全ての被造物に、神は1つの役割をまかせる。
霊魂がすぐれて寛大であればあるほど、その使命もすぐれている。
神は大天使を通じて、マリアを『恵みに満ちた御方』と宣言するその同じことばをもって、
世に救い主をもたらす使命をマリアに提供する。
マリアの寛大な、明白な承認は、
私たち人間の贖いの時を決定したのである。
世に救い主をもたらすこと!
それは、人間の数多い罪の清めのために、自分の肉の肉を、
神の正義に対するいけにえとして捧げることに承諾することにあたる。
罪の汚れのない彼女の霊魂は、
神の愛の流れを豊かに受けるために、
いつも大きく開かれていた。
この神の愛が贖いの時を決定した時、
彼女はどうして、神の贖いの御業に強力するのを拒みえたであろう。
彼女が、罪の汚れのないものとして神から造られたのは、
神の恵みを受けることの模範となり、
聖霊によって救い主を生み出すことができるためであった。
被造物が自分の全てを神の御手に委ねてその御旨にかなう時、
神はその被造物を、最も卑しい現実から出発させ、
最も超越した高みへと至らせるのである。
数多の聖人、聖女たちのこのプログラムを、
マリアは全体的なささげものの完全さにまで実践しなければならなかった。
『私は主のはしためです!』(ルカ1.38)
これが彼女の動機である。。。。神の御旨!
神が望むなら、私はそのとおりにしたい。
だからその営みは、
神と私の2人でする行いとなる。
そして神の指図によってのみ生きるので、私もたえず神化してゆく。
『あなたの御言葉どおりになりますように!』
この謙遜な言葉をもって、贖い主イエズスが生まれた。
この言葉は、単なる受身やあきらめではなく、
活動的な決定力にとんだ魂の言葉である。
マリアは決して疑いを抱かない。
彼女はいつも、自分の決定について全き安全さをもっている。
十字架のもとにいた時も、
他の人々が『彼が神ならば十字架からおりよ』と奇跡を求めたが、
彼女はうろたえなかった。
御子の神性を少しも疑っていなかったからである。
そのためにこそ、異教徒が予想もできなかったこの上ない寛大さが生じてきたのである。
彼女の心は、最も清い、正確な忠実さの単なる響きにすぎない。
老人シメオンは、彼女に真実を隠さなかったが、
彼女も、神が贖いを行うために選んだ手段が、
苦しみ〜人々が最も恐れるその苦しみ〜であることを知っていた。
老人シメオンはその挨拶の中で、
『神が万民のためにそなえられた主の救い』をほめたたえると共に、
『苦しみの剣』が、彼女の心を貫くだろうと告げて、
マリアの承諾に提供された使命をあからさまに説明する。
処女の清い感受性に富んだ彼女の霊魂は、この見通しを聞いて、
どれほど激しい打撃を受けたことだろう。
しかし、全てを押し潰してのみくだる激流のように、
この奇跡的な受肉の偉大な思想、その唯一の存在理由〜人々の贖い〜は、
彼女の人間的感受性の強烈な反抗にも打ち勝つのである。
人々の贖い。。。
御父の愛の決定によって、
御子の承諾によって、
聖霊の協力によって、
人々の救いのことは、全てマリアにかかっている。
罪の汚れのないものとして造られたのも、
大天使の告げを受けたのも、
みな、神の御業であり、
これに続いて、マリアが行うべき業が残る。
これほど多くの恵みをいただいた彼女が、
私たち人間の贖いをえるのに必要な承諾を、
どうして拒むことができただろうか?
この時、彼女の生命は、神的偉大さの絶頂にまで達した。
彼女は、御父である神と共に愛し、
御子である神と共にいけにえを捧げること以外、何もしなかったからである。
御子は、かけがえのない高い値段で罪の贖いを買い求めた。
そして彼女も、この贖いのために全てを捧げた。
マリアは、大きな愛と心をもって御子と一致し、
そのために、彼の心が、彼女の心となり、
彼の生命といけにえとの理由が、彼女の理由ともなったほどである。
キリストの生涯は、世の贖いのたえざる連続であった。
最も価値あるその生涯の各瞬間は、
人々の贖いを勝ち得ていた。
その御母の生涯もまた、そのとおりであった。
世界はこの2人のうちに、
1つの見地、1つの使命、1つのいけにえをもつ光栄をえたのである。
お2人の30年間余にわたる隠れた生活の偉大さを理解するのに、
私たちは、死後の天の昼の輝きを必要とする。
このひそかな生活において、
彼の謙遜は彼女の謙遜であり、
2つの霊魂の中に同じ神秘があり、
彼ら2人がただ1つの考えをもってこの神秘を観想し、味わい、
隠れたうちに果たされた献身と義務によって得られる贖いの神的方法を、
その生活の方法としていたのである。
この在り方は、
傲慢の産物であり災いのみを生み出す人間的・地上的・一時的な全ての手段に対する、
神の復讐ともいえる。
事実、この贖いを得るのに、
金銭や財産はなんの益にもならない。
ただ捧げること、全てを捧げることである。
こうして、物質的なものでなく、霊魂こそ〜イエズスの神的霊魂とマリアの清い霊魂〜、
日々、ナザレトの家の中で、その謙遜な生活のうちに、
御父の憐れみを請い求める贖いの功徳の資本を少しずつ蓄えるのである。
この救いを受けるのに、
賑わいも、らっぱを吹き鳴らす軍隊も、殺人の恐ろしい武器も、
むなしい雄弁も、さわがしい宣伝も、
人が成功する秘訣とされる一切の外交的な心得も、
また、喜劇のようなから騒ぎも、
事実の結論として、涙・憎しみ・死だけを生み出すつまらぬものに過ぎない、
いわゆる人間の富は、ひとつも役に立たない。
マリアは、神と共に、神の手段を使う。
そして、神のこの手段をつかうことに、
彼女はどれほど深い幸福を感じたことだろう。
彼女は、付近に住んでいる他の婦人たちとなんら変わることなく、
御子イエズスもまた、『大工の息子』と呼ばれていたのである。
御子が40日間荒れ野に退いた時、
マリアは、つらい別れをしのばねばならなかった。
地上の生活は、全て別れから成り立っている。
この最初の別れは、聖金曜日の悲劇的別れの序曲とも言うべきものであった。
また、偉大な捧げもののひとつの繰り返しでもあった。
なぜなら御子は、日増しに『御父のことに従事するはず』(ルカ2.49)であり、
その御母も、彼との贖いの一致によって、
その隠れた功徳の生活を捧げねばならなかったからである。
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読みました。ありがとう。(^_^)
ポチっとしましたよ。
チョッと私には難しいかな? また来ますね。
2007/12/2(日) 午後 5:25
さっきはゲスブありがとうございます。
全部読んだ〜。アタマの中では少しわかったけど・・・、
う〜ん、けっこうむづかしい・・・。
ちょっと、この文章の意味考えて見ます。。。
2007/12/7(金) 午後 6:39 [ しゅう ]