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神奈川県警視殉職碑

成田空港B滑走路34R近くの道路脇にひっそりと「神奈川県警視福島誠一殉職之碑」という碑が建っている。同警視(事件当時は警部補)は1971年(昭和46年)9月16日、この地で起きた「東峰十字路事件」において殉職した。
(2014年1月12日撮影)
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激烈な反対運動が展開された成田空港問題。事件は建設予定地内の未買収用地に対する第二次行政代執行の当日に発生した。

警察側は頑強に抵抗する反対派住民およびそれを支援する極左暴力集団に対抗するため、約5500名の警備部隊を動員して代執行現場を包囲するとともに周辺道路を封鎖し、反対派拠点を孤立させ、反対派支援部隊(野次馬も含む)の侵入を阻止する作戦を展開した。

これに対し反対派は警察の阻止線を突破するために機動遊撃戦を展開する「ゲリラ部隊」を編成し、各部隊を無線機等でネットワーク化、無線傍受や偵察で警察側の動きを察知して同時多発的に警察部隊を積極的に襲撃し、警備側を翻弄する作戦に出た。

反対派が籠城する「団結小屋」は地下壕まで構築され要塞化されていた。これに対しては精鋭部隊である警視庁機動隊約2500人を初めとして、千葉県警機動隊、関東管区機動隊が警備に当たった。その東側に当たる東峰・天神地区には応援派遣された神奈川県警特別機動隊第2大隊(3個中隊基幹。以後神奈川大隊と記す)が展開し、後方警備や道路封鎖に当たった。

9月16日未明、神奈川大隊261名は川崎臨港警察署を出発、車両機動にて現在の千葉県道・茨城県道44号成田小見川鹿島港線が通る東峰十字路に朝6時半頃に到着した。先行した第1中隊および第2中隊は周辺に隠されていると思われる反対派の武器の検索を開始した。

この時すでに、東峰十字路南側の県有林には反対派青年行動隊や過激派学生等から成る約700名のゲリラ部隊(火炎瓶、竹槍、角材、鉄パイプ等で武装)が待機していた。偵察隊の情報により神奈川大隊の到着を察知した反対派部隊は直ちに行動を開始、2隊に分かれて神奈川大隊を南北から挟撃する作戦に出た。

到着したばかりでしかも土地勘の無い神奈川大隊は、周辺の林から突如出現した反対派ゲリラ部隊に襲撃され混乱状態となった。相手は2倍以上の勢力。神奈川大隊は中隊、小隊単位で孤立し、防戦もままならない状態となった。想定外の大集団による襲撃、臨時編成で練度が高いとは言えない神奈川大隊は現場に到着早々、危機に陥る事となった。

兵力に上回る反対派ゲリラ部隊は火炎瓶を積極的に使用し、火だるまになった機動隊員に複数人で襲い掛かり、竹槍で突き倒し、角材や鉄パイプで滅多打ちにした。負傷する隊員が続出し、大隊を指揮する堀田警視すら腕を骨折する重傷を負った。パトカーや指揮車、輸送車は炎上し、指揮系統は混乱、神奈川大隊は総崩れとなった。やや遅れて到着した第3中隊も直ちに襲撃され大損害を被った。火炎瓶により全身火傷を負う隊員、事件後の犯人捜査を困難にするために失明させられたり、顎を砕かれる隊員も多かったという。
(面割りや証言を難しくする)

福島誠一警部補が指揮する第1中隊第1小隊30名は東峰十字路北側に展開していた。この第1小隊に約200名の反対派ゲリラ部隊先発隊が襲い掛かった。包囲され中隊本隊から孤立した福島小隊を救援するため、大隊本部は第2中隊および第3中隊を向かわせようとしたが、両中隊も別の反対派ゲリラ部隊に襲撃されてそれどころではなかった。

退路を断たれた福島小隊は北側へ脱出する他なく、結果的にさらに本隊から離れる事になった。無事だった隊員は数名のみ。小隊長の福島誠一警部補(当時47歳)、第1分隊長の柏村信治巡査部長(当時35歳)、隊員の森井信行巡査(当時23歳)の3名が死亡し、20名以上が重傷を負った。

福島警部補は火炎瓶で火だるまになり、転倒してのたうち回っていた所を手錠を掛けられ、抵抗出来なくなった状態で鉄パイプ等で滅多打ちにされた。殺す事を躊躇い制止する者もいたが、結果的に殺気立った反対派ゲリラの執拗な攻撃によって福島警部補は頭蓋骨亀裂骨折、脳内出血、肋骨17本骨折、頭部や胸部に28ヶ所の打撲傷を受けて惨殺された。折れた肋骨の一部は肺に突き刺さっていたという。柏村巡査部長および森井巡査もほぼ同様の暴行により死亡した。司法解剖による直接の死因は脳挫傷および脳内出血によるという。

壊滅状態に陥った神奈川大隊を救援するため、警備本部は精鋭の警視庁第2機動隊を急派した。しかし第2機動隊が到着した頃には、ゲリラ集団は土地勘を活かして現場を立ち去った後だった。神奈川大隊は隊員36名がゲリラ集団に連れ去られたが、第2機動隊の検索により全員救出された。臨時編成で練度が低く、土地勘の無いまま警備実施当日に現地に派遣され、しかも警備部隊主力から離れた場所に展開した神奈川大隊。3名の死者と80名以上の負傷者を出した東峰十字路事件は警察側の敗北、反対派ゲリラ集団の勝利という結果に終わった。捜査の結果153名が逮捕され55名が起訴された。

天浪団結小屋や駒井野団結小屋では反対派と警察側の激しい攻防が展開され、機動隊1000名、代執行実施班220名を動員した小泉よね宅の強制収用をもって第二次行政代執行は終了した。もちろん、成田空港問題はそれで解決したわけではなかった。

あの時代から半世紀近くが経過した。あの事件の年に生まれた自分ももう完全なオッサンになってしまった。早いものだ・・・。

殉職警官の冥福を祈ります。
(本記事はWikipediaの記述を参照して作成)
かつて国難とも言うべき時代がありました。そして自然災害は、その国難の時代も日本を襲い続けました。

日華事変とそれに続く大東亜戦争、戦時体制は我が国の国民生活をギリギリまで圧迫しました。困苦欠乏、明日をも知れぬ命。しかし地震はそんな日本民族に対しても容赦しませんでした。

昭和18年9月10日、鳥取地震。マグニチュード7.2の直下型地震が鳥取を襲いました。死者1083人。戦時中のため犠牲者の過半は「銃後の護り」たる女性達でした。ちなみに鳥取市は震災復興が成りつつあった昭和27年4月17日に原因不明の火災(鳥取大火)により再び灰燼に帰します。

昭和19年12月7日、昭和東南海地震。南海トラフの一部が嘉永7年11月4日(1854年12月23日)の安政東海地震に続いて90年ぶりに動きました。マグニチュード7.9の巨大地震が東海地方を襲い、地震の直後には大津波も発生、中京地区の軍需工場地帯が大被害を被り、我が国の戦時体制に決定的な打撃を与えました。死者・行方不明者1223人。戦時中のため地震被害は詳細に報道されず、被災地は自力での復旧を余儀なくされました。しかし地震やその被害はアメリカ側に察知され、中京の被災地は「破壊の総仕上げ」として4度の空襲に遭いました。

東南海地震の被災地である伊勢湾沿岸や三重県南部は戦後復興が成りつつあった昭和34年9月に伊勢湾台風で大被害を受けており、さらに三重県南部はその翌年(昭和35年)5月にチリ地震津波でも被害を受けています。何と無情な事でありましょうか。

約1ヶ月後の昭和20年1月13日、東南海地震の余震とも誘発地震とも言われる三河地震が発生。マグニチュード6.8の直下型地震が三河地方を襲いました。死者・行方不明者2306人。この地震も被害の詳細は伏せられ、被災地は自力復旧を余儀なくされました。

昭和20年8月15日、敗戦。戦いの日々は終わりました。しかし自然災害は容赦しませんでした。

昭和20年9月12日〜23日、枕崎台風(昭和20年台風第16号)が襲来。終戦により気象管制(戦時中は気象情報は軍事情報であるとして天気予報の公表が禁じられていた)は解除されたとはいえ気象情報は乏しく、戦災の痛手を受けていた各地を、台風はほぼ無警告で襲いました。死者2473人、行方不明者1283人。原子爆弾の被害を受けてまだ1ヶ月余りの広島県の被害は大きく、治療中の被爆者多数も犠牲となりました。

ちなみに1ヶ月後の10月4日〜14日には阿久根台風(昭和20年台風第20号)が枕崎台風とほぼ同じコースで襲来、死者377人、行方不明者74人の被害を出しています。

敗戦により世相は混乱の極に達していましたが、自然災害は容赦しません。

昭和21年12月21日、昭和東南海地震に続いて再び南海トラフが動きます。昭和南海地震です。マグニチュード8.0の巨大地震によって大津波が発生、四国および紀伊半島を襲いました。死者1330名、行方不明者113名。

昭和の南海トラフ地震の前の地震は安政の東海地震および南海地震です。前述の通り嘉永7年11月4日(1854年12月23日)に安政東海地震(マグニチュード8.4)が発生し、東海沖および東南海沖の震源域が動きました。そしてその32時間後の嘉永7年11月5日(1854年12月24日)に安政南海地震(マグニチュード8.4)が発生し、南海沖の震源域が動きました。さらにその前回の宝永4年10月4日(1707年10月28日)に発生した宝永地震(マグニチュード8.4〜9.3?)は東海、東南海、南海が同時に動いており、「我が国最大級の地震」とされています。昭和の南海トラフ地震においては東海沖は動いておらず、現在もエネルギーを溜め続けています。将来予想される南海トラフ地震では東海沖も動く可能性が高いとされており、宝永地震に匹敵し、2011年の東北地方太平洋沖地震に比肩する超巨大地震になる可能性が懸念されています。

さて、戦後の混乱期をさらに自然災害が襲います。

昭和22年9月8日〜17日、カスリーン台風(昭和22年台風第9号)が襲来。上陸はしなかったものの(上陸説もあり)秋雨前線を大いに刺激し、関東地方と東北地方に大水害をもたらしました。特に関東地方においては利根川水系を中心に各地で河川が氾濫、「関東に巨大な湖が出現した」と言われるほどの洪水被害を及ぼしました。死者1077名、行方不明者853名。

昭和23年6月28日、福井地震。マグニチュード7.1の直下型地震が戦災復興の途上にある福井県を襲いました。昭和20年7月19日の福井空襲によって壊滅的破壊を受けていた福井市は再び壊滅的な破壊を受けました。死者・行方不明者3769人。

この年の9月7日〜19日、前年のカスリーン台風に続いて再び台風が関東地方と東北地方を襲います。アイオン台風(昭和23年台風第21号)です。死者512名、行方不明者326名。岩手県の北上川流域において、特に大きな被害が発生しました。

以後、我が国における地震活動は少しずつ落ち着きますが(無くなったわけではない)、台風被害は続きます。

昭和24年6月15日〜23日、デラ台風(昭和24年台風第2号)。主に九州・四国地方に被害。死者252名、行方不明者216名。

昭和24年8月7日〜19日、ジュディス台風(昭和24年台風第9号)。主に九州・四国地方に被害。死者154名、行方不明25名。

昭和24年8月27日〜9月5日、キティ台風(昭和24年台風第10号)。主に関東地方に被害。死者135名、行方不明者25名。

昭和25年8月30日〜9月7日、ジェーン台風(昭和25年台風第28号)。主に近畿・四国地方に被害。死者398名、行方不明者141名。

昭和26年10月9日〜10月16日、ルース台風(昭和26年台風第15号)。主に九州・四国・中国地方に被害。死者572名、行方不明者371名。

昭和28年6月25〜29日。西日本水害。梅雨前線による豪雨が九州地方北部を襲い、死者759人、行方不明者242人 。

昭和28年7月17日〜18日、紀州大水害。梅雨前線による豪雨が和歌山県北部を襲い、死者行方不明者計1015人。

昭和28年9月18日〜9月28日、台風第13号。主に四国・近畿・東海・北陸・関東地方に被害。死者393名、行方不明者85名。

昭和29年9月21日〜9月28日、洞爺丸台風(昭和29年台風第15号)。主に北海道で被害。死者1361名、行方不明者400名。死者行方不明の大半(1155名)が青函連絡船「洞爺丸」沈没による。他に青函連絡船「第十一青函丸」「北見丸」「日高丸」「十勝丸」も沈没。

昭和31年7月、経済白書は生産水準が戦前レベルに回復した事を宣言、経済復興は成りました。復興期のような急激な経済成長は終わったかに見えましたが、さらに空前の高度経済成長が始まる事になります。その間もチリ地震津波、新潟地震、十勝沖地震、狩野川台風、伊勢湾台風、第2室戸台風、昭和38年1月豪雪など自然災害が次々と我が国を襲います。

繰り返し襲い掛かる自然災害、そしてそれを乗り越えて復興を成し遂げる日本民族。「地震雷火事親父」。今回の鳥取地震や先般の熊本地震を考えながら、ダラダラと書いてみました。
中編の続きです。前編(http://blogs.yahoo.co.jp/sac_murakumo/56973240.html)と中編(http://blogs.yahoo.co.jp/sac_murakumo/56974941.html)を踏まえてお読みください。

中編と後編では茂左衛門地蔵尊千日堂所蔵の絵物語を引用しつつ、茂左衛門縁の地を紹介します。

大宝院塚

「茂左衛門の訴状が、昌月法印の手によって書かれたことが露見した。不惜身命、7万の生霊のために、その時が来たのを知った昌月は後顧の憂いなきよう妻を離別し、後事を弟に託した。崇高い人格、測り知れぬ博識、聖者の一語々は鉄石をも貫く力強さをもって、伊賀守に迫った。然るに君側の奸、塚本舎人は、昌月を送り還して恩田の道端で生きながら石子詰の極刑に処した。儀僧昌月、彼は埋れ木の花咲く春を地下に待つであろう」
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この昌月法印もまた、茂左衛門と共に記憶されるべき偉人であります。しかし何とも残酷な処刑でありましょうか。

国道291号を沼田方面へ走っています。「セブンイレブン沼田井土上店」前を通過し・・・。
(2015年9月4日撮影。以下当地はすべてこの日に撮影)
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「石長センター」前に・・・。
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ここが入口???
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たしかにここらしい。
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しかし単なる石材店の資材置場然としているが・・・?大宝院塚はどこだろう???
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畑を耕す地主さんに聞いてみると「そこにあるよ」と案内してくださいました。畑の小道を進むと・・・。

ここが大宝院塚か!
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場所はこの辺。
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(Yahoo地図より作成)

ここで昌月法印が石子詰にされたのか!
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碑文を読む。
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          大宝院塚由来

 大宝院は利根郡新治村須川の駒形山大宝院宝蔵寺の院号であり、この塚は同院住職第六世の権大僧都昌月覚端法印が今から三百年前、此処で石子詰めにされて絶命し地元恩田の人々が遺骸を葬り霊魂を弔い、大宝院塚と呼び供養をつづけている。

 時の沼田城主真田氏五代伊賀守信直は三代信政以来の治水開拓事業を継続、上牧から師に至る四ヶ村用水路を完成して百余町の開田をはじめ、岡谷、押野、月夜野、真庭ほかの用水堰や水田を造成し表石高三万石を倍余の領地に開発したが千五百余の家臣の給米だけでも三万九千余石と給金を要し、財政窮乏したため奸臣らが建策し不法の見地を行ない、高十四万余石として重税を課した。

 ために苦しむ民百姓を救わんと真庭村の名主松井市兵衛は幕府の目付役桜井庄之助に訴状を提出、月夜野町の茂左衛門は置文直訴をした。

 当の伊賀守は両国橋用材を請負い、十余万人と米五千二百俵、金子千両を費やして伐採した材木小屋二十余を消失、納期を失した。

 かくして伊賀守は天和元年(1681年)十一月、領地没収、身は山形城主奥平家へ預けられ、家臣はそれぞれ離散、沼田真田は断絶する。

 伊賀守の家臣は改易前に茂左衛門の直訴状を書いた者は、大宝院昌月法印であったとして捕え、城内で取り調べ帰山を許し、家臣が送り出し石子詰にして惨殺したと伝えている。
(一部手を加えてあります)

合掌。
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小袖坂

「177ヶ村のために、暫し身を潜めねばなるまい。再び江戸へ出ようと、子供達の寝顔に涙の別れを告げ、身を闇中へひるがえした。赤谷川の対岸、小袖坂へ差しかかった時、かねて作男となって留守中の我が家へ住み込んでいた幕府の隠密のために不意を打たれて、無念や終に捕らわれの身となった」
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月夜野黒岩と小袖坂を結ぶ「小袖橋」。赤谷川に架かっています。1935年(昭和10年)7月竣工の歴史ある橋です。
(2014年4月24日撮影)
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茂左衛門地蔵尊千日堂に展示されていた小袖橋の旧橋。木造橋です。茂左衛門の時代の小袖橋は縄の吊橋で、さらに上の崖から渡されていたようです。
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黒岩から小袖橋を渡ると、すぐに坂道になります。この坂道が茂左衛門が捕縛された小袖坂です。今では月夜野の桜の名所です。
(2014年4月24日撮影)
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場所のこの辺り。
イメージ 16

(Yahoo地図より作成)

茂左衛門地蔵尊奥之院

続いて小袖坂の先にある茂左衛門地蔵尊奥之院へ。

場所はここ。
イメージ 17

(Yahoo地図より作成)

駐車スペースは一応あります。
(2015年9月4日撮影。以下当地はすべてこの日に撮影)
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石段を昇る。足を痛めているので、これくらいでもけっこうキツイ。
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ここが茂左衛門地蔵尊奥之院。
イメージ 20


奥之院本堂。
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本稿では小袖坂と奥之院を別々に載せましたが、実質的にはこの辺りが茂左衛門捕縛地であったと思われます。
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木々がちょっと邪魔ですが、見晴らしは素晴らしい。
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三峰山が見えます。平安時代中期の歌人源順が、ここからの月の出の美しさを「よき月よのかな」と詠んだのが月夜野の地名の由来とも言われています。手前に赤谷川が流れており、ザーといい音がします。この先で利根川と合流。
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月夜野の町を見下ろす。
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義人茂左衛門刑場跡

「法親王大悲の御涙は、終に将軍綱吉を動かし破格にも、赦免の上使が発せられた。時すでに遅し、処刑は、天和2年11月5日と決定した。月夜野橋の袂、竹の下河原の刑場には、中央の磔刑柱には永の牢舎に、髭茫々とやつれた義人が、高々と縛りつけられている。下には荒筵の上には、いたいけな妻子の姿。磔刑柱の上に瞑目していた茂左衛門は、「皆の衆─」と呼びかけた。
「茂左衛門は死んでも、沼田領の年貢は、3年たたぬに、屹度引き戻して進ぜますぞ!」と別れを告げた」
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利根川竹の下河原の刑場。背景に雪の谷川岳を望む。

茂左衛門地蔵尊千日堂に展示されていた刑場跡の写真。かつて茂左衛門地蔵尊は処刑が行われた竹の下河原に置かれていました。しかし利根川が氾濫するたびに流され、その都度地元の方々が流された地蔵を見つけ出し、地蔵堂を再建していました。月夜野橋の一部が木造橋だった時代の写真です。おそらく大正初期の撮影。
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現在に至るまで春と秋の彼岸に茂左衛門供養祭が行われています。これは大正初期の供養祭の様子を伝える写真です。月夜野橋に大勢の人が渡っています。
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利根川氾濫のたびに流される地蔵尊の現状を憂いた人々は大正11年に高台に千日堂を建立しました。これは千日堂完成時の写真。後閑側から撮影したもので、手前が月夜野橋。
イメージ 29


現在の「月夜野橋」。1957年(昭和32年)竣工のこれまた歴史ある橋です。現在は県道273号線(後閑羽場線)の橋ですが、竣工当時は国道17号の橋でした。
(2014年4月24日撮影)
イメージ 30


刑場跡は護岸改修等によりかさ上げされ、河原という雰囲気は無くなりました。
(2015年3月4日撮影)
イメージ 31


場所はここ。
イメージ 32

(Yahoo地図より作成)

刑場跡から見上げた千日堂。
(2014年4月24日撮影)
イメージ 33


千日堂から見下ろした刑場跡。利根川が見えます。
(2015年4月12日撮影)
イメージ 34


月夜野橋下の竹の下河原から見た利根川と谷川岳。ここで茂左衛門は処刑されました。
(2014年4月24日撮影)
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状橋地蔵尊

「赦免の上使は、三国街道を頻りに馬を急がして居た。宮家の無辺なる御慈悲に対し、又将軍家の重き使命に対し申し訳ないと一散に駒を馳せた。刑場の手前一里なる、井戸の上村の土橋へ差しかかった時、群集に遭い、刑場の模様を訊ねた。処刑の終わりを知るや自責の念終に、その場に於いて切腹し果てた。状橋地蔵尊として烈士の冥福を祈っている」
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赦免の使者として江戸から月夜野へ向かいながらも、任果たせず自刃して責を負った小川安左衛門と加瀬甚之丞。道中各所で幕府隠密の妨害に遭い進行が遅れました。千日堂案内人の方の言によれば「赦免は幕府のパフォーマンスに過ぎなかった。直訴を許せば全国で続々訴えが出てしまう。このため、赦免しつつも茂左衛門の処刑は実行した。これでバランスを取った。もちろん使者の小川、加瀬両名はそんな事情は知らない。よって責任を取って自害したのです」との事。

県道61号(沼田水上線)を沼田方面へ走っています。
(2015年9月4日撮影。以下当地はすべてこの日に撮影)
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「井土上町交差点」を過ぎて国道291号に入り・・・。
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沼田市井土上町の「カワテ寝具店」の所で左折。
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ここに入って行きます。
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ちょっと走って・・・。
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さて、この辺に状橋地蔵尊があるはずだが・・・。
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個人宅の敷地にそれらしきものが・・・。
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お地蔵さん発見。
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場所はここ。
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(Yahoo地図より作成)

こちらのお宅に声をかけて入らせていただく。親切にも手前のクモの巣を払っていただきました。
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茂左衛門赦免が幕府のパフォーマンスに過ぎないにも関わらず、江戸から懸命に月夜野へ馬を走らせた幕府使者の小川安左衛門と加瀬甚之丞。処刑に間に合わせないための隠密の妨害を排除しつつ月夜野へ向かう。しかし予定通り間に合わず。そんな裏事情を知らず、責任を取って二人はここで切腹しました。合掌。
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隣に古い石碑があったが近づけなかった。
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これで前編、中編、後編と3回に渡った茂左衛門関連記事を終わります。美しい谷川岳見下ろすこの地で、かつて壮絶な物語がありました。合掌。
(千日堂から見た谷川岳。2015年4月12日撮影)
イメージ 49

これで群馬県の義民・義人関連の連載は一区切りとします。

(おわり)

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