真理の輝き(◕‿◕✿)

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4.信仰

1.信仰による従順


 目に見えない神は、啓示によって、
 大きな愛のうちに、あたかも友に対するように人間に話しかけられました。
 それは、人間をご自分との交わりに招き、これにあずからせるためでした。
 この神の招きに対するふさわしい回答が、信仰です。

 人間は、信仰によって、
 その知性と意志を神に従わせ、ご自分を啓示する神に、心の底から同意します。

 聖書は、啓示する神への人間の応答を、
 『信仰による従順』と呼んでいます。


 『信じる』とは、
 実際に目で見ることのできるものよりも、
 もっと深い確信をもって信じることを意味します。

 なぜなら、『信じる』とは、
 誤ることも、人を誤りに導くこともあり得ない神が、教会に啓示され、
 教会を通して私たちに与えられた事柄を受け入れることだからです。


 『信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです』(聖パウロ)


 信仰によって聞き従うことは、
 聞いた言葉に、自由に、自分を委ねることにはかなりません。
 その真理が、真理そのものである神によって保証されているからです。

 聖書における『信仰による従順』の模範は、
 特に、アブラハムとおとめマリアです。

 アブラハム〜信じる全ての人の父〜は、
 信仰によって、神からの召し出しに服従し、行き先も知らずに出発し、
 信仰によって、約束の地で、寄留人・旅人として暮らし、
 信仰によって、サラの懐胎が実現し、
 信仰によって、1人息子を犠牲として捧げました。

 おとめマリアは、『信仰による従順』を最も完全に具現しました。
 幸いなおとめマリアは、
 信仰によって、天使ガブリエルによるお告げと約束を受諾しました。
 『神にできないことは何一つない』(ルカ1.37)という言葉を信じ、
 『私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように』と同意しました。

 エリザベトはマリアに、
 『主が仰せになられたことは必ず実現すると信じたかたは、なんと幸いでしょう』
 と挨拶しました。(ルカ1.45)


 マリアの信仰は、その生涯にわたり、
 ご自分の御子イエズスが、十字架上で死ぬという最後の試練に遭った時ですら、
 揺らぐことがありませんでした。

 マリアは、神の御言葉の成就を、いつも信じていました。
 それ故教会は、
 マリアを、信仰を最も純粋に生きた御方として敬うのです。

 教会は、
 唯一の神、聖父と聖子と聖霊への信仰を、いつも公言します。


 キリスト者の信仰はまず、神への人間の人格的な帰依であり、
 それと同時に、神が啓示されたあらゆる真理への自由な同意を伴います。

 なので、誰か1人の人間を信じることとは異なります。
 神でないものをこのように信じることは虚しく、誤っています。


 キリスト者にとって、神を信じることには、
 必ず、神が遣わされた御方、
 神のみこころにかなう『愛する御子』を信じることが伴います。

 私たちがイエズス・キリストを信じることができるのは、
 この御方ご自身が神であり、
 人となられた神の御言葉だからです。

 御父を見ておられる御子だけが、
 神を知らせ、神を示すことができるのです。


 また、イエズスの霊を受けることなしに、
 イエズス・キリストを信じることはできません。
 イエズスとは、どのような御方であるのかを人間に知らせるのは、聖霊です。


 『聖霊によらなければ、誰も「イエズスは主である」とは言えない』(聖パウロ)


 神だけが、神の全てをご存知です。
 私たちが聖霊を信じるには、
 聖霊が神であるからです。


2.信仰の特徴

 信仰は恩寵です。


 聖ペトロが、イエズスが生きる神の御子キリストであると公言した際、
 イエズスは、このことを表わしたのは人間ではなく、天の父であると言明されました。


 信仰は、神のたまものであり、神から授けられた超自然的徳です。

 このような信仰を起こすには、
 神の先行的かつ援助的恩寵と、聖霊の内的助力が必要です。

 聖霊は、人の心を動かして、神に向かわせ、精神の目を開いて、
 全ての者に、真理を受け入れることを、
 そして、信じることの甘美さを味わわせます。

 信じることは、人間的な行為です。

 神に信頼し、神から啓示された真理に同意することは、
 人間の自由にも知性にも反することではなく、尊厳に背くことでもありません。

 人間関係の場合でも、
 相手が話してくれるその人自身のことやその考えなどを信じたり、
 その約束に信頼したりすることが、
 自由や知性に反することでも、尊厳に背くことでもないのと同様です。
 ただ、人間の場合は、誤りやすく、約束も守れないことがしばしばです。


 信仰においては、
 人間の知性と意志は、神の恩寵に協力します。

 『信じるとは、
  恩寵によって、神に動かされた意志の命じるままに、
  神の真理に同意する知性の行為です』(聖トマス・アクイナス司祭教会博士)

 啓示された真理が、私たちにとって真実であり理解できるということが、
 信じる動機とはなりません。

 私たちが信じるのは、
 欺くことも欺かれることもない、啓示する神の権威のためです。

 信仰者が、信じる神をもっとよく知り、
 啓示されたことをもっとよく理解したいと望むことは、
 信仰に付きものです。
 聖霊は、啓示についてのりかいがますます深くなるように、
 不断にその賜物をもって信仰を完全なものにします。


 『信じるために理解し、理解するために信じる』(聖アウグスティヌス司教教会博士)


 信仰は確実です。
 しかも、あらゆる人間の認識よりも確実なものです。
 それは、偽ることのできない神の御言葉そのものに基づいているからです。

 確かに、啓示された真理は、
 人間の『理性や経験』にとっては、定かではないように思えることがあるでしょう。
 しかしながら、
 『神的光が与える確実性は、
  自然理性の光が与える確実性よりも強いのです』(聖トマス・アクイナス司祭教会博士)
 たとえ直ちに理解できないことが無数にあっても、
 そのことが信仰の確実さを疑わせることにはなりません。


 神に対する人間の信仰による応答は、
 自由意志によるものでなければなりません。


 何人といえども、自分の意志に反して信仰を受け入れるように強制されてはなりません。
 実際、信仰行為は、その性質上自由意志によるものです。
 人間は良心において束縛されてはいますが、強制されてはいません。

 キリストは信仰と回心を促しはしましたが、
 決して強制はなさいませんでした。
 真理に証明は与えても、
 反対者に力づくで押し付けることはしませんでした。
 実際、神の国は、十字架につけられたキリストが、
 人間をご自分にひきつける愛によって発展します。

 イエズス・キリストを信じ、
 また、イエズスを私たちの救いのために遣わしてくださった神を信じることは、
 救いを得るために必要です。
 信仰がなければ、神に喜ばれることはできず、
 神の子らとしての身分にあずかることもできません。
 信仰なしには誰も義とされることができず、
 最後まで信仰を保たない限り、永遠の生命を得ることはないでしょう。


 信仰は、神が人間に与えてくださった無償のたまものです。


 私たちには、このはかりしれない恵みを失うことがありうるのです。
 信仰に生き、信仰において成長し、最後まで信仰を貫くために、
 私たちは神の御言葉によって信仰を養わなければなりません。
 信仰を強めてくださるよう、主に願わなければなりません。
 信仰は、愛の実践を伴い、希望に支えられ、
 教会の信仰の中に根を下ろさなければなりません。


 『教会を母として持たない者は、
  だれも神を父として持つことはできません』(聖チプリアノ)


 『信じる』とは、教会の行為です。

 まず、教会の信仰があり、
 これが私たちの信仰を生み、支え、養います。
 教会は、信じる全ての者の母です。


 信仰は、地上の歩みが目指す至福直観の喜びと光を、
 いわば前もって味わわせます。
 その日、私たちは神を『顔と顔とをあわせて』ありのままに見るでしょう。
 したがって信仰は、
 すでに、この永遠の生命の始まりです。



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ベネさんのランキングおちてますわ。
最近、私も疲れて、来れませんでしたわ。

2009/6/11(木) 午前 6:23 マリア


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