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「信濃川大河津資料館」の駐車場に停める。 ここで大河津分水路について少し。越後平野は信濃川等の水資源に恵まれているにも関わらず、海岸線に砂丘が発達した低地地帯であるため、河川氾濫による洪水の排水が弱く潟や沼等の湿地が広がっていた。「新潟」と呼ばれる所以のひとつである。このため新田開発が困難であり、収量の低い湿田で米を作っていた。16世紀に入ると古くから「暴れ川」として越後平野に水害をもたらして来た信濃川等諸河川の改修が本格的に始まり、人間は大自然を相手に長く苦しい戦いを続けて来た。河川改修は江戸期を通じて繰り返され、そして洪水も数限りなく繰り返された。 信濃川が流れる現在の燕市大川津は、室町中期の三条城主山吉久盛が信濃川の改修を行った地であり、現在の西川の辺りを流れていた信濃川は、新河道が開削され刈谷田川に落とされた。この大川津において信濃川を分水させ洪水を日本海に流し、大港湾のある河口の新潟を守り、引いては越後平野を洪水から守ってはどうか、という請願が江戸中期頃から出されるようになった。しかし分水路建設には莫大な費用を要する事や、水利に関する流域村落の利害関係調整がつかず、ついに起工に至らず明治維新を迎える事となった。明治2年、明治政府によって設置された越後府は分水路建設に着手したが、江戸期から続く諸問題は解決できず、激烈な反対運動によって「悌輔騒動」が発生、新潟県庁襲撃という大事件となった。このため工事は明治8年に中断となってしまった。しかし洪水の脅威は続いている訳で、信濃川改修は続けられた。このような状況下で明治29年7月22日、「横田切れ」と呼ばれる信濃川破提が発生、越後平野に空前の大洪水をもたらした。新潟市にまで洪水が及ぶというこの大水害を受けて、明治42年に分水路建設が再開され、事故多発の難工事を経て大正11年8月に分水路は完成、通水した。近年では洗堰や可動堰の更新が行われ、水路の改修は現在も続けられている。信濃川には水害防止の様々な対策がなされているが、この大河津分水路はその主要なもののひとつである。 これから巡る諸施設の位置関係。 (googleマップにて作成) 大正11年に完成した旧洗堰。可動堰と連携して信濃川の流量調整を行っていた。現在は国登録有形文化財となっている。 旧洗堰の天端を歩く。 旧洗堰の河道の大部分は埋め立てられ、現在は西川や体験水路に流される水路のみが残っている。向う側に信濃川に架かる「本川橋」(前回参照)が見える。 埋め立てられ多目的広場となっている旧洗堰河道。向う側に信濃川の現河道が流れる。2011年7月に起きた「新潟福島豪雨」ではこの広場にも洪水が流れ込んだという。 「本川橋」 右岸上流側から見た旧洗堰。背景に弥彦山。 右岸下流側から見た旧洗堰。新たに堤防が建設され閉め切られた。 旧洗堰付近から分水路を見る。 「国土交通省北陸地方整備局信濃川河川事務所大河津出張所」 2000年5月に完成した現行の洗堰。すごい轟音。 信濃川。下流方向を見る。 とても巨大な施設。 遠く守門岳が見える。 両岸に設置された魚道。 魚道観察室へ。 何も見えん・・・。 信濃川と分水路の分岐点。手前が信濃川。右奥が分水路。 とても広大で、とても巨大な建造物群。 2011年11月に完成した新しい可動堰。分水路の流量をコントロールしている。 昭和6年(1931年)6月に完成した旧可動堰。10基あったゲートの内、3基分ゲート支塔が残されている。 資料館を見学したかったが、時間が無かった・・・! 周囲は公園化され・・・。 桜がいっぱい。 ちょうど満開だった。 |
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2018年11月10日
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