野町の茂左衛門は置文直訴をした。

 当の伊賀守は両国橋用材を請負い、十余万人と米五千二百俵、金子千両を費やして伐採した材木小屋二十余を消失、納期を失した。

 かくして伊賀守は天和元年(1681年)十一月、領地没収、身は山形城主奥平家へ預けられ、家臣はそれぞれ離散、沼田真田は断絶する。

 伊賀守の家臣は改易前に茂左衛門の直訴状を書いた者は、大宝院昌月法印であったとして捕え、城内で取り調べ帰山を許し、家臣が送り出し石子詰にして惨殺したと伝えている。
(一部手を加えてあります)

合掌。
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小袖坂

「177ヶ村のために、暫し身を潜めねばなるまい。再び江戸へ出ようと、子供達の寝顔に涙の別れを告げ、身を闇中へひるがえした。赤谷川の対岸、小袖坂へ差しかかった時、かねて作男となって留守中の我が家へ住み込んでいた幕府の隠密のために不意を打たれて、無念や終に捕らわれの身となった」
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月夜野黒岩と小袖坂を結ぶ「小袖橋」。赤谷川に架かっています。1935年(昭和10年)7月竣工の歴史ある橋です。
(2014年4月24日撮影)
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茂左衛門地蔵尊千日堂に展示されていた小袖橋の旧橋。木造橋です。茂左衛門の時代の小袖橋は縄の吊橋で、さらに上の崖から渡されていたようです。
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黒岩から小袖橋を渡ると、すぐに坂道になります。この坂道が茂左衛門が捕縛された小袖坂です。今では月夜野の桜の名所です。
(2014年4月24日撮影)
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場所のこの辺り。
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(Yahoo地図より作成)

茂左衛門地蔵尊奥之院

続いて小袖坂の先にある茂左衛門地蔵尊奥之院へ。

場所はここ。
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(Yahoo地図より作成)

駐車スペースは一応あります。
(2015年9月4日撮影。以下当地はすべてこの日に撮影)
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石段を昇る。足を痛めているので、これくらいでもけっこうキツイ。
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ここが茂左衛門地蔵尊奥之院。
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奥之院本堂。
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本稿では小袖坂と奥之院を別々に載せましたが、実質的にはこの辺りが茂左衛門捕縛地であったと思われます。
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木々がちょっと邪魔ですが、見晴らしは素晴らしい。
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三峰山が見えます。平安時代中期の歌人源順が、ここからの月の出の美しさを「よき月よのかな」と詠んだのが月夜野の地名の由来とも言われています。手前に赤谷川が流れており、ザーといい音がします。この先で利根川と合流。
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月夜野の町を見下ろす。
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義人茂左衛門刑場跡

「法親王大悲の御涙は、終に将軍綱吉を動かし破格にも、赦免の上使が発せられた。時すでに遅し、処刑は、天和2年11月5日と決定した。月夜野橋の袂、竹の下河原の刑場には、中央の磔刑柱には永の牢舎に、髭茫々とやつれた義人が、高々と縛りつけられている。下には荒筵の上には、いたいけな妻子の姿。磔刑柱の上に瞑目していた茂左衛門は、「皆の衆─」と呼びかけた。
「茂左衛門は死んでも、沼田領の年貢は、3年たたぬに、屹度引き戻して進ぜますぞ!」と別れを告げた」
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利根川竹の下河原の刑場。背景に雪の谷川岳を望む。

茂左衛門地蔵尊千日堂に展示されていた刑場跡の写真。かつて茂左衛門地蔵尊は処刑が行われた竹の下河原に置かれていました。しかし利根川が氾濫するたびに流され、その都度地元の方々が流された地蔵を見つけ出し、地蔵堂を再建していました。月夜野橋の一部が木造橋だった時代の写真です。おそらく大正初期の撮影。
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現在に至るまで春と秋の彼岸に茂左衛門供養祭が行われています。これは大正初期の供養祭の様子を伝える写真です。月夜野橋に大勢の人が渡っています。
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利根川氾濫のたびに流される地蔵尊の現状を憂いた人々は大正11年に高台に千日堂を建立しました。これは千日堂完成時の写真。後閑側から撮影したもので、手前が月夜野橋。
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現在の「月夜野橋」。1957年(昭和32年)竣工のこれまた歴史ある橋です。現在は県道273号線(後閑羽場線)の橋ですが、竣工当時は国道17号の橋でした。
(2014年4月24日撮影)
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刑場跡は護岸改修等によりかさ上げされ、河原という雰囲気は無くなりました。
(2015年3月4日撮影)
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場所はここ。
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(Yahoo地図より作成)

刑場跡から見上げた千日堂。
(2014年4月24日撮影)
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千日堂から見下ろした刑場跡。利根川が見えます。
(2015年4月12日撮影)
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月夜野橋下の竹の下河原から見た利根川と谷川岳。ここで茂左衛門は処刑されました。
(2014年4月24日撮影)
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状橋地蔵尊

「赦免の上使は、三国街道を頻りに馬を急がして居た。宮家の無辺なる御慈悲に対し、又将軍家の重き使命に対し申し訳ないと一散に駒を馳せた。刑場の手前一里なる、井戸の上村の土橋へ差しかかった時、群集に遭い、刑場の模様を訊ねた。処刑の終わりを知るや自責の念終に、その場に於いて切腹し果てた。状橋地蔵尊として烈士の冥福を祈っている」
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赦免の使者として江戸から月夜野へ向かいながらも、任果たせず自刃して責を負った小川安左衛門と加瀬甚之丞。道中各所で幕府隠密の妨害に遭い進行が遅れました。千日堂案内人の方の言によれば「赦免は幕府のパフォーマンスに過ぎなかった。直訴を許せば全国で続々訴えが出てしまう。このため、赦免しつつも茂左衛門の処刑は実行した。これでバランスを取った。もちろん使者の小川、加瀬両名はそんな事情は知らない。よって責任を取って自害したのです」との事。

県道61号(沼田水上線)を沼田方面へ走っています。
(2015年9月4日撮影。以下当地はすべてこの日に撮影)
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「井土上町交差点」を過ぎて国道291号に入り・・・。
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沼田市井土上町の「カワテ寝具店」の所で左折。
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ここに入って行きます。
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ちょっと走って・・・。
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さて、この辺に状橋地蔵尊があるはずだが・・・。
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個人宅の敷地にそれらしきものが・・・。
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お地蔵さん発見。
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場所はここ。
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(Yahoo地図より作成)

こちらのお宅に声をかけて入らせていただく。親切にも手前のクモの巣を払っていただきました。
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茂左衛門赦免が幕府のパフォーマンスに過ぎないにも関わらず、江戸から懸命に月夜野へ馬を走らせた幕府使者の小川安左衛門と加瀬甚之丞。処刑に間に合わせないための隠密の妨害を排除しつつ月夜野へ向かう。しかし予定通り間に合わず。そんな裏事情を知らず、責任を取って二人はここで切腹しました。合掌。
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隣に古い石碑があったが近づけなかった。
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これで前編、中編、後編と3回に渡った茂左衛門関連記事を終わります。美しい谷川岳見下ろすこの地で、かつて壮絶な物語がありました。合掌。
(千日堂から見た谷川岳。2015年4月12日撮影)
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これで群馬県の義民・義人関連の連載は一区切りとします。

(おわり)

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見ごたえのあるシリーズでした!
詳細な現地調査、昔の風景写真、所在場所の地図までつけて頂いてるので、最高のガイドブックです。
祀られている義人は勿論、地元の人も、喜んでらっしゃるのではないでしょうか。
探訪、お疲れさまでした!

2015/9/25(金) 午前 9:11 [ 迷道院高崎 ]

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こんばんは。
素晴らしい記事でした!
お恥ずかしながら、茂左衛門の名は知りつつも何を成した人かは全く存じておらず、また沼田藩でそのような虐政が行われたとは思ってもいませんでした。
歴史を知れば土地の見方も変わるもので、今の沼田の文化があるのも過去の偉人の尽力の賜物なのですね。
いやはや素晴らしい記事です、大変勉強になりました。
そして地元にこんな興味深い歴史が転がっていたのも驚きです。

もぎ

2015/9/25(金) 午後 10:09 [ kou*an_*y_g*ma ]

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> 迷道院高崎さん
おはようございます。返事が遅れてすみません。読んでいただきありがとうございました。十分な探訪記ではありませんが、それなりの内容ではあると思います。もっと多くの人に茂左衛門を始め、他の義民・義人を知ってもらいたいです。

2015/9/28(月) 午前 8:14 SAC

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> kou*an_*y_g*maさん
おはようございます。返事が遅れてすいません。ツイッターでも紹介していただいて感謝しております。今回あちこちを調べて茂左衛門以外にも義民・義人の悲話がとても多い事に驚きました。これからも可能であれば、いろいろ紹介したいと思います。

2015/9/28(月) 午前 8:18 SAC

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非常にわかりやすく引き込まれていく記事でした。
ありがとうございました。

2016/9/11(日) 午後 9:10 [ kagekage2012 ]

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> kagekage2012さん
読んでくださってありがとうございます。

2016/9/14(水) 午前 3:32 SAC


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