次に、よい告解をするための実用的なことについて2,3述べよう。
私は、数十年の間、信者の霊的指導にあたり、多くの告解をきいた経験から、
多くの信者がよい意向をもちながら、正しい告解の仕方を知らない事実に気付いた。
告解の時には、まず第1に、自分の犯した罪を言い表さねばならない。
しかし、その罪の詳しい歴史を述べる必要はない。
自分が犯した罪につながる全ての事柄を、何人が言い尽くすことができよう?
そこで、カトリック要理もよく教えるとおり、
『真実に告白するとは、
大罪をその数とおもな事情と共に、
思い出したとおり、
増し減らしなく、正直に言い表すことです』。
ここでいう、告白すべき罪の事情とは、
小罪が大罪となったり、
1つの悪事が、いくつかの掟に背くために、
大罪の上にさらに他の大罪が重なったりするような場合をさすのであり、
従って、それと無関係な他の全ての事情は、言う必要がないばかりか言ってはならない。
第2に、注意すべきことは、
罪になるのは、意識して知りながら何か悪いことを行ったり望んだりした場合に限ることである。
従って、自分が意識せずに何かしたり、自分の意志に反して何かあっても、
それは罪でも、告白すべきことでもない。
なぜなら、自分が意識して承諾しないかぎり、罪にはならないからである。
また、『金曜日の小斎を忘れて肉を食べた』という告白もおかしい。
実際に忘れたのなら、なんの小さな罪にもならない。
これからよく注意すれば、それで十分である。
あるいは主日に、ミサにあずからなかったとする。
そしてそれは、あなたの健康状態がわるく、医師から外出を禁じられたためであり、
または、付き添いを必要とする病人の世話があって外出できなかったためである。
この場合は、小罪にもならないから、告白すべき必要もない。
第3に、いざないにかかってもそれだけで罪ではない。
いざないとは、提示された罪であり、承諾をかうための魅力ある罪の提示である。
だから、いざないの時、罪への魅力、あるいはなんらかの楽しみを感じるのは当然なことで、
それだけでは、まだ罪にはならない。
つまり、いざないを感じるだけでは罪ではない。
感じてそれを承諾する時、はじめて罪となる。
従って、自分が承諾しなかったことを、あえて感じたと告白する必要もない。
感じてもそれに承諾を与えなかったのなら、罪とならないばかりか、
承諾しなかったことにより、かえって善徳となる。
第4に、以上のことをよくわきまえて告白の場に臨み、罪を明白に言い表すことである。
明白にとは、聴罪司祭がよく理解できるように、
そして質問する必要がないように、
はっきりとそれを言い表すことである。
だから、『私は悪かった』、『私は弱かった』、
『私は多くの罪を犯した』などというのは、なんの役にも立たない。
そんなことは、わかりきったことである。
どんな罪も、幾度犯したかをはっきりと言う必要がある。
つまり、告白するということは、自分の振る舞いをよくわきまえることである。
第5に、罪の告白を言い終えて、司祭がいましめの言葉を言う時、
ある信者は、落ち着くことができず、
まだ他に罪を犯したのではないかと不安げに糾明する。
そして、司祭のいましめを聞き損ねる。
これは間違った態度である。
告白すべき時もあれば、聞くべき時もある。
両方の行いは同時にできない。
最後に、告白の秘蹟は、〜キリスト教では、その他のこともみなそうであるが〜
人の心を乱すためではなく、安心させるためである。
私たちは人間であるために、どの面からみても完全なことはできない。
神は、このことを私たち以上によく理解される。
そして、決して無理なことを要求されず、
私たちにできる範囲内のことで、
たとえ、それが不完全であっても満足される。
聖福音書のあの百夫長は、キリストに願い出た時、
最初、しもべを癒してほしいという自分の利益だけを考えていた。
しかし彼は、ひと言、『私は値打ちのない人間です』(マテオ8,8)とへりくだった。
すると、憐れみ深い神であるキリストは、
この振る舞いをすぐれたものと考えて感心するほどであった。
つまり、神の聖心が感激する根本的なことは、
『自分はふさわしくない者』と告白することにある。
心からのこの真実な告白こそ、
平和を、唯一のまことの平和である『主の平和』をもたらすのである。
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告白は勇気が要ります
しばらく神父様に会いたくないくらいです
2008/2/17(日) 午後 5:59
傑作━━━━\(o'(ェ)'o)/━━━━ッ!!!!
2008/2/17(日) 午後 5:59