法と罪と赦し(◕‿◕✿)

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第3章 ゆるし

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5.罪を赦された人〜放蕩息子〜


 神は、ご自分の子供たちが遠ざかってゆくのを我慢できない。

 子が、彼のもとを立ち去ってゆくと、
 たとえその子が、罪深く、取るに足りない、つまらない者でも、
 彼の親心は耐え難い悲しみに閉ざされる。
 だから神は、なんとしてもその危機を逃れさせたい。
 当然の罰を要求する正義の声も、
 神の聖心に響く憐れみの声に、鳴りを潜めねばならない。

 神は、なんとしても赦したい。
 神の憐れみの前に、他の全ては沈黙すべきである。



 主キリストは、私たちを納得させるために、
 放蕩息子のたとえをもって、事情を極端にまで押し進めている。

 コトの成り行きが示すように、愛に燃える深い親心に富んだ父に、ふたりの息子があった。
 そのうちの1人は、不肖な子で愛を理解しえなかった。

 彼は最低限度の孝行心までも殺してしまう、極端な利己主義者であった。
 自分の欲望だけに心を奪われ、大きな愛にあふれた父をもっていながら、
 彼は極悪な人間になりさがる。
 彼にとって父とはなんであろうか?
 それは、金銀や財産の豊かな貯蔵庫に過ぎない。
 福音書が示しているように、「放蕩して」気ままに遊ぶのに十分な金銭の貯蔵庫である。

 彼は、邪欲にかられ、恥ずかしい情欲のとりこになって、
 父に、自分がもらう財産の分け前を要求したのである。
 どうして彼は、これほどまでに堕落したのだろうか?
 それは決して急のことではない。

 悪徳は、激しい濁流のようなものである。
 もし、適切な堤防を築いて導かないなら、氾濫し、
 霊魂の内部にまで押し寄せてくる。
 悪徳は容赦のない暴君で、全てを自分に従わせようとする。
 こうなればもう、あたたかい家庭のありがたさもわからなくなる。
 父の嘆きも、後に残る兄の寂しさも、彼には余所事である!


 悪徳は、彼に向かってこう言う。
 『ここにいたのでは思うように遊べはしない!
  さぁ!何をためらうのか?
  早くここを離れて出発するんだ。
  誰の言うことにも耳をかすんじゃない!
  さぁ、出発だ!』

 放蕩息子のやり口は、まさにこの通りである。
 彼はもぅ我慢できず、何人の勧めも聞かない。
 父のところへ行き、命令口調で要求する。。。『私の分け前をください』

 彼の要求は一方的である。
 どんな戒めも聞き入れない。
 父は、やむなく彼の要求する分け前を与える。

 子は、聖書にあるとおり、『自分のものをみな集めて遠国に行き』、
 そこで放蕩して、財産をみな使い果たしてしまった。

 遊びというものは、ひとつの欲望を満足させると、
 さらに激しい、もぅひとつの欲望を生み出す。
 感覚は、暴君のようになる。

 よい家庭の息子であった彼は堕落して、泥沼にはまり込み、紅灯の巷を遊び暮らす。
 老獪な売春宿の仲居にだまされ、彼は、文無しの丸裸になる。

 さて、彼はどぅなったろうか?

 お金があった時、みなは、彼を取り巻いて親切にしてくれた。
 しかし、文無しになった今は、誰一人振り向こうともしない。
 間もなく飢えが迫ってくるが、誰も彼に手を差し伸べようとしない。
 彼は、生まれて初めてひもじさを味わったのである。

 なんとかしなければならない。
 しかし、折りしもその国に大飢饉が起こったので、彼のひもじさは一層ひどくなった。
 そこで仕方なく、ある人の所に雇われに行き、その人の畑で豚を飼った。
 こうして彼は豚飼いとなった!

 しかし、そこでも彼は空腹だった。
 彼は、豚の食ういなご豆で腹を満たそうと思ったが、誰もくれてがなかった。
 豚を肥やせ!。。。これが雇い主の至上命令であった。


 彼を見よ。
 豚がえさを食べているのを空腹をかかえて、
 その糞汁の中に立って眺めている。
 『私はここで飢え死にしようとしている。。。心が砕かれ体も弱っている。。。
  ここの人たちは、私がこの糞汁の中で倒れるのにまかせようとしている。
  まるで、役に立たない野良犬か何かのように。。。』

 彼の精神は悩んでいるが、程度の低い悩みである。
 彼は、空腹を満たそうとする肉体的な必要だけを感じている。
 『ひもじい!何とかして食べたい』。。それだけである。

 彼が悩むのは、自分の悪徳とか、老いた父に心配をかけたとか、
 家族に恥を負わせたとか、そういうことのためではない。

 彼は。。。
 『父のところでは、十分にパンを食べている雇い人が沢山いるのに、
   私はここで飢え死にしようとしている。一番卑しい雇い人の豚の番人でさえ、
  私の父の所では十分に食べている。
  そぅだ、他に道がない。生きるか死ぬかの境目だ。
  私は出発しよう。食べ物のある所に行こう。
  父の所に帰ろう』と独り言をいい、
  父のもとへ出発することにした。


 これほど卑しい、利己的な痛悔があろうか?
 これは、カトリック要理でも『不完全な痛悔』と呼ぶものである。


 彼は、
 『善良なあの父が、私の親不孝をどんなに嘆き悲しんだことだろう。。』
 とは言わない。
 あるいは、
 『家の者が、私のためにどれほど外聞の悪い思いをしたことだろう!
  私は、この家族から全てを受けながら、その面目と名誉を損ない、
  愛情に満ちた和合を損ない、罪を犯したのだ』
 『私は、家の恥さらしとなったのだ』
 とは決して言わない。

 彼が口にするのは、『私は空腹だ!』という卑しい言葉である。

 財産も、名誉も、善徳も、全てを失った彼が、今、父の所に帰るとしたら、
 どんな迎え方をされるだろうか?
 彼も自分の卑しさを認めなければならない。

 彼は父に、
 『お父さん、私は罪を犯しました。
  私はもぅ、あなたの子と呼ばれる資格はありません。
  どぅぞ私を、雇い人の1人として扱ってください!』と言おうと決めた。

 たとえ雇い人の1人であっても、
 この雇い人たちは、十分に食べて腹を満たすことができるのだ。。。


 そして彼は出発し、父のもとへ帰った。
 。。。彼が、以前歩いてきたその道を、今は戻って行くのである。
 しかし今は、やつれ果て、昔日のかげもなく、
 やせ細ったからだにボロ服をまとい、豚の悪臭さえ漂わせている。
 しかし彼は帰って行く!

 父は、罪深い我が子よりも先に彼を見つけ、走り寄る。
 『まだ家から遠く隔たっていたのに、父親は彼を見つけて憐れに思い、走り寄った。。。』

 走り寄った。。。
 息子は、空腹と疲労のために思うように歩くこともままならず、
 『父からひどい扱いを受けるのではないか』との恐れも手伝い、足取りも重かったが、
 我が子を見たいと渇望する父は、彼よりも先に走り寄る。

 懐かしみの心と眼をもって、父は、我が子が震えるのを遠くから見た。
 我が子が帰ってくる!
 これこそ、父の愛の最大の勝利であり、その喜びの絶頂である。

 我が子が帰ってきた。。。
 この事のみを考え、他の事を全て忘れる。
 遠くへ去って姿を消し、失われてしまったその子は、見よ、帰ってきたのだ!

 さぁ、来るがよい。
 あなたの首を、私のこの胸に抱きしめよう!

 父は、非道なこの子の悪徳や、失った財産や、恥ずかしい落ち度の全てを忘れて、
 ただ、我が子のことだけを考える。

 そして、『喜び合おう』と言い、祝宴を開いた。

 祝宴。。。
 この祝宴は、賞罰権に基づく人間的な正義、
 義務的なこと以外何ものも与えない人間的な正義と理論への挑戦である。
 実際、父の考え方は、それとは違う。
 『私のこの子は、死んでいたのに生き返り、見失ったのに見いだしたからだ』と言う。

 そして、一番いい服をこの子に着せ、肥えた子牛を殺し、
 楽士たちを呼んで賑やかに祝宴を開き、喜び合おうと命令する。
 そればかりか、父の財産を浪費した子の手に、
 最も恥ずかしい罪を犯した子の手に、
 父の家の子のしるしである指輪をはめる。

 父は言う。
 『さぁ、料理人たち、しもべたちよ、急いで集え。
  下から上まで、全ての人が喜び合うように。一番大きな祝宴をするように!
  この祝いの賑わいが、遠くまで聞こえるように!
  家中が、あかあかとした灯火で照り輝くように!
  そして、長男であるあなたは、私の財産のうち、好きな分を取るがよい。
  ただ、弟に嫉妬心を抱くな。この祝いに、なんのかげもささないように。
  さぁ、祝え!こぞって祝え!』

 しかし、父よ、彼は何をしたというのだろうか?
 何か英雄的な行いをしたのだろうか?
 勇敢な手柄を立てて、あなたに尊敬をむくいたのだろうか?
 莫大な財産を、ものの見事に手中に収めたのだろうか?
 光栄ある結婚を結ぶ幸運に見舞われたのだろうか?
 意外な幸福に恵まれて、家門の名誉となったのだろうか?

 いな、そぅではない!
 彼は、ただ帰ってきたのだ。ひとりの憐れな子が、帰ってきたのだ!
 父でないなら、何人もかえりみない放蕩の子が。
 飢えにやせ衰え、疲れきって足を引きずっている我が子が。
 そして、この惨めな状態を自分でつくった我が子が。。

 さて、読者よ、答えてほしい。
 あなたが心に思いめぐらすことのできるどんなよい人間も、
 このような子供に対して、怒りの念が起こるのを禁じえないだろう?

 古今の偉大な思想家たちの著書の中に、
 また、人類が誇りとする天才たちの傑作の中に、
 福音書のこのたとえに比較できる、ただの1行でもあるだろうか?

 このたとえは、私たちを全く神的な段階へと導く。
 この上ない利己主義が、この上ない慈愛によって征服されたのである。

 。。。人間に過ぎない私たちなら、
 彼に対して、放蕩の恨みをかろうじて押さえ、自分のあらゆる寛大さにうったえながら、
 『よく帰ってきた!さぁ、父のところに来るがよい。
  私は、どんなにあなたのことを心配しただろう。。
  ごらん。父の家ほどよいところはない。
  。。。まぁ、よい。過ぎたことは忘れよう。安心するがよい』
 としか言えなかっただろう。

 私たち人間は、
 愛においてさえ限りがあるのである。

 しかし神は、人を赦すことにおいてさえ、その限りない全能を示される。

 天において大きな祝いが行われるのは、
 神の聖心が勝利を得たからである。
 そして、罪が深い時、
 赦しの勝利も、さらに大きいのである。




閉じる コメント(8)

理屈抜きの愛こそ真実なのですね。
母としてこのお父さんの気持ち
凄くわかります。
愛はただ
そこにあるだけでいいのです。

2007/11/18(日) 午後 0:08 がーでん

人間の愛には限界があっても神の愛はただ与え続けるだけ・・
その愛に身を任せて初めて愛を知ることが出来るのかもしれませんね・・

2007/11/19(月) 午前 0:14 ろびん

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はじめまして
ご訪問ありがとうございます。
イエス様の絵がトップに出ていましたので、嬉しい感謝です。
わたしはプロテスタントです。
無条件の神さまの愛に出会って感謝して生きています。

2007/11/19(月) 午前 11:28 angelcat

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今の心境にとてもあってる記事でした〜心が安らぎます〜サンキュ(* ゚̄ ̄)/・・・・・・・♪

2007/11/19(月) 午後 11:54 ♪ベビ♪

愛に甘えるのではなく、愛に実をゆだねる感じでしょうか。。。

>遊びというものは、ひとつの欲望を満足させると、
>さらに激しい、もぅひとつの欲望を生み出す。

目にしたときの自分の状態にもよるのでしょうけれど、この一説が今日はとても目に付き何か感じさせられました。。。
ありがとうございます*^^*

2007/11/21(水) 午前 10:26 lun*_d*_la*ge*t

放蕩娘のクララσ(・(エ)・o)が帰ってきました

2007/12/31(月) 午前 9:07 クララちゃん

傑作ぽち(〃'(ェ)'d)(b'(ェ)'〃)ぽち♪

2007/12/31(月) 午前 9:10 クララちゃん

も一つ村のぽち(〃'(ェ)'d)(b'(ェ)'〃)ぽち♪

2007/12/31(月) 午前 9:11 クララちゃん


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