赦しをえるためには、
自分の罪を告白しなければならない。
それは、真理に対する尊敬を示すことである。
自分の落ち度を認めることは、それを改めることのはじめである。
真実と率直さ。。。真理の神に対し、
まず、真実に、率直に自分の非を認めねばならない。
父から罪の赦しをえたいなら、
子は、まず、自分の犯した罪を認めねばならない。
彼ら2人の考えが一致してこそ、
彼らの心も一致する。
言うまでもなく痛悔は、根本的に必要なものであるが、
自分が犯した罪を明白に認めないなら、何の役にも立たない。
『私の過ちである!』というのが根本的で、
『私は告白する』というのが、その欠くべからざる条件となる。
よく見定めることが全ての商売の根本となり、破産をさけさせるように、
良心の糾明は、健全な道徳生活の根本である。
よく診察しないなら、適切な治療もほどこすことができない。
医者は、病気の原因を、どれほど努力して窮めることだろう!
まして、これより重大な結果をもたらす道徳上の病気の原因を窮めるのに、
どうしてためらうことがあろう?
人間は、自分で、自分の振る舞いと責任に関する糾明を、
神の御目のもとに、
幻覚も偏見もなく、素直に展開しなければならない。
そして、判断をするのに、
まず、神の判断を利用しなければならない。
赦しをえるための第1条件は、
自分の罪をよく見きわめることである。
罪人は、よく心の目を開けて、自分の振る舞いを調べなければならない。
他の人々は、彼について誤ることも、だまされることもありうるが、
彼は、自分自身をありのままに眺めねばならない。
これこそ、良心の勝利と主位権を示すのである。
神の声であるこの良心は、
さきに述べたように道徳生活の根本である。
糾明するにあたって良心は、
おおうことも、誇張することも、減らすこともゆるさず、
あくまで客観性を守らねばならない。
告白の準備の時だけでなく他の場合にも、
しばしば良心の糾明をすることは、
どれほど大きな利益をえさせることだろう!
もし人間が毎日を終える時、
『私は今日、どんな悪いことをしたか?また、どんな良いことをしたか?』
という簡単な、しかし根本的なこの問いに、よく答える習慣をもつなら、
彼は、自分を正しく判断するようになる。
『自らを知れ!GNOTHI SEAUTON』と古代の学者はいい、
『人間の真の学問と研究とは、人間自身である』とモンテーニュはいった。
カトリック要理は、さらに正確に、『犯した罪を調べよ』といっている。
調べの段階が終わると、
その赦しをえるために、
神から定められた審判者(聴罪司祭)に罪を打ち明ける。
罪の告白は、あなたの霊魂を軽くする。
罪は重荷だからである。
罪を言い表すのは恥ずかしいことであるが、
この恥ずかしさは、罪を犯した時の傲慢さの償いとなる。
告白は、
宗教の感覚をたとえ原始的にでも保っている人にとって1つの必要となる。
モンシニョール・ルロワは、その著書『原始人の宗教』の中で、
『未開民族』といわれる民族に、
ある一定の形式を通じて、罪の重荷をはらう風習があると述べている。
この風習は、それぞれ民族によって異なるが、
その最も簡単なのは、土に小さな穴を掘って、
その穴にむかって罪を述べ、あとで土をかけてうめるものである。
健全な人は、その罪から解放されるために、
それを自分の外にはらいのけようとする。
これは、人間性に内在する必要であるが、
キリスト教的道徳は、
この必要の満たし方を、正確に教える。
私たちはこれに従う時、心の平和を取り戻すことができる。
適切に告白したなら、心配する必要はない。
しかし、適切な告白とはどんなものだろうか?
それは、自分が犯した大罪をつつまず言い表して、
重大さを増す事情をも言い加えることである。
しかし、『なぜ、その罪を犯したか』という理由を述べる必要はない。
さて、大罪を形成するのはなんであろうか?
それは、重大な事柄と、完全な承諾という2つの要素である。
だから、完全な承諾があっても事柄が重大でない時、
また、事柄が重大であっても完全な承諾がない時、大罪とはならない。
言うまでもなく小罪も〜容易にそれを改めるために〜告白することができる。
しかし、告白の義務はない。
なぜなら小罪は、告解以外の他の方法によっても、
たとえば、善業や祈りによっても赦されるからである。
しかし、この内的なことを打ち明けるべき審判者とは、いったい何物だろうか?
それは、司祭である。
つまり、使徒たちの後継者である司教から、
『あなたたちが罪を赦す人には、その罪が赦され、
あなたたちが罪を赦さない人は、赦されないであろう』(ヨハネ20.23)
という神の御独り子の御言葉を聴かされた者である。
イエズスはこの特別な権力を、
全ての者の憐れみの御父からのものとして、使徒たちに与えられた。
『父が私をお送りになったように、私もあなたたちを送る』(ヨハネ20.21)
従って、罪の赦しは、御父から出て、語父と同じ本性である御子を通り、
イエズス・キリストの延長である司祭を通じて、痛悔者に届くのである。
しかし、神から選ばれ召されたこの司祭も、哀れな人間であり、
彼も自分の罪の赦しをえるために、他の司祭に告白しなければならない。
そればかりか、信者を清め導くために、
より清い、超自然的光に照らされた霊魂の持ち主となるように、
一般信者よりしばしば告白しなければならない。
司祭は、信者の振る舞いを指導し、
信者が告白する時、必要に応じて彼を助け、
罪の清めをえさせねばならないからである。
しかし、司祭の最も美しい役目は、罪の赦しを与えることである。
なぜなら、彼は、審判者として罪の告白を聴き、
宣告を〜罪を赦すという宣告を〜くだすからである。
このように司祭を通じ、
信者が良い意向をもって罪の赦しをえる時、
その罪は全く消され、存在しなくなる。
良心が洗い清められたので、
神との友情は、その全ての富をもって霊魂にみなぎる。
謙遜と経過いいを保つために、しばしばその罪を思い出すのはよいが、
しかし、その罪は実際に滅ぼされたのである。
その上に、告白の秘蹟によって、霊魂は新しい力をえ、
悪魔が再びいざないをかける時、容易にそれに打ち勝つ資格をえたのである。
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明けましておめでとうございます。
お久しぶりです。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
ボチボチのんびりの更新になるかも知れませんが、
皆さんと、色んなお話ができたら幸いです。
ありがとうございました。
2008/1/5(土) 午前 0:06 [ araleyama ]
唐突ですが・・・、私は死刑制度に反対です。
人が人を裁く権利はありません。
神様にすべてを委ねるべき事だと思っています・・・。
2008/1/5(土) 午前 0:08 [ araleyama ]
あけましておめでとうございます。
一日の終わりに、その日の反省とか、、
誰かに何かしてもらったことへの感謝とか、、しないといけないですね。
今年も宜しくお願いします。
2008/1/5(土) 午前 1:33
遅くなりましたが、明けましておめでとうございます!毎日が精進ですね、頑張ります!
2008/1/5(土) 午後 2:35
ベネさんあけましておめでとうございます。私も罪を告白して許してもらいたい事が沢山あります。でも私には言う勇気がありません。
ベネさんまた今度聞いてくださいね。
2008/1/6(日) 午前 9:21
自分と向き合う
ざんげはそんな戒めを感じ取ります。
それは 神の力のもとに自分を裁く・・・
神は我が心にあり、光の如く 降り注ぐ御霊
影あってこそ 光輝くように^^
2008/1/6(日) 午前 10:59
明けまして おめでとう ございます
今年も 宜しく お願い致します
私の罪は かなり重いです
年の終わりとともに過去に置いて参りました
2008/1/6(日) 午後 10:27
あけましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。
人間は色々な面で罪を犯していると思います。普段の生活の中でちょとしたことでも。言葉なども人を傷つけていたり。。。。。毎日が懺悔と感謝です〜。
2008/1/7(月) 午前 1:07
ゲスブに新年のコメントをありがとうございました!今年もよろしくです☆常に自分の罪を考えるとあきれるばかりです・・・。でも、今年も笑顔で生きられるようにがんばります!
2008/1/7(月) 午後 7:11
遅くなりましたが・明けましておめでとうございます!!
新年のご挨拶有難うございました〜♪
今年も宜しくお願い致します!
私も懺悔しないとイケナイ事だらけです@@
有難う〜♪の感謝を忘れないようにします〜☆
2008/1/8(火) 午前 5:12
大変遅くなりました。
明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願い致します。
懺悔の毎日です。
感謝の気持ちを忘れず生きなければ♪
ありがとうございます☆
2008/1/10(木) 午前 8:04
懺悔・・・たくさんあるかもです・・・
2008/1/10(木) 午後 7:24 [ きらりん ]
お久しぶりです。覚えていていただいてますか?少しの間、ブログをお休みしていたのですが、また始めたいと思います。懺悔ばかりの去年でした、、、。
2008/1/11(金) 午後 8:05