尊厳は、卑しさを受け取り、
力は、弱さを受け取り、
永遠性は、死すべき状態を受け取りました。
私たち人間が担う負い目を解くために、
侵しがたい本性(神性)は、苦しみうる本性(人間性)と結ばれたのです。
こうして、神と人との仲介者である、人間イエズス・キリストは、
その1つの本性のゆえに死にうるものとなり、
もう1つの本性のゆえに死にえないものとなりました。
これこそ、私たちの癒しのためにふさわしいことでした。
このため真の神は、
完全無欠な真の人間性をもって生まれたのです。
主なる神は、ご自分に固有のものを全て完全にもち、
私たち人間のものをも全て、完全にもっているのです。
私が今『私たち人間のもの』と言うのは、
創造主が私たちを最初に創られた時のもの、
さらに回復するべく受け取られたもの〜人間性〜を指しています。
人間を欺いた悪魔がもたらしたもの、
人間が悪魔によって欺かれて受け入れたもの〜罪〜は、
救い主のうちには、その痕跡すら見いだされないのです。
主は、人間性の弱さを共にされたからといって、
私たちと罪を共にされたわけではないからです。
主は、罪に汚れることなく、しもべの形を受け取られました。
主は、人間性を高められましたが、神性を減じるようなことはなさらなかったのです。
主が、見えないものでありながら、見えるものとなり、
万物の創造主でありながら、死にうるものとなるほどに、ご自身をむなしくされたのは、
憐れみの聖心から溢れ出た遜りであって、力の喪失ではありません。
これゆえ、神のかたどりとしての、人間を創造された、
その同じ主が、しもべの形をとって、人間となられたのです。
こうして、天上の玉座から、降りつつも、御父の栄光からは離れず、
神の御子は、新しい次元において、新しい誕生によって生まれ、
この低い世の中に入って来られたのです。
『新しい地毛』とは、ご自分の本質においては見えない御方が、
私たちの本質においては見えるものとなられ、
把握しえない御方が、把握しえるようになり、
全ての時間に先立つ御方としてとどまりながらも、
時間的なものとして、存在し始められ、
万物の主でありながら、ご自分の限りない威光を隠し、しもべの形をとられ、
苦しみえない神でありながら、苦しみうる人となることを拒まれず、
不死でありながら、死の法則に服することさえ、いといませんでした。
神が憐れみを示される際、変化を受けないのと同様に、
人間性もまた、その品位が高められたとしても、なくなりません。
各々の本性は、互いに交わりながらも、各々固有の性質に従って行動します。
つまり、御言葉は御言葉固有の働きをなし、
肉体は肉体固有の働きをなすのです。
これらの一方は奇跡で飾られ、他の一方は、侮辱にさらされます。
それでもなお、御言葉は、御父と等しい栄光を失うことなく、
また肉体は、私たち人類の人間性を捨てることもないのです。
それは、度々述べなければならないことですが、
同じ唯一の御方が、
まことの神の御子であり、
まことの『人の子』であるからです。
神として。。。
それは、
『初めに御言葉があった。
御言葉は神と共にあった。
御言葉は神であった』(ヨハネ1.1)からであり、
人として。。。
それは、
『御言葉は、肉となり、
私たちの間に宿られた』(ヨハネ1.14)からです。
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2007/4/5(木) 午後 4:29 [ - ]