このささやかな文章の終わりにあたって、おのずと次の結論に導かれる。。。 神に信頼しよう。 それは、神にとって失望的な状態はありえないからである。 人間の力には限りがあるが、神の力には限りがない。 人間の愛には限りがあるが、神の愛には限りがない。 限りのない力と愛。。。 罪人の心の罪を洗い清めるのに、 必要以上に豊かに限りない力と愛。 罪人は、神の御憐れみにより頼めば、それで充分である。 自分に信頼せず、木の枝が幹についているように、彼も神につくなら、 神的生命の樹液は、彼のうちにも流れ込むに違いない。 自分に対する信頼を減らせば減らすほど、神に対する信頼を増すことになる。 自分の至らなさと弱さを御父に打ち明けるなら、 御父は、離れたこの我が子を御胸に引き寄せるために慈愛の水を注がれるだろう。 こう考える時、私たちは、どれほど大きな喜びを感じることだろう。 神の愛が私を見守っているのを感じる時、 私は、明るく喜びをもって生活することができる。 この安堵の気持ちが、無活躍な楽観主義を招くことはもちろんない。 むしろ、正反対である。 なぜなら、悪魔が私たちを神から引き離そうとする時、 神と共にとどまるために努力しなければならないからである。 その時私たちは、力尽きた遭難者のように、 『神よ、助けてください!もう最後です!』と叫ぼう。 そうすれば、『信仰薄いものよ、なぜ、疑うのか?』という神の御声があって、 その御手は、逆巻く波から私たちを救いあげられるだろう。 溺れかかった私たちを救い上げ、死にかかった私たちをよみがえらすであろう。 しかしその時、次の過ちを避けるよう注意しなければならない。 それは、この成功を私たち自身のてがらに帰す、傲慢である。 傲慢は、心の戸を閉ざして神を拒むが、 謙遜は、神を迎え入れるために心を開放する。 神に対する私たちの信頼こそ、 神の偉大さを認める、最も貴重な尊敬と礼拝のしるしである。 しかし、自分の弱さを心から真実に認めないかぎり、まことの信頼はありえない。 聖フィリッポ・ネリが繰り返していたかの祈りは、 どれほど信頼に溢れた、人間らしい祈りだったろう。 彼は、しばしば次のように祈っていた。 『主よ、フィリッポを信頼しないでください。 彼は弱く、いつもあなたを必要としています!』 しかし信頼は信仰なしにはありえない。 信仰がいるからこそ、今、明らかにわからないことがいろいろとある。 もしそうでないなら、単なる知的な認識にすぎず、功徳も愛もありえない。 ある人の振る舞いを自分の目で確かめることができない隔たった地にいても、 その人の行動に疑いをもたないなら、そこに信頼がある。 『あの人はよい人だと私は知っている。 だから、安心してこれこれのことを任せることが出来る』と考えるのと同じである。 なぜ、こんな信頼をおくことができるのだろうか? それは、他の多くのことによって、この信頼が裏付けられているからである。 『労苦する人、重荷を負う人はみな、私のもとに来るがよい』(マテオ11.12) と言われた神ほど、私たちの信頼に値するものがあろうか? 教会の歴史全体も、神の確固たる忠実さの能力の証明である。 それは、死をもたらす要因から絶えず襲われているにもかかわらず、 神の力によって続くからである。 私たちの個人的な歴史も、神のこの忠実さを示している。 罪から立ち上がり、善徳に進み、悪に逆らい、善を行うために、 彼は数多くの恵みを与える。 聖母マリアの取り次ぎ、天のこと、 天にゆくための道を思い起こさせる聖母マリアの全ての出現は、 私たちに対する神の忠実さを示している。 私たちが何か良いことを考えたり行ったりするのは、 全て、神の能力によって引き起こされたこと、 神の愛により芽生えさせられたことである。 花が太陽に向かうと、 色と香りを増して開花を促される。 私たちも霊的生活に香りと進歩が与えられるように、 いつも神に向かおう。 |
法と罪と赦し(◕‿◕✿)
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村ポチ完了〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜です(●・´艸`・)、;'.・ ププゥ
2008/3/1(土) 午後 11:33 [ 沖縄エリア公式ブログ ]
真実を見つめる神の御心
まこと、暖かく穏やかで優しさに満ち溢れています。
冒涜 欲望 傲慢・・・現世に生き素直な心で感謝の念抱き主の言葉を受け入れたいですね。
風が空が光りが波が・・神の御言葉を伝えます^^
こんばんは。久しぶりに心据えて閲覧しています。
2008/3/2(日) 午前 1:49
神様の慈愛とゆるしを、本当にこころから完全に
信頼し、自分をゆだねることができますように
愛である神様を悲しませないように生きていくことが
できるように助けられますように
私は弱い無力な者ですから・・
2016/2/3(水) 午後 4:51