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8月15日という事で、本日は戦争の話です。 この話は1992年〜1993年頃(曖昧で恐縮です)、私が海上自衛官だった頃に聞いたものです。 雨降る横須賀中央駅。季節は秋頃だったような。横須賀で買い物を終えた私は、当時金沢八景駅付近にあったアパートへ帰るためにホームで電車を待っていた。 ホームのベンチにボロボロの衣服をまとったホームレス然とした老人が座っていた。普段なら関わり合いにならぬよう、一定の距離を保つはずだが、その時は違った。 どういうキッカケだったかはよく憶えていない。たしか「オレは戦艦大和を見た事があるぞ・・・」という老人の独語を聞いて、最初は半信半疑で話を聞き始めたと記憶している。 失礼ながら、最初はホームレス老人の世迷言と思いながら、少し小馬鹿にするように話を聞いていた。しかしやがて、その内容の壮絶さに驚き、聞き入ってしまった。史実に基づき自分が質問すると、老人はかなり正確な記憶で答えを返した。 この老人が通りすがりの自分に、何の得も無いのに作り話をするはずがない。この老人の話は事実に違いない。 やがて自分は待っていた列車を何本も見送り、駅のホームで老人の話を聞き入った。 「矢矧」水上特攻、「大和」と共に自分はこの老人から聞いた話を要約整理し、今から15年前の2002年に巨大掲示板「2ちゃんねる」の軍事板の「お前らのジーちゃんの戦争体験」というスレッドに投稿しました。(参照http://mimizun.com/log/2ch/army/1025000169/) 以下はそのスレッドより引用です。 216 :名無し三等兵:02/07/22 19:52 ID:jdMkodLG 私の親戚でもなんでもないジーちゃんの話で申し訳ないのですが・・・。 今から6〜7年前の話です。 その日も私は某横須賀中央駅のホームで京浜急行を待っていました。 ベンチにホームレス風のジーちゃんがおりました。 どんなキッカケだったか覚えていませんが、私はそのジーちゃんの昔話を聞きました。 なかなか興味深い話だったので乗る電車を数本遅らせて聞き入ってしまいました。 ジーちゃんは昭和19年初頭に召集(もしくは志願)され、横須賀海兵団に入隊したそうです。 教育期間を経て、呉警備戦隊の海防艦(第○×号と言っていたが、当方失念)に乗艦。 その海防艦は対馬・朝鮮海峡の警備に当たっていたそうですが、米潜に遭遇する機会はなく、ヒマな日々を過ごしたそうです。乗員も予備召集組が多く、家庭的な雰囲気で、海軍にありがちな陰湿な私的制裁などはほとんど無く、楽な勤務だったそうです。 「あ」号作戦や捷号作戦のウワサも聞こえてきたそうですが、とにかくヒマで楽だったそうです。 そんな戦局とは遊離したジーちゃんの海軍生活が一転したのは、昭和20年に入ってからです。 (つづく) 217 :216:02/07/22 20:26 ID:jdMkodLG >>216(つづき) 昭和20年の新春、ジーちゃんは軍艦「矢矧」乗組みを命ぜられました。 新鋭巡洋艦という事で、嬉しく、誇らしい気持ちだったそうです。 これまで乗っていた海防艦とは比べ物にならない大きなフネと感じたそうです。 配置は前部主砲の横辺りにある銃座の機銃員だったそうです。 海防艦とは打って変わって厳しい毎日だったそうですが、「これぞ海軍」と思ったそうです。 さてやがて4月を迎えます。沖縄に米軍が上陸します。みなさんご存知の通り 天一号作戦が発動されます。上官の話では「沖縄に来襲した米艦隊を撃滅する」という事なので、ジーちゃんも含め、みなヤル気満々だったそうです。 水上特攻という話はまったく無く、悲壮感は皆無だったそうです。 そうしてジーちゃんを乗せた「矢矧」は「大和」や2水戦駆逐艦と共に徳山を出撃しました。 「大和」はたしかに大きなフネでしたが、海防艦時代から見慣れていたので、「矢矧」ほどのインパクトは無かったそうです。 さて天一号作戦の経過はみなさんご存知なので詳述しません。一水兵の立場では作戦の流れを知る術はありませんでした。 ジーちゃんはとにかく戦闘配置下令により持ち場である銃座に就き、指揮官の命令通り雲霞のごとく群がる米艦載機に対して25ミリ機銃を撃ちまくったそうです。 いちばん恐ろしかったのは敵機の攻撃よりも間近で発砲する主砲の爆風だったそうです。 正規では主砲発砲時は警報ブザーが鳴るはずでしたが、その日はブザー無しで発砲する事が多かったそうです。機銃指揮官が真っ赤な顔で「艦橋は俺達を殺す気か!」と怒鳴っていたのが、印象的だったそうです。 ジーちゃんは戦闘中の「大和」やその他水上特攻隊諸艦の姿は覚えていないそうです。 とにかく機銃を撃つのに夢中だったそうです。機銃が過熱のためしばし作動不良になったそうです。撃てなくなると急に心細くなったそうです。 やがて「矢矧」は爆弾や魚雷を受け始めました。そのたびに爆風や衝撃に襲われ、 生きた心地がしなかったそうです。しかし興奮し、無我夢中だったので、あまり怖くはなかったそうです。 (つづく) 218 :216:02/07/22 20:47 ID:jdMkodLG >>217(つづき) 昼過ぎ「矢矧」は魚雷や爆弾の被弾によりフネの行き足が止まりました。 航行中は黒煙が風圧で流されましたが、航行不能になったため、甲板上は煙に包まれ、 息が出来ず死にそうになったそうです。多くの同僚が甲板に倒れ、ジーちゃんの周囲は修羅場と化していたそうです。 沈没しそうだというので、機銃指揮官の命令により海に飛び込んだそうです。何度も溺れそうになっている内に、「矢矧」は沈没していたそうです。ジーちゃんは「矢矧」沈没を見ていないそうです。やがて海中からも衝撃を感じる大爆発を目撃したそうです。 ジーちゃん曰く「あれが大和の沈没だったのかもしれない」だそうです。 ジーちゃんは「大和」の沈没も見ていませんでした。 一緒に海に飛び込んだ同僚が「駆逐艦が助けてくれる」と言っていましたが、周囲に味方駆逐艦は見えなかったそうです。 その後数時間、数人の同僚とまとまって海面を漂っていましたが、やがて味方の駆逐艦が近づいてきたそうです。しかし敵機が攻撃してきたので、すぐに駆逐艦は見えなくなってしまったそうです。 夕刻、米軍の飛行艇(カタリナか?)飛来し、機銃掃射を加えてきたそうです。銃弾は付近に着弾し肝を冷やしたそうですが、ジーちゃんも同僚も被害はありませんでした。 自分たちを見下ろす飛行艇の乗員の顔が今でも忘れられないとの事でした。 全員かなり衰弱していましたが、力尽きる者は居なかったそうです。そして日没直後、再び味方駆逐艦がやってきました。駆逐艦の乗員がジャコップを降ろしてくれたそうですが、手足に力が入らず登るのに苦労したそうです。 とにかく、ジーちゃんは救出されました。 (つづく) 222 :216:02/07/22 21:13 ID:jdMkodLG >>218(つづき) ジーちゃんを救出した駆逐艦は「冬月」でした。衰弱したジーちゃんたちを介抱してくれた「冬月」の乗員の言によれば「作戦中止、佐世保に帰投」だったそうです。ジーちゃんは「負け戦」を自覚したそうです。 翌日「冬月」は佐世保に帰投。ジーちゃんは負傷もしていたので佐世保の海軍病院に収容されたそうです。 その後、ジーちゃんは後遺症に悩まされ、軍務に復帰できませんでした。 やがて夏近くになり、症状も軽くなったジーちゃんは長崎の病院に転院しました。 そして8月9日を迎えます。 昼食近く、突然大きな爆風により病室の窓ガラスがすべて吹き飛びました。原爆投下です。 ジーちゃんは爆風の凄まじさは覚えていますが、閃光やキノコ雲を見た記憶は無いそうです。 爆心地から遠かったので、病院は窓ガラスが吹き飛ぶぐらいの被害で済んだそうです。 しかし夕刻から無残な被爆者がどんどん収容され始め、軍医の命令によりジーちゃんたち動ける患者も看護を手伝ったそうです。残酷な修羅場は「矢矧」でも経験していましたが、非戦闘員まで被害を受けている姿はむごくてたまらなかったそうです。 その後、ジーちゃんの後遺症の件はウヤムヤのまま、9月に復員するまで病院で看護を手伝ったそうです。 戦後は楽しい時期もあったそうですが、ほとんどはツイてない人生だったようで、やがてホームレス同然の生活になってしまったようです。 1時間ほど話を聞き、私はジーちゃんと別れました。 今思えば、もう少し詳しく話を聞けば良かったです。なかなか記憶のしっかりしているジーちゃんだったし・・・。 その後、ジーちゃんの姿は見ていません。 以上はジーちゃんの話を再構成したものです。この話の真偽は分かりません。 とにかくジーちゃんの話をそのまま書いています。もしウソだったらごめんなさい。 でも自分は信じます。あのジーちゃんには今でも元気でいて欲しいです。 長文スマソ。 上述したように、この話が事実なのかそれとも作り話なのかは、現在では確かめようもありません。しかし自分は実話だと信じています。あの老人の話し方に、人を騙そうとか言う意図は感じられなかった。第一、通りすがりの自分を騙して、何の得があるというのだろう。あれから20年以上を経た今日、自分は老人の話を事実だと確信している。 若き日、老人が青春を散らせた二等巡洋艦「矢矧」。この写真は昭和18年12月19日、竣工を目前に控えて佐世保で公試中の「矢矧」。 昭和20年4月6日、「矢矧」は「大和」を護衛する第2水雷戦隊の旗艦として駆逐艦8隻を率いて出撃。翌7日、水上特攻部隊は米軍に発見され激しい空襲に晒された。「大和」に次ぐ大型艦であった「矢矧」は集中的に攻撃された。写真は戦闘開始早々に敵機の魚雷を受けて航行不能となり、標的然の状態で猛烈なる雷爆撃に翻弄される「矢矧」。米軍機より撮影。当時は二十歳そこそこだった件の老人もこの修羅場の中に存在したという事になる。 勇戦奮闘敵わず魚雷6〜7本、爆弾10〜12発を被弾(wikiより)し沈没する「矢矧」。米軍機より撮影。同艦の沈没時刻は諸説あるが、「大和」よりも先に沈没した事は間違いないようだ。若き日の件の老人も海面を漂い駆逐艦の救助を待っていたはずだ。上空には米軍機が乱舞している。 (写真はいずれもWikipediaより) あの横須賀中央駅での束の間の出会いから約四半世紀。ホームレス同然の状況だった老人がその後どうなったのか知る術はない。おそらく御存命の可能性は低いだろう。あの偶然の出会いによって、貴重な戦争体験を話していただき本当に感謝しております。これも何かの運命のような気がする。戦後72年。水上特攻作戦はもちろんの事、すべての戦没者が安らかに眠られん事を祈ります。
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自衛隊史・戦史
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僕も似たような経験があります。10年くらい前、名古屋港に練習艦隊が寄港した時、撮影に行ったのですが、歓迎レセプションに招待された旧海軍OB?に声を掛けられ、当時のお話を聞かされ?ました。彼は最上に乗艦していた経験があり、一時は大和の砲術指導もうしていたとか?他の話は全く忘れてしまいましたが・・・それが法螺なのか真実なのかわかりませんが、貴重な経験でした。
2017/8/15(火) 午前 8:57
> 大納言兼加賀守さん
戦後72年、ナマの体験談を聞く機会もどんどん減って来ましたね。
2017/8/17(木) 午前 3:17