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2月も末になろうとしていますが、昨年10月のネタです。JR東日本の「休日おでかけパス」で日帰り鉄道旅をしてみたという記事です。 5時10分高崎発、東海道本線直通の高崎線普通列車に乗る。新前橋〜熱海間を走る列車。高崎発の列車としては始発。日曜日ながらけっこう混んでいる。普段鉄道はあまり利用しないので静かにワクワク。 5時24分神保原着。 休日おでかけパスのエリアは当駅からなので、ここでいったん下車して券売機へ。 たしかに「おトクなきっぷ」。かなり割安。 切符を買ってしばし待つ。5時39分発の東海道本線直通の高崎線に乗る。高崎〜小田原間を走る列車。 走り出して朝食。妻は朝から一杯。こういう事が出来るのは鉄道旅ならでは。 自分はこんな感じ。本当は高崎駅で駅弁を買いたかったが、6時半にならないと買えないので。残念。 埼玉県に入り、岡部駅を過ぎた。夜が明け始める。岡部浄水場と一面のブロッコリー畑。この辺りはブロッコリーの大産地。予報通り快晴だ。 熊谷駅や行田駅を過ぎる。写真には写らなかったが、富士山がきっくりと見える。手前に見える河川は元荒川。かつての荒川である。この付近の現在の熊谷市久下において寛永6年(1629年)に「荒川の西遷」が行われ、久下からのこれまでの荒川は元荒川となった。この辺りから富士山が見え始める。 (荒川の西遷参照https://blogs.yahoo.co.jp/sac_murakumo/58036855.html) ウトウト眠っていたら、上野駅を過ぎた。清々しい秋晴れ。車窓右側は武蔵野台地の東縁に当たる上野台地。車窓左側は隅田川等の諸河川が削った沖積平野。 続いて東京駅を過ぎる。 東京駅。7時を過ぎた。田舎者には賑やかすぎる東京駅。 東海道本線区間に入って品川駅を過ぎる。 京浜東北線と並走。 多摩川を渡る。東京都と神奈川県の境界。対岸は川崎市だ。ビルの間に富士山が見える。 東海道本線「六郷川橋梁」を渡る。この辺りから河口までの多摩川は「六郷川」とも呼ばれる。 (六郷川参照https://blogs.yahoo.co.jp/sac_murakumo/56595544.html) 武甲山地・笠取山を水源とする多摩川は乱流を繰り返し、かつては現在の霞川、新河岸川から入間川(現在の荒川)に流れ込み、利根川(古利根川)や渡良瀬川(古渡良瀬川)と共に古東京川に流入、現在は東京湾海底となっている海底谷を経て現在の浦賀水道に注いでいた。青梅辺りを頂上とする扇状地を関東平野南部に形成し、約10万年をかけて沖積台地は武蔵野台地の基礎を作った。武蔵野台地の隆起に伴い現在の不老川、柳瀬川、黒目川を名残川としつつ何度も流路を変え、2万年前の立川断層の活動により北東への流路を阻まれ、武蔵野台地南西縁を流れる現在の流路を形成した。その後も乱流を繰り返し、当初は国分寺、調布、狛江の北側を流れる現在の野川の流路を流れていたが、2万年をかけて現在の流路を形成した。1590年(天正18年)の大洪水で現在の川崎市多摩区の流路が北遷し、ほぼ現在の流路が確定した。 川崎駅。 横浜駅。 大船駅。多摩丘陵南部の低地部を縫うように走る東海道本線。 茅ヶ崎運輸区の留置基地。富士山がきれいだよ〜。 茅ヶ崎駅。 やはり富士山を見るとテンションが上がるね。 大山や丹沢山地が見えて来た。山岳信仰が盛んな大山は江戸期は参詣道として「大山街道」(矢倉沢往還、厚木街道)が整備され、東海道の脇往還としても機能した。これらの山地は南洋の海底火山を出自としており、フィリピン海プレートの北上に伴い火山島へ成長しつつ1000万年前頃に大陸プレートに激突、日本列島本州に乗り上げた。続いて100万年〜70万年前に伊豆半島が本州に激突し、その圧力によって標高が上がり、現在のような山地を形成した。 相模川を渡る。茅ヶ崎市と平塚市の境界を成す。富士山が相変わらずきれい。 山中湖を水源とする相模川は、前述の丹沢山地の本州激突の際にその狭間にあった海を始祖としている。当初は現在の帷子川辺りを流れ東京湾に流れ込んでいたが、多摩丘陵の隆起(年代不明)により流れを阻まれ、多摩丘陵の西縁を削りつつ現在の境川の辺りを流れ相模湾に注ぐようになった。その後多摩丘陵からの堆積により次第に西へ河道を遷し、現在の流路が確定したとされている。 向う側に国道1号「馬入橋」が架かる。東海道本線「馬入川橋梁」は上流側から貨物上り線(単線)と貨物下り線および旅客上り線(複線)、そして自分が乗った列車が渡っている旅客下り線(単線)、計3本の橋梁が架かっている。馬入川とは相模川の河口部における別称。「馬入」とは源頼朝の落馬伝説に因んでいる。複線橋梁と旅客下り線の間の川面を見ると、橋脚の架台が残っている。これは明治期に架けられた最初の馬入川橋梁のもので、大正関東地震(関東大震災)により崩落した名残りである。 平塚駅。 大磯丘陵の東端を成す高麗山が見えて来た。そしてさらに向こうに富士山が見える。 平塚市と中郡大磯町の境界にある相模貨物駅。向こうに高麗山。大磯丘陵は丹沢山地や箱根山地から続くプレート境界の隆起により形成された地形で、西側は酒匂川により削られ、箱根山地から切り離されている。この辺は以前ブラタモリで紹介されているので記憶に新しい。 大山や丹沢山地も見える。 大磯駅。 大磯丘陵の向こうに富士山。快晴で雪化粧の富士山。いい眺めである。 中郡二宮町を経て小田原市へ。快晴の相模湾。伊豆大島が薄っすらと見える。手前に国道1号「西湘バイパス」と国道1号現道が走る。 気が付いたらこの車両に乗っているのは自分と妻だけになってしまった。 国府津駅。 酒匂川両岸に広がる小田原市街地が見えて来た。箱根山地の向こうに富士山。 鴨宮駅。 東海道本線「酒匂川橋梁」を渡る。小田原駅が近いため、東海道新幹線「酒匂川橋梁」も至近に架かる。 酒匂川も他の川と同様に乱流を繰り返し、河口にある小田原を水害で苦しめて来た。北条氏滅亡後、小田原を所領とした大久保忠世・忠隣親子により大規模な河川改修が行われ、乱流する河道は整理されたが、宝永の富士山噴火の火山灰により酒匂川の河床は上昇してしまった。行き場を阻まれた河水は河道整理により廃川となった川筋にも再び流れ込み、酒匂川渡河は幾筋もの川を渡らなければならない通行者にとっては負担の大きいものとなってしまった。さらに河床上昇により舟の通行が不可能になり、徒渡のみの渡河となったが、周辺の村々から両岸10人ずつ、計20人を人夫として常勤させなければならず、さらに大名行列の際は300人以上の動員を強いられ、周辺の村々にとっても負担の大きいものとなった。そのため当初は禁制だった架橋が冬場の渇水期のみ許可され、いくつかの川筋は仮設橋で渡ったようである。山地から河口が近い酒匂川はそれだけ流れがきつく、洪水になり易かった。そのため酒匂川渡河は東海道有数の難所となったのである。この状況は明治に入るまで続いた。ただし明治に入っても木橋時代は何度も水害で流され、1923年(大正12年)7月にようやく永久橋である「酒匂橋」が架けられた。しかし1ヶ月ちょっとで関東大震災により落橋、1926年(大正15年)5月に二代目の「酒匂橋」が架けられ、戦後を通じて国道1号の橋として使用された。この二代目橋は1972年(昭和47年)の水害により損傷し、三代目橋はすでに開通していた西湘バイパス「西湘大橋」を迂回路として工事が進められ、1973年(昭和48年)2月に開通している。これが現在の国道1号「酒匂橋」である。東海道本線の「酒匂川橋梁」は1920年(大正9年)に架橋されているが、関東大震災では奇跡的にと言うべきか軽微な損害で済んでおり現役である。さらに1979年(昭和54年)に新線も架橋されている。酒匂川には他にも多くの橋が架橋されているが、ここでは割愛する。 箱根山地や丹沢山地を眺めながらちょっと走り・・・。 |
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2019年02月22日
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