罪人の頑なな心だけが、神の憐れみを妨げる。
ご自分の無限であるべき憐れみが妨げられるのを見て、
神が憤られるのは当然である。
『富む者は災いである』(ルカ6.24)と神に言わせたのは、
富む者の貪欲である。
神なるキリストの手に鞭を握らせたのは、
神の家=神殿を汚す商人である。
ファリザイ人たちの悪事をつき、彼らを、白く塗った墓にたとえるよう神を刺激したのは、
ファリザイ人の偽善である。
貪欲な者、不正な者、偽善者はみな、自分にかかる呪いを自ら招いたのである。
その罪として地獄がある。
地獄とは、
人間によって拒まれた神の憐れみに対する罰である。
神の憐れみを拒むこと。。。これより恐ろしい忘恩はない。
なぜなら、人間は永遠の救いをえるために、
常に多くの好都合を与えられているからである。
神が人間を創り、贖われたのは、
人間に、『生命を、豊かな生命を与えるため』(ヨハネ10.10)である。
創り主が、救い主である神の到来を世界の歴史の中心においたのは、
神のこの御旨が中心、かつ根本的なものだということを理解させるためである。
神は、全てを人間の救いのためにはからわれた。
『罪が増したところには、それ以上に恩寵が豊かになった』(ローマ5.20)。
つまり、神の力は、罪に対して勝利をえた。
神なるキリストは死なれたが、
それは、私たちを救おうとどれほど望まれたかを示している!
これ以上の愛と憐れみがありうるだろうか?
しかし、神の子供である人間は自由であった。
そうでないなら、神の子供とはいえない。
自由がなかったなら、人間は神の数多い被造物のうちで、
単なる受動的な要素に過ぎなかっただろう。
つまり、大自然の法則に逆らうこともなく従う物質や、
本能によって支配される動物のようなものに過ぎなかっただろう。
しかし、最高の王である神の子供として、人間も王であり、命令をくだすことができる。
しかし命令をくだすためには、自由の身であり、
人格的に『はい』という能力がなければならない。
地獄とは、
認識し、承知しながら、神に対して『否』という人間の状態である。
つまり、神の愛を拒絶することである。
もちろんこれは、全ての不幸のうちで最大の不幸であり、
際限ない苦しみと悩みとを生み出すのである。
全ての苦しみは、
罪〜源の罪とそれに続く他の全ての罪〜から生じてくる。
地獄は、その泉である罪にさかのぼる苦しみであり、
当然あるところに置かれた苦しみである。
罪のないキリストに苦しみをもたらしたのが罪であるなら、
まして、罪がそれを犯した人々の苦しみとなるのは当然である。
キリストの苦しみは、
罪人の永遠に受けるべき苦しみの代わりとなって、
それを罪人にまぬがれさせることができたが、
罪人は、この憐れみに承諾するのを拒んだ。
神が彼の罪の贖いとなって苦しむことを、
神による贖いを、
彼は拒絶した。
彼は、罪の報いとして当然受けるべき苦しみを苦しまねばならない。
神から離れた状態におちるという苦しみ。。。
しかしそれは、自分の御父の愛にあずかるのを拒んだ罰としての苦しみであり、
この苦しみは永遠に続くのである。
放蕩息子の苦しみ。。。
聖福音書のたとえに登場する放蕩息子と違い、
彼は、容易に父の家に帰ることが出来たのに、傲慢に狂い、
豚の糞汁の中に足を踏み入れたまま飢え死にするのを選んだ。
火の苦しみ。。。
これは、邪欲の楽しみにふけった当然の復讐である。
これらの邪欲の楽しみは、忌み嫌うべきものだと知っていながら、
頑なにそれを拒まなかったからである。
何を行っているかをよく知っていながら、神の光に真っ向から逆らったために、
彼の受ける苦しみも、それに相応して激しいものだろう。
愛によって創られ、贖われ、
その生涯の各瞬間を最も力ある、知恵に富んだ、温かい愛に支えられながら、
これに、愛をもって応えるのを拒んだ人に対して、地獄の罰は正当なものである。
救いをえるために取るべき正しい道を知りながら、
意識して堕落の道を選んだ人にとって、
地獄は正当な罰である。
彼が堕落したのなら、この罰を、あえて不審がる理由もない。
地獄は、
人間によって作り出された失望的な状態である。
神は、そんな状態を一度ももたらさないからである。
聖アウグスティヌスが言うとおり、神のうちに、『愛は憎みよりも強い』。
地獄は、
自分の楽しみを、神の愛よりも強いものにしようとした人々の罰である。
つまり神が、幾度も憐れみを示そうとしたのに、
頑なにそれを拒んだ人々の罰である。
なぜなら、主なる神が、
種々の方法をもって、その恵みを提供されなかったといえる人は、ひとりもいないからである。
神から『呪われた者』(マテオ25.11)が落ちるべき、
この『ゲヘンナの火』(マテオ5.22;18.9)、
『外の暗闇』(マテオ8.12;22.13;25.30)、
『永遠の火』(マテオ3.12;18.8;25.41)こそ、
危険を知らせる神の愛の絶えざる警告である。
つまり、天においでになる私たちの御父は、無限の愛そのものでありながら、
私たちの救いを望まれるあまり、これほどの脅かしまでされるのである。
神の子供である人間が、頑なで、忘恩で、反逆に傾いているために、
神は、この手段にまで訴えねばならなかった。
しかし、それでも充分ではなかった。
愛によって創られ、豊かな愛で贖われたことも、充分ではなかった。
罪人を救うために、神の御独り子は十字架に釘付けにされ、
醜い、卑しい、恐ろしい状態にまでなった。
しかし、十字架につけられたこの神の御前に立っても、罪人は頑なである。
御母マリアの涙を見ても、心を打たれない。
神の憐れみが、尽きることのない流れのように、彼に近づいている。
手を伸ばしさえすれば、豊かに汲み取ることができるが、
彼は頑なに拒絶する。
神は、彼の心を動かそうと、
勧め、感激、良心の呵責、苦しみ、悩みとあらゆる手段に訴えるが効き目がない。
では、この石のような固い心に何が残るだろうか?
最後の感激〜最も好ましくない、利己的で計算ずくな感激〜のみが残る。
それは恐れ〜わが身に起こるであろう不幸に対する恐れ〜である。
人間の心を失った強盗殺人犯も、
相手の切なる願いに耳をかさず、あどけない幼子を無感動に殺した極悪非道な殺人犯も、
死刑台の前に立つ時、わが身の震えを抑えることができない。
他のどんな感激も覚えなかった者にとっては、
恐れだけが、最後の感激となって残っている。
その窮みに至るまで愛を尽くした神、
正義と真理の名によって、ただ愛のみによる自発的な従順を受けるべき神は、
人間をまことの生命の道に立ち帰らせるために、
永遠の死である地獄の罰をもって、やむなく脅かさねばならなかった。
地獄の恐れにおののいて、
人間が少しでも愛を起こすであろうと神は希望されたのである。
あぁ、私の主、私の神よ、
あなたの全ての羊、最も心頑なな羊にとっても、
常に理想的な羊飼いであるキリストよ、
あなたが地獄について話される時、
私はどれほど注意深く聞き、記憶にとどめねばならないことだろう。
そして、他の全ての理由が私を動かさない時の、最後の理由、
避難所としての理由として保たねばならない。
この恐れは、私を震えおののかせるが、
私を救いに導くもので、
これこそあなたの、私に対する愛の最後の作戦であると私は認めねばならない。
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>『富む者は災いである』(ルカ6.24)と神に言わせたのは、
富む者の貪欲である。
お金があるのが幸せ、セレブが憧れ、勝ち組にならなくちゃといった昨今の風潮に、「金持ちが天国に行くのは、ラクダが針の穴を通るよりむずかしい」という句を思い浮かべている今日この頃です。
2008/2/25(月) 午後 8:52 [ まじかなかじま ]
私には、難しいけど、、なんとなくは、、解ります。。ポチ
2008/2/29(金) 午前 0:50