私たちの生命とは、あたかも、そよ風に跡形もなく消え失せる霞のようなものです。 人が最終的に死ぬものであることは、疑いの余地はない。 しかし多くの人は、死が遠い将来のことであって、 すぐにも訪れるものではない、と考えている。 この考えは、嘆かざるをえない誤りである。 私たちは短命です。 人生は短く、花のように、咲いては枯れ、足に踏まれるのです。 人生とは、野の草のようなもので、死が訪れると、枯れてしまう。 死は、私たちの地上の生命の終焉です。 その時、この世のあらゆる栄誉栄華、財宝の花も散り果てるのです。 死は、飛脚よりもすばやく私たちに向かって襲い掛かります。 また私たちは、日ごと、月ごと、死に向かって馳せてゆきます。 1歩ごと、1呼吸ごとに、死に近づくのです。 私が書き記すために費やす時間は、 それとともに私を死へと運んでゆきます。 私たちは水のように地上を流れます。 この河は、海に向かって流れてゆきます。 この水のうち、1滴でさえ、逆流しないのです。 このように人生は過ぎ去り、死が近づくのです。 快楽、娯楽、栄華、賞賛、喝采、全ては過ぎ行きます。 その時、地上に何が残るでしょう。 私たちは墓に葬られ、そこで裸体のまま、腐敗してゆくのです。 死を迎える際、 生前に味わった快楽も、 生前に獲得した栄誉も、 その時には、私たちを苦悩へと突き落とす要因となり、 永遠の救いに対する不安を募らせる材料となりえるのです。 その時、家も、庭も、高価な家具も、絵画も、衣装もすべて、 自分の所有ではなくなるのです。 そして行くべきところは、墓なのです。 心を執着させていた事物が、どれほど苦痛の種子となることでしょう。 しかもこの苦悩は、痛ましいことに、霊魂を最大の危険にみまうことになるのです。 現世に執着し続けている人々は、 死に臨んでも、自分の病気のことばかり気にかけて、 医者や薬のことばかり口にするのです。 彼らに霊魂のことについて語ろうものなら、 ただちに重荷扱いにされ、だまっていてくれと追い払われるでしょう。 彼らには頭痛が起こり、 あなたの声が、うるさく聞こえるのです。 彼らが返事をしたにしても、 言い逃ればかり口をつきます。 そのため、聴罪司祭のうちにも、 瀕死者の心構えをととのえる間もなく、 いそいで罪の赦しを与えてしまうようなことが、しばしば起こりえるのです。 死について、あまり真剣に考えない人は、 このようにして死んでしまいます。 あぁ、罪人の避難所であるマリアが、 彼らの霊魂の救いに必要な恵みを、善い死の準備の恵みを取り次いでくださいますように。 |
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