法と罪と赦し(◕‿◕✿)

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第4章 告白

2.償い(前回の続き)


 償いは、
 不正が滅ぼしたところを正義によって復興させる。
 神がこの能力を私に与えたのは、私を力づけ、寛大なものとするためである。


 私を力づける。。。
 神の恵みによるのは言うまでもないが、
 私自身が、乱された秩序を取り戻す状態に自分を置くからである。

 もっと寛大にする。。。
 悪の逆流をさかのぼるために、私に新しい飛翔を与えるからである。
 こうして、滅びのもととなった私自身が、神の恵みによって復興者となる。

 神の恵みの状態にある霊魂。。。
 このかけがえのない芸術品を打ち壊した野蛮な罪人は、
 神の限りない憐れみによってのみ、その犯罪の赦しをえることができる。
 そして、この憐れみによって、彼は、新たな人とされ、
 破壊された芸術品をつくりなおすのに人格性をもって着手する。
 こうして、滅ぼされた者は自分を再建することになり、
 廃墟さえ、新しい建物をつくる材料となる。

 これは、完全な意味での償いである。
 つまり、神から奪い取ったものを、正直に神にかえすことである。



 盗人が赦しをえるのは、その罪を忌み嫌ったからである。
 しかし、真に罪を忌み嫌った盗人なら、
 不正にとった物品を返すように全力を尽くさねばならない。
 こうしてこそ、彼は、乱された秩序を取り戻すのである。
 この取り戻しをさせるのが、つまり償いである。


 もし彼が、現世の生活において盗んだものを返さないなら、
 たとえその罪が赦されても、
 他日、来世の清めの場で、強制的に償いを果たさねばならない。
 しかし、地上において罪の告白をし、
 命じられた償いを果たすなら、
 罪人自身、地上でその罪の清めを選ぶことになり、
 もっと容易に償いが果たされる。


 清めの場の償いを果たす死人はみな、人格性をもってその償いを果たす。
 人間である以上、善徳を行い、罪を犯し、赦しをえるのも、
 全て、人格性にもとづいている。
 そうでないなら、この言葉は、清めの場でその意味を失うという矛盾をおかすことになる。

 しかし、地上で果たす償いが、
 清めの場で果たすそれよりも値打ちがあるのは、
 清めの場のように神から決定されたものではなく、
 人間が自発的に決定したからである。

 事実として、罪の赦しをえた霊魂が、
 その罪の償いをなるべく早く、かつ進んで果たすように心がけるのは当然である。
 神の憐れみは、私の罪を赦された。
 だから私も、神の正義に対する私の義務を尽くさねばならない。

 一度罪を犯して、ふたたび善の道に立ち返った霊魂は、
 復讐ともいえる秩序のこの復興を要求する。
 そればかりか、もとの状態よりさらに高い状態へとのぼることを望む。

 親にそむいて嘆きをかけていた子が、
 親からその親不孝の罪を赦された時、
 『私は、今まで親に心配をかけた。これからはうんと孝行しよう。
 さて、どんなことをして慰めようか?』と真剣に自問する。
 そして、あらゆる機会を利用して親を慰めようと努力する。
 これと同じで、罪を赦された罪人が神の愛に感激し、
 この愛に心からの愛をもってこたえようと思うのは当然である。
 だから、彼は、告白の時司祭から命じられた償いを果たすだけでは満足しない。
 告白の秘蹟の時命じられた償いは、私から選んだものではなく、
 他から課せられたもので確かに償いとしての価値がある。
 しかし、なんと軽い償いであろうか。
 正確にいうなら、司祭が命じるその償いは。
 罪の償いを完全に果たさせるものではなく、
 むしろ、私の自発的な償いを引き起こす刺激、完全な償いのはじめに過ぎない。

 罪を。。。大罪を犯してそれを告白し、
 司祭から償いとして命じられた短い祈りを唱えて、
 『これで、すんだ!さっぱりした。あと一週間か一ヶ月は心配ない』
 などと安易に考えるのは、痛悔者の正しいあり方ではない。
 告白の秘蹟が制定されたのは、
 そんな安易さを与えるためでもなく、
 その精神もおよそかけ離れている。


 罪の赦しの秘蹟が、告白のわずか数分の間に行われると考えるのは、大きな間違いである。
 秘蹟は、償いとして命じられた祈りと善業によってあとにも続き、完成される。
 それは、カトリック要理も教えるとおり、罪の赦しの秘蹟を正しく受けるのに、
 痛悔、告白、償いの3条件が必要だからである。

 つまり、2つではなく3つである。
 そして、最後の条件〜償い〜は、告白場を出てから始まるもので、
 罪を赦された告白者の意により長く続くのである。
 償いをいかに果たすかは、全て彼の随意にまかされている。

 そして、自分から償いの方法を選ばない時、
 その償いに一層の価値がつく。
 つまり彼が、わが身の上に起こってくる様々な難儀を甘んじて受ける時、より立派な償いとなる。
 もちろん、昔のストア派の哲学者のように、
 傲慢心から無理に逆境を選ぶのはゆきすぎである。
 自分から逆境を求める必要はない。
 求めなくとも苦しむ機会は多くある。
 その苦しみを甘んじて受けるだけで充分である。
 苦しみを自分で選ぶより、当面の苦しみを耐え忍ぶほうが、もとより功徳がある。

 神の御子キリストは、自ら受難を求めなかった。
 邪悪な人間が課した苦難を甘んじて受けただけである。

 裏切り者となったユダを、臆病なピラトを、3度まで彼を否んだペトロを、残酷な兵士たちを、
 生身のまま、十字架に釘づけた刑吏たちを、キリストは忍耐した。
 彼は受難をもって償いを果たした。
 受難とは、自分から求めることではなく、外部から難を受けることである。
 彼は人間の罪を償うために、ご自分に提供された苦しみを受けただけである。
 私たち人間も償いをする場合、これと同じ神的方法によらねばならない。


 苦しみを甘んじて受けることは、全ての傲慢を打ち砕く離脱心を要求する。
 この反対に、私たちが自分から償いの方法を選ぶなら、
 どれほど虚栄心に流れる危険があることだろう!

 教会は、私たちがこの危険におちいらないように全力を尽くしてい。
 償いの季節である四旬節の初めの日に、教会がミサの時読ませる福音書の言葉は、
 『償いをせよ』という勧めではなく、
 『断食する時、偽善者のような態度をとってはならない』というキリストの忠告である。

 『断食する時には、偽善者のように、暗い面持ちをしてはならない。
  偽善者は、他人に見てもらおうと思って、暗い顔つきをしている。
  まことに、私は言う。彼らはすでに報いを受けたのである。
  あなたが断食する時には、頭に油をぬり、顔を洗いなさい。
  それは、断食しているのだと他人に知らせず、
  隠れておいでになるあなたの父にだけ見せるためである。
  そうすれば、隠れたことをご覧になるあなたの父が、報いて下さるだろう。。。』
                 (マテオ6,16〜18)


 天の御父は、全てをご覧になる。
 生活において、あなたに何がを辛いかご存知である彼は、
 辛いことが起こるたび、罪の償いをする良い機会を与えられる。

 他人を耐えること、苦しみの時の勇敢さ、
 病気の時、あるいは年齢からくる不自由さのおりの忍耐、
 そして、これに似た他の多くのこと。。。

 こうして私は、乱した秩序を回復するために、制定された秘蹟をたえず働かすのである。
 神の憐れみは、私の罪を赦し、それを滅ぼしたのである。
 人間の寛大さは、生活の辛苦を甘んじ受けることによって罪の償いを果たす。
 ここに人間の協力は、神の秘蹟を完成する。

 神は罪を赦される。それは、神の特権である。
 しかし、罪の償いを人間に任せる。
 つまり、愛の神は罪を赦すが、正義の権利を無視しない。
 しかし、この時においてさえ、憐れみにおもな役割を任せる。
 その感嘆すべき表現は、『償いのなだめ』である。

 
 罪を赦された罪人が、その罪に相当する罰を受けねばならない時、
 他人の功徳は、その処罰をなだめる(緩和あるいは免除する)。

 他人の功徳についていう時、
 まず第1に挙げるべきは、神の御独り子ご自身の功徳である。
 彼は人間となり、贖いの御業をもって尽きることのない功徳をえたのである。
 そして、キリストに従った全ての時代の聖なる者の功徳もこれに加わるのである。
 つまり、みなのために、唯一の贖いの御業があり、
 それは、キリストを先頭にする贖い者たちの1つの群れである。
 望む者はみな、この群れの一員となることができ、
 また、助けを必要とする人は、この群れにむかって援助を請うことができる。


 キリストご自身の延長である教会は、その子供たちをこの群れに導く。
 聖霊の導きのもとに教会は、『結び』そして『解く』使命をいただき、
 自分の子供たちの心から、罪とその結果とを完全に滅ぼすことをもって、
 彼らを聖徳に案内する役割をもっている。

 さて、罪の結果を滅ぼすのに、どんな手段に訴えるべきかを示すのは教会の権限である。
 教会は、キリストと聖人たちの功徳の宝庫から、償いのなだめの方法を汲み取って信者に教える。
 信者はこのなだめ(『免償』)によって、
 赦された罪のために果たすべき償いの一部分(部分免償)、
 あるいは、償いの全部(全免償)を赦される権利を与えられる。

 一定の信心業、巡礼、善業をする人に、一定の解放的効力を帰すこと、
 そしてこの効力を、地上に生きている信者、
 または、地上を去って清めの場で苦しんでいる霊魂に適用させる権利は教会にある。

 超自然的功徳は、いかに見事に一致していることだろう!
 それらの功徳は、現世の域を超えて、
 他界の、つまり清めの場にいる霊魂にまで効き目のある影響をもたらすのである。


 償いのなだめが、罪に対する罰をなだめるものである以上、
 罪そのものが痛悔され、告白され、赦されてはじめて、存在理由をえるようになる。
 従って、もし信者が、告白の秘蹟をもって罪の赦しを求めず、
 償いのなだめのみを得ようとするなら、最も根本的な理論に反することになる。
 なぜなら罪そのものが赦されない限り、それに値する処罰は少しもなだめられず、
 それを免れることもできないからである。
 もし仮に、処罰のなだめが得られたとしても、罪が赦されないなら、
 償いのなだめも全く無益なものとなろう。。。
 しかし、常識に反したことを考える信者は不幸にも多い!





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