神だけに固有のものがあります。 それは、罪の告白を受ける特権、罪を赦す権能です。 私たちは神にこそ罪を告白し、 神から罪の赦しを期待すべきです。 罪を赦すことができるのは、神だけです。 ですから、神にこそ罪を告白しなければなりません。 しかしながら、全能の神が、弱い教会を、 偉大な神が、身分の低い教会を、 『花嫁』として迎えることによって、 はしためを『王妃』にしてくださいました。 こうして神は、その足元で後ろにいた者を、 ご自分のわきに立たせてくださいました。 教会は、そのわき腹から生まれました。 主は、教会と婚約してくださったのです。 父と子は、本性上、1つですから、 父のものは全て子のものであり、 子のものは全て父のものです。 これと同様に、花婿であるキリストは、 花嫁である教会に、ご自分のものを全て与え、 また花婿であるキリストは、花嫁である教会のもの全てをご自分のものとし、 教会をご自分と一致させ、 また御父とも一致させてくださいました。 御子は、花嫁のことを御父に頼んで語っておられます。 『私とあなたが1つであるように、 彼らも私たちと1つであることを望みます』(ヨハネ17.21,22) 父と1つであり、花嫁である教会と1つである花婿キリストが、 花嫁としてふさわしくないものを十字架に釘付けにして取り除き、 自ら十字架にかかって、その身にその罪を担い、 十字架によって、それを取り除いてくださったのです。 御子は、人間本性に固有なものを受け取って身につけ、 ご自分に独自の神的なものを、人間に与えてくださいました。 すなわち、悪魔的なものを取り除き、 人間性を身につけ、神的なものを与えられたのです。 それは、花嫁のものが、全て花婿のものとなるためでした。 そこで、罪を犯したことがなく、その口に偽りがなかったキリストは、 『主よ、憐れんでください。私は病んでいます』(詩編6.3)と言われました。 こうして、花嫁の病を自らのものとしてくださったキリストは、 花嫁の嘆きをも共にし、花婿のものが全て、花嫁のものとなったのです。 そこから、罪の告白を受ける特権と罪を赦す権能が、 花嫁である教会のものとなりました。 ですから今は、『行って司祭に体を見せなさい』(マテオ8.4) と言わなければならないのです。 したがって教会は、キリストなしには何も赦すことができず、 またキリストも、教会なしには何も赦そうとはされないのです。 教会は、悔い改めている者の罪、 すなわちキリストによって心に触れられた者の罪しか赦すことができません。 一方、キリストは、教会を無視する者の罪を赦そうとはされません。 『神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない』 それゆえ、頭と体を切り離してはなりません。 『私は、キリストと教会について述べているのです』(エフェゾ5.32) 切り離せば、全体のキリストには決してなりません。 事実、全体としてのキリストは、 教会なしでは決してありえませんし、 全体としての教会も、キリストなしでは決してありえません。 そもそも全体としての十全なキリストとは、頭と体からなるものです。 ですからキリストは言われます。 『天におられる人の子の他には、天に上ったものは誰もいない』(ヨハネ3.13) その全体としてのキリストこそ、 罪を赦す唯一の人間なのです。 |
知恵の響き(◕‿◕✿)
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素晴らしいです。。。♪傑作です。。。♪お気に入りしておきました。。。♪よろしくお願いします。。。♪
2008/4/24(木) 午後 1:12 [ 77 ]
確かにそうです(^ω^)
思わず感激、傑作ぽち⊂二二二(^ω^)二二二つ
2008/4/24(木) 午後 4:41
罪のゆるしが人に与えられるのは、神様からの大きなお恵みですね
今は信仰年なのでゆるしの秘蹟をうけることが特にすすめられているそうです
痛悔して罪から離れる決心をして、神様のゆるしを
いただいて心身もいやされることも多いそうです
2013/3/10(日) 午前 1:31