『私は自分の過ちを認めます。』(51.5)とダヴィドは言っています。
私はそれを認めているので、どうぞ赦してください。
私たちはあえて、自分が正しく生活しているとか、
罪を全く犯していないだとか、
思い上がった主張をしてはなりません。
神に赦しを願う、自分の生き方をこそたたえましょう。
改善の見込みのない人々は、
自分の罪に対して鈍感であればあるほど、
他者の罪を詮索しがちです。
そのような人々は、相手が改めることなど求めていません。
相手を非難するためのきっかけを求めているだけです。
彼らは自分のしたことすら弁解できないのに、
他者を訴えようとしています。
ダヴィドは、これとは全く異なった祈りの模範と、
神への償いの方法の模範を示してくれました。
『私は自分の過ちを認めます。私の罪は、常に私の前にあります。』と彼は言います。
彼は他者の罪を調べようとはしませんでした。
自分自身に目を向け、自分にへつらうこともせず、
反省し、自分の心に深く入りました。
彼は容赦なく自己を非難しました。
そのため、神に赦しを請うことに、あつかましさはありませんでした。
あなたは神との和解を望んでいますか?
それならば、神があなたと和解するために、
自分が何をなすべきかを考えなさい。
この同じ詩編で言われていることに注意しなさい。
こう書かれています。
『あなたはもはや、いけにえを好まれません。
私が供え物を捧げても、あなたはそれを喜ばれません。』
それでは、あなたの手元には、いけにえがないのでしょうか?
何の捧げものもないのでしょうか?
何かを捧げて、神をなだめることができないのでしょうか?
あなたは何と言いましたか。
『あなたはもはや、いけにえを好まれません。
私が供え物を捧げても、あなたはそれを喜ばれません。』
そこで続きを聞いて言いなさい。
『痛悔した霊、それこそ神へのいけにえ。
悔い改めて謙る心を、神よ、あなたは軽んじられません。』
あなたは以前捧げたものを捨てて、別の捧げものを見出しました。
あなたの先祖は家畜の捧げものを供え、それが『いけにえ』と呼ばれました。
『あなたはもはや、いけにえを好まれません。』
ですから神よ、あなたはそのようなものをお求めになりません。
それでも、いけにえをお求めになります。
ダヴィドは言います。
『私が供え物を捧げても、あなたはそれを喜ばれません。』
それでは、供え物や焼き尽くす捧げものが、御旨にかなわないならば、
何のいけにえも捧げられないことになるのでしょうか?
決してそうではありません。
『痛悔した霊、それこそ神へのいけにえ。
悔い改めて謙る心を、神よ、あなたは軽んじられません。』
ですから、捧げるべきものは、既にあなたの手元にあります。
家畜の群れの中に捧げものを探すのをやめなさい。
香を買い求めに、船を準備したり、
航海に出たり、遠くの国まで旅をする必要すらありません。
自分の心の中に、神の御旨にかなうものを探しなさい。
打ち砕くべきは、心です。
悔い改めのうちに心を打ち砕いても、
滅びる心配はありません。
詩編は言います。
『神よ、私のうちに清い心をつくり、新しい確かな霊をお与えください。』
清い心が創造されるために、
汚れた心を打ち砕きましょう。
罪を犯した際、自分自身を嫌いましょう。
神が、罪を嫌っておられるからです。
罪のない人はいません。
ですから少なくとも、神が嫌われることを、私たちも嫌う、という点で、
神に似たものとなりましょう。
あなたを創造なさった御方が嫌うところを、
自分のうちに見出して、嫌うなら、
あなたはこの点で、神のご意思と一致することになるのです。
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はい。。そうですよね!
自分なんですよね。。
ポチ☆
2007/7/15(日) 午後 6:57 [ ☆ティアラ☆ ]
人を憎むことなかれですよね***
確かにイエス様も十字架に貼り付けられても、彼らは自分のしている
事が分からないのです***といわれました。
相手が変わるのではなく、自分自身の生き方や立ち振る舞い***や
自分にとってプラスになるお友達と楽しく微笑みながら、今<現在>
これからも、戦争のない&ケンカのない地球になる様に<yuly>
2007/7/15(日) 午後 7:50 [ ショコラ ]
「罪を憎んで人を憎まず」という事ですよね。。。
この記事に、考えさせられます! ポチ☆
2007/8/6(月) 午後 11:55