エゼキア王は、嘆きながら言った。 「はたおり人のように、あなたは私の生命をまきあげ、 はたから切り落とされた」(イザヤ38.12) この世には、 大成功のうちに布を織っている時、 つまり現世での計画をたて、その成功に向かって最も賢明な努力を続けている時、 突然、死に襲われて、全てを断ち切られた人が、 どれほどいるであろうか。 葬儀の灯火の光とともに、 全ての地上の幸福、喝采も歓楽も、光栄も地位も、 みな消え去るのである。 これは死の大いなる秘密である。 死は、 世間の人々に理解しえないものを私たちに示す。 最も羨望された富も、 最も重視された地位も、 最も華々しい成功も、 死の床からこれらを見れば、 全てその輝きを失う。 そこにおいて、誤って幸福だと思い込んでいた事柄は、 みな変じて、自身の考え方の浅はかさに憤りを感じるのである。 王位の上にも、 死は、そのもの悲しい不穏な影を、 他のあらゆる地上的栄誉の上と同様に、 投げかけるのである。 死を考慮に入れない現在は、 情欲が、この世の財宝を、その真の姿とは全く異なる姿で映し出す。 しかし、死は、それらを全て露骨に、ありのままの姿をさらけ出させる。 それらのものが、1片の煙か、1握の泥か、虚無か惨めさに過ぎないことを示す。 あぁ、その時、 富も、広大な領土も、王位でさえも、 死に臨んで何の役に立つであろうか。 住むに数枚の板しか要せず、 着るに1枚のせまい骸布しか要さない。 前途に葬送の行列と虚飾に満ちた葬祭の儀しか見ないものに、 栄誉が何の役に立とう。 最後の息を引き取るにのぞんで、 肉体の快楽など何の役に立とう。 全ては墓の虫のうごめく腐敗物となり、 果ては、臭気はなはだしい1握の塵になり終わるのである。 著名な富豪も、かの大臣も、かの大将軍も、 ひとたび死ねば、人々の話の種となるばかりである。 もし生前の生き方が良くなければ、たちまち笑い種となる。 そしてこの世の空しさと神の正義の記念像となって、見せしめとなるのである。 ひとたび地下に葬られれば、死体はみな同様に、 虫に喰われることとなり、 その時には、肉体の美が何の役に立つのであろう。 輝かしい役職や権威も、 肉体が墓で腐敗し、霊魂が地獄の炎の餌食となってしまえば、 何の役に立つのであろう。 他人の反省の道具となるばかりで、 自分の霊魂の救いの実りを得られなかったとしたら、 なんとも不幸なことではあるまいか。 〜世の中を見回すと、その良心が麻痺している人々もいて、 考えられないような事件を引き起こしている現状がある〜 私たちの良心の堕落を救うための期間は、 死の時ではなく、〜死んだらなおるというものではない〜 生きている『今』この期間であることを、 よく知らなければならない。 死に臨んでなしえないことを、 今からすみやかになさねばならない。 時は短い。 全ては束の間に過ぎ去り、全てが終わりを迎える。 全てが永遠の救いと至福をえるために役立つよう、 心がけねばならない。 誰も、もっていないものを他者に与えることはできません。 自分の中に善を持つものは、他者にその善を及ぼし、 自分の中に悪を持つものは、他者にその悪を及ぼすのです。 この世でなされた善は、大きなことに限らず、小さなことも全て、 永遠においてもその報いを受けます。 逆もまた真理です。 人が悪い行ないを改めて、善い行ないをしようとの決意を抱くなら、 神が仰せられたように、生きるものの中に加えられます。 この世で死を迎えたにしても〜死は避けられません〜 永遠の死ではなく、永遠に生きることを望むなら、 生活全体を神の善へと向けなければなりません。 今、生きているこの時に、 善を行ない、悪を退け、 罪を償い、他者の善に寄与できるよう、 神の恩寵によって、内側から変えられるよう、 聖母マリアに自分を委ねて祈りを捧げましょう。 |
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善い死の準備(◕‿◕✿)
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