6.マリア〜イエズスと共に赦しを与える御方〜(前回の続き)
キリストの公生活において、マリアが公に登場するのは、
初めの、カナの婚宴の時だけである。
マリアはそこで、教会と神の御摂理とを象徴する!
教会の象徴。。。
教会は、神による結婚生活を指導すべきだからである。
御摂理の象徴。。。
御摂理は、私たち人間の全ての必要に応じて来るからである。
そして、それは、カナの婚宴のようにぶどう酒が尽きた時でさえもである。
しかし、このぶどう酒は、どうしても必要なものだとは言えない。
しかし、神の御摂理は、
それに信頼する人々のために、必要以上のものまでも供給する。
キリストの第1の奇跡が行われたこの日に、
マリアは、その子供たちの喜びに加わる。
この喜びは正しいものである。
なぜなら、結婚式をもって1つの新しい家庭を形づけ、
それによって神の創造の御業を連続させるからである。
マリアは、人々の喜びに1つのかげもないようにと望んでいる。
細やかに心を配る彼女は、ひと言をもって御子に頼み、
召使たちに、『彼の言うとおりにせよ』と注意する。
こうして、水がぶどう酒に変化されたのである。
しかし、マリアの心遣いに感謝しようとする者は、ひとりもいなかった。
彼女は、沈黙を守る謙遜をもって、その生涯の全ての転換期に、
人間の傲慢〜お世辞と尊称と感嘆の言葉のみを求める人間の傲慢〜を償おうと努力するのである。
ジョルジュ・ゴヨー(M.Georges Goyau)が言うとおり、
『全ての人の生活には、他人の功によって書かれたページがある』。
御子の3年間の布教の間、
彼女は、この天的な教えの価値を知り、
ひとつも聞き漏らすまいと努力していた。
彼女の魂は、ユダヤ人的な物質主義に少しもわずらわされることなく、
つねに新鮮な空気を豊かに呼吸していたのである。
御子が、『神の国は、実にあなたたちのうちにあるのだ』(ルカ17.21)と言うのを聞いた時、
彼女の心は、どれほど大きな喜びに満たされたことだろう。
つまらぬ人間に過ぎない私たちが説教を聞く時、地上的な些細事が、
神の御言葉と地上的な私たちの魂との交わりを、いかに妨げることだろう。
。。。気を散らし、内容よりそれをあらわす文章に気をとられ、
説教者の音声によって判断し、居眠りをする。。。
神の永遠の御言葉は、彼女に深く、その隠れた寛大さと望みの窮みにまでくだった。
それはあたかも、太陽の光が、清い波の上に差して、
深い水底を照らし出すのに似ている。
しかしマリアは、いつも背景にとどまっている。
御子イエズスによって教えられた謙遜をこの上なく大切にし、
ひとりの婦人がイエズスに向かって、
『幸せなこと!あなたを宿した母胎、あなたが吸った乳房は。。。』(ルカ22.27)
と叫んだ時も、マリアは表に立たなかった。
謙遜、そして、恐ろしい辱めの上に立てられた贖いの御業は、
全ての人間的な虚栄心をさける。
マリアは、
御子イエズスが奇跡を行ない、
人の誉れを受けていた時、
彼を自分の御子というより、
むしろ、自分の創造主である神と崇めて、
キリストの光栄を少しも分かとうとしなかった。
しかし、恐ろしい御受難の時、
彼女はそこに〜彼のもとに〜立っている。
それは、御子の御血〜これ以上のものがありえないほど罪のない清い御血〜に、
その清い涙を合わせるためであった。
この2人が受けた途方もなく不正な苦しみはなぜだろうか?
私たち人間は、苦しみに見舞われると、熱にかわいた唇をむけて、
『神よ、なぜ苦しめられるのか?』と嘆きを訴えるが、
この問いの返答は簡単である。
それは、私たちが罪を犯したからである。
それに、罪はそのものとして、たとい小さなものであるにせよ、
神の無限の完全さを傷つけるから、
厳しい理論から言えば、
ごく小さな罪も、最も重い罰を正当化する。
しかし、マリアの場合はこれと違っている。
彼女は、どんな小さな点においても、
神の望みから離れたことはない。
では、なぜ彼女の心は悩みの刃を受けねばならなかったのだろうか?
なぜ、なんの助けを差し伸べることもできず、
十字架の道行きの残酷な苦しみに立ち会わねばならなかったのだろうか?
なぜ、カルヴァリオ山上で、御子が傷つき、
十字架につけられた人の恐ろしい痙攣の拷問を受けているのを、
絶え入るばかりの心の悩みをもって、その目で見なければならなかったのだろうか?
なぜ、最も善いお方である御子のこの無量の苦しみを、
最も善い御母が見なければならなかったのだろうか?
なぜ、無限の不正な被害者となった無限の正義である御子のこの無残な場面を、
その目と心で見届けねばならなかったのだろうか?
これら全てのことは、なぜだろうか?
ここにおいてこそ、私たちは、
私たちに対する彼女の愛の極致。。
神である御子のいけにえにその清い心の苦しみを合わせ、共に御父に捧げるこの愛の極致。。
を知るようになる。
マリアは自発的に引き受けた苦しみを耐え忍ぶことをもって、
御子キリストと共に、私たちの贖い人(あがないて)となる。
彼女の涙と御子の御血とは、
ただ1つの捧げものとなったのである。
私たち人間の母は、
地上の生活へと私たちを生み出す。
しかしマリアは、
御子と共にカルヴァリオ山上で行われた最初のミサ聖祭において、
私たちを天上の生活へと生み出したのである。
そして、超自然的生活へのこの誕生は、
地上のあらゆる生活よりも光栄ある、偉大なものであるために、
マリアは、全ての母にまさってすぐれたものである。
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マリア様は、女性の中でも、神様に叶った選ばれし人だったのですね
小さな虫にも命ありきで、生命を大切にして行きたいものです。
これから受け継がれる全ての物にもキリスト教の教えを伝えていきたいと思われます。ーyuly−
2007/12/10(月) 午後 3:28 [ ショコラ ]