どうしてヴァティカンは、 『立ったまま手によっての聖体拝領』を許可したのですか? 許可を与えさえしなければ、 このような状況は生まれなかった訳ですよね。 これがもし良くない方法なのだとしたら、 許可を与えた聖座の責任は重大でしょう。 「どうしてヴァティカンは許可したの?」とのことで。。 まず、聖座への批判的ココロの姿勢は避けるべきです。 それは次第に巣くっていく危険性をはらんでいるからです。 そもそも、それは積極的全面的認可ではなく、 あくまでも条件付き認可でしかありません。 条件を満たさない限り認めない、という主旨です。 それゆえ、条件をクリアしていない以上、 無効でさえあります。 条件をクリアしていないからです。 その点についての詳細は次回にまわします。 さてさて、教皇聖下がそれを認可したことから始まったのではなく 一部の要職者が独断で容認したことからそれは始まりました。 要職者がそのようにしたため 聖座が認可したものだと、一般には捉えられてしまい、 その後、教皇聖下が伝統的方法を保持すべし、 との公文書を出すも もはや恐るべき速さで広がりを見せていました。 悪魔の告白にあるとおり 入念な計画のもと水面下で推し進められ 認めざるをえない方向に 狡賢くたちまわった感が見受けられます。 聖座は、物事には慎重であり 頭ごなしに否定したりはしません。 「敵」はそれを活用して巧みに推進していったのです。 もし「敵(Anti-Apostole)」が、 『信徒たちは、このような方法を望み、 かつ、すでに一般的に広く実践され、 反対する者さえいません』 と聖座に、認可の申告をした場合、 聖座は頭ごなしに否認しえるでしょうか? 聖座の立場も理解してください。 聖座は、ある程度地元の司教を信頼しています。 その方針を尊重しているのです。 よほどヒドイものやあまりに逸脱したものでない限り、 聖座は、まず様子を見ます。 そのため「条件付き認可」にとどめたのです。 条件を満たさない限り認めない、という主旨です。 聖母出現の真偽についても同様です。 聖座は、まず様子を見ます。 いきなり頭ごなしには否認せず 時間をじっくりかけた調査や研究を行ないます。 その実りはどうなのか ふさわしい実りを結んでいるのかどぅか 様々な観点から調査され、 その上で、善し悪しを判断します。 私たちのように短絡的に動いたり 決め付けたりせず、むしろ寛容なのです。 「許可を与えた聖座の責任は重大だ」との批判があるようですが。。 責任の全てを聖座にぶつけるココロの姿勢は 正しいものではありません。 聖座は「条件付き認可」にとどめたのです。 条件を満たさない限り認めない、という主旨です。 つまり、「既成事実として実践されてるから認めろ」との要求に、 釘をさす意味で「消極的な」容認という方針であって、 「そんなに何度も言うなら仕方ない。認めてもイイけど、 こぅこぅこういう条件を満たさないとダメだょ」という姿勢です。 今、広く行なわれている事柄は 地方教会の司教が推進したものであって 聖座が推し進めたものではありません。 (当該司教が、Anti-Apostleでないとも言い切れません) 聖座は、ある程度地元の司教を信頼しています。 その方針を尊重しています。 「敵」はそれを逆手にとったのです。 しかしながら、 その実り〜典礼における様々な逸脱や濫用〜により、 聖座は、是正勧告を地方教会に繰り返し行ない、 それでも聞かないため、 聖座は動き、公文書において 典礼上の「誤り」「違法」「重大な事柄」として 適宜個別的に、指摘するに至りました。 あとは。。。 地方教会が、誤りや違法、濫用の現実を 是正、修正してゆくだけです。 そもそも地方教会が、 規範的方法を実践していれば このような混乱は起こりえなかったのです。 責任の所在を見るならば、 地方教会に見受けられる濫用や逸脱に求めるべきであり、 信徒の側から、地方教会に是正を求めるべきでしょう。 それをしないがために、 「信徒も我々のやり方を支持している」と聖座に報告されても 致し方はありません。 聖座に批判の目を向けるのではなく、 まず、地方教会の裁治権者に、是正の「声」をあげるべきでしょう。 明確な意思表示をしないまま、 聖座が聖座が、という批判は御門違いのような気がします。 地方教会の重大な問題点は、 要理を教える段階で 舌による聖体拝領の方法を排除したことです。 そのため もはや信徒には 舌か、手か、の選択の余地はなく、 手による方法しか教わらないために、 舌による聖体拝領をする信徒を「異物」とみなし 最悪の場合、攻撃さえするに至るのです。 これこそ悲しい実りであり、 「敵」のまいた種の実りであり、 「良い兆候ではない」「修正しなければならない」 とまで言われているものです。http://media.imeem.com/m/P8ecyKif9B/ |
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おお、そうでしたか。とてもよく分かりました。
つまり、<ヴァチカン聖庁>が地方司教を尊重しておられる点と
時間をかけて『識別』する点とを、<敵>が巧く悪用したのですね。
確かにカトリック教会はとても規模が大きいので、
各地域の司教様を信頼しなければ成り立たないですよね。
神様の御手に護られて、軌道修正が順調に進みますように。
2008/11/4(火) 午前 7:28 [ - ]
とてもわかりやすい解説、ありがとうございました^^
わたしも、最近まで、手による御聖体拝領しか
存じませんでした。
「あがないの秘跡」を拝読し、何が大切なことか学びました。
主任司祭に、申し出るのも勇気がいりましたし、
信者の中でも、少し、距離を置かれたり・・・
ただ、御聖体に現存なさるイエズス様の聖心を見つめて
教皇様に忠実に・・・と、願い・・・
このような記事によって、御聖体に対する深い信仰を
皆がもてますように。。。
2008/11/4(火) 午後 4:55 [ - ]
地方で色々な教会へご聖体を拝領する機会に恵まれますと、
手のときもあれば舌で受け取ると言う事もあります。
ある神父様がいいました。
『まず祈りましょう。聖体を頂きに行く際は、十字架の道行きを
思い出しながら歩みましょう。ただ、聖体を受けとるのではなく
イエス様をお迎えする心を整えましょう。友人や知人が家に来た時
家を散らかし放しにする人はいません。よく来てくれたと抱きしめるでしょう。イエス様を抱きしめ、もてなすのはそれと同じように
心もお掃除することが大事です。』
2008/11/5(水) 午前 0:29
私も長い間疑問に思っていました。
ヴァチカンの命令とばかり思っていました。
改めてベネ様に感謝致します。
私も直接、舌から頂きたい派です。
私の教会は、皆左手から頂いていますから・・・
早く変更したいものですわ。ポチ☆
2010/1/20(水) 午後 7:10 [ - ]
なるほど…












そうだったのですね…
私は、ひざまずき、
舌で受けたいのですが
神父様は手でないと…
司祭のマリア運動の際の
神父様の時は
ひざまずいて
舌で受けられます
所属教会の神父様は笑いながら
『ひざまずくとかもう無いですから〜(笑)』と
おっしゃるんで、
複雑な心境であります…
2010/5/4(火) 午前 5:13 [ - ]