『あなたたちの生命とは何か?しばらく現れて、瞬く間に消えてゆく湯気である』(ヤコボ4.14)
この短い人生のいやしくも儚い快楽のために、
悪い死を遂げて永遠の不幸に陥るのは、
なんと愚かなことであろう。
あぁ、この最後の瞬間、
この最後の息、この幕切れは、
どんなに重大であろう。
永遠全体は、その如何にかかっているのである。
あらゆる楽しみを伴う永遠か、
それとも、あらゆる呵責を伴う永遠か、
永久に幸福な生命か、
それとも、永久に不幸な生命か。
よくよく考えよう。
イエズス・キリストが、
あれほど痛ましく、あれほど恥ずかしい死を遂げられたのは、
私たちに善い最期を遂げさせるためであったのである。
イエズス・キリストが、今もなお、
しばしば私たちを呼び招き、
私たちに光明を与え、私たちに畏怖をいだかせるのは、
私たちが神の恩寵のうちに、世を終わらせるためにほかならない。
ある人がアンティステネスに向かって尋ねた。
「人間が、この世でこしらえることのできる一番立派な財宝とは何ですか?」
彼は異教徒でありながら、すぐさま答えた。
「善い死である」
信仰によって、
永遠の運命が、死の時に定まることを知っているキリスト信者は、
何と答えるであろうか?
実際、私たちは死の時、
天国への永遠の幸福に導く車か、
地獄への永遠の苦しみに導く車か、
2つのうち1つをつかむのである。
ここに2枚の紙幣が入っている財布があるとしよう。
1枚の紙幣には『地獄』と書かれ、
もう1枚の紙幣には『天国』と書かれている。
もしあなたが、この2枚の紙幣をくじ引きしなければならないとしたら、
『天国』と書いた紙幣を引き当てるために、
あらゆる努力をはらうに違いない。
自分の生命を賭博台の上でかけなければならない不幸な者があるとしよう。
あぁ、その時、彼は手を伸ばして、さいを投げるにあたり、
この1投によって、生命か死かの運命が決まることを考えて、
どれほど震えおののくことであろうか。
あなたも最期の時、
「自分は、いよいよ永遠の生命か、
それとも永遠の死か、
いずれかに落ち着くべき1瞬を迎えようとしているのだ」
と考えて、どんなに恐れおののくことだろう。
実に、その時こそ、
あなたが永久に幸福となるか、
永久に絶望に陥るかを決定する時なのである。
シエナの聖ベルナルディーノの語るところによれば、
ある大名が、臨終の時、恐れおのおのきながらこう叫んだ。
「私はこの世に多くの領土も宮殿も持っている。
しかし、今夜死ぬのであれば、どこに隠れ家を見出すことができようか」
兄弟よ、私たちは死ななければならない。
死後は永遠の世界が存在する。
しかも1度だけしか死ぬことはできず、
その時、仕損じるならば、永久に仕損じるのであって、
決してやり直すことができないのである。
このことを考えるならば、
どうしてこの文章を読んでいる時、
善い死を保証するために全力を尽くす覚悟を固めないでいられようか。
聖アンドレア・アヴェリーノは、身震いしながら自身に尋ねていた。
「来世において、私はどんな運命におちいるであろうか。
私が救われるか、滅びるかを知っているものがあろうか」
聖ルドヴィコ・ベルトランドもまた、同じような恐れにとらわれ、
夜中一睡もできず、自身に尋ねた。
「お前が地獄に落ちない、ということを確信しているものがあろうか」
であれば、多くの罪を負っているあなたは、戦慄をおぼえないだろうか。
あぁ、1分も時を待たないで、罪深い過去を償い、
真実に神に身を捧げようと決心し、
たった今から、
死を迎えた時のために、
自分自身が苦悶の種とならず、むしろ慰めの種となるよう、
新たな生活を始めるがよい。
祈りに身をゆだね、
秘蹟にふさわしく準備してあずかり、
罪を犯しかねない危険な機会を避け、
必要ならば世間を去るがよい。
何があろうと、永遠の救いを安全確実なものとしなさい。
永遠の救いを安全確実なものとするには、
どんなに用心しても足りないくらいであることを理解しておきなさい。
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