法と罪と赦し(◕‿◕✿)

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第3章 ゆるし

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5.罪を赦された人〜姦淫の女〜


 次に、神の完全さが、最も恥ずかしい罪に対面させられる場面を考察しよう。
 イエズスと、姦淫の女である。


 イエズスは、かんらん山で祈りを終えて帰る途中であった。
 彼の神的霊魂は、常に御父と一致しているが、
 神の御子が自然的に引き受けた、地上のつまらぬ、わずらわしい雰囲気から、
 しばしばご自分を引き離されたのである。


 『イエズスが、夜明けごろ、また神殿においでになると、人々が皆みもとに来た』
 幕屋祭の頃であった。
 幕屋祭は、その遊びや男女の交歓、夜更けまで続く行事が、
 そのまま、みだらなことをする好都合を提供していたといえるのである。


 さて、ひとりの女が姦淫の罪を犯し、
 その罪の最中に捉えられて、イエズスの前に引き出された。

 『姦淫のさなかに捕らえられた!』

 彼女は、人々の好奇心と悪意に満ちた喜びの的となった。
 しかし厳格主義をもって任じる彼らも、自分を振り返ってみるなら、
 自分たちが、それより恥ずかしい罪を犯す者であることを悟るはずであり、
 今までの生涯において、彼女と同じ、恥ずかしい罪を犯したことを思い起こしただろう。

 彼女に対して、厳しい道徳の掟を振りかざす彼らは、
 邪欲のいざないにかかった時、容易にそれに負けて罪を犯したのではないか?


 他人に容赦しない彼らの偽善に対しては、神も容赦を示さない。


 偽善が具体化し、頑なに固執する傲慢な偽りは、
 神の恵みを妨げるほどの、何人も越え得ない障害である。
 彼らは自分からその心を閉ざすので、神の入る余地がない。
 神の愛のことばを受けるのには、
 神に愛されたい必要を言い表すだけで十分である。
 彼らは自分に満足している。

 彼らのこの自己満足は、どんな結果をもたらすだろうか?
 容赦のない厳格主義者である彼らは、
 恥ずかしさで震えている罪の女をキリストのもとへ引いてゆく。


 自分以外の他人に厳格主義を振りかざす彼らは、律法にうったえる。
 厳格な律法学者である彼らは、
 モーゼ〜神から直接に律法を受けたそのモーゼ、全ての論議以上のそのモーゼ〜を引用する。



 モーゼは、彼女の罪を『死にあたる』と律法で命じている。
 そして、その命じる死刑は、恐ろしい石殺し〜石を投げて殺すこと〜である。
 しかし、当時モーゼのこの律法はもぅ守られていなかった。
 おそらく民間の道徳観が極度にすたれて、
 この掟の実行は困難になったにちがいない。
 しかし、律法学士たちにとっては、
 イエズスに恐ろしいジレンマを提供して困らせ、
 彼を訴えるきっかけを作るまたとないチャンスであった。


 『彼女を殺さねばならないのか?』
  殺せば、もぅ適用されなくなった恐ろしい法律と、
  その刑罰を復帰させることになる。

 『殺さないでよいか?』
  それは、モーゼを否定することになる。



 その質問は、一見無邪気なもののように見える。
 潔白な生活をよそおう彼らは、息を詰めて確答を待っている。
 彼らは、単純そのものだ。
 先生の答えを鵜呑みにする生徒のように待っている。。。
 しかし、彼らの偽善を見抜いたイエズスは、なんと答えるだろうか?
 彼のことばを聴こう。



 『あなたたちのうちで、罪のない人がまず、この女に石を投げよ』



 神は、おのおの自分を裁かないうちに、他人を裁かないようにと要求する。
 『あなたたちが量れば、それと同じ秤で、自分も量られるのである』(マテオ7.2)


 にわかに、彼らの邪まな期待はかき消されてゆく。
 神は、彼らに、彼ら自身を対立させ、
 その生涯と悪事を、まばゆいほどの明白さをもって彼らに示したのである。


 しかし、『真実である』と認めるのに、彼らはあまりに傲慢である。
 もし彼らが、その真実を認めるなら、聖徳の道をふみはじめ、
 神の愛の豊かな流れを受けるために、心の扉を大きく開いたことだろう。
 しかし、彼らが見せるのは、卑怯者の態度である。


 福音書が記すように、彼らは『老人をはじめ、1人ひとり去って行った』
 つまり、彼らは、真理を逃れたのである。
 これこそ、人にとって最大の災いである。



 彼らと違い、かの罪の女は、いやしめられ、恥ずかしさで赤面し、
 自分の罪を認めて泣き悔やむ。


 罪人の涙を見て、神は逆らえない。


 『婦人よ、彼らはどこに行ったのか?
  あなたを罰した人はいなかったか?』
 『彼らはもぅ、あなたを罰しない。私もあなたを罰しない。
  行きなさい。もぅこれからは罪を犯さないように』



 もぅ罪を犯さないように!

 神の赦しは、私たちの心を、彼に対する愛で満たす。。
 私たちは、自らの振る舞いを改めさせるその愛で、心を満たさねばならない。



 姦淫の罪は。2人で犯す罪である。
 ここに登場したのは女だけであるが、男はどこにいるのか?
 彼は、女の弱さを濫用したために、彼女よりも罪があり、
 彼こそ、罪のおもな責任者と言うべきである。
 おそらく彼は、律法の盲点を知っていた男だったのだろう。

 いずれにせよ、神の律法の第1原則は、人を救うことであり、
 神は、私たちの霊魂を救うことを望んでおられるのである。




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Benedictus様
此方様にたくさんのお祈りが綴られ、大切な言葉が挙げられて、気持ちの向くまま其の日其の日にたまたま選び読んだページには、其の時の自分が読むべき言葉が選ばれて書かれているような気持ちになります。
今日の私は自己反省ができる素直な心を得たいと望みながらページを開きました。そして必要な事が与えられました。

2012/10/19(金) 午前 0:13 [ S ]


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