| 心の痛悔は、神への信頼と愛を減じることなく、これを深める |
典礼の叫びは、決して無意味ではありません。
そこには必ず、痛悔のまごころが、内に深くたたえられているからです。
真理の霊は、聖ヨハネの唇を通してこぅ仰せになります。
「もし、自分には罪がない、と言うのなら、
私たちは自分を欺いており、
真理は私たちのうちにはありません」(1ヨハネ1.8)
聖なる、偉大な霊魂たちにとって、
聖霊のこの言明は、あまりに明白な真理なのです。
霊魂は、正義と聖性の太陽である神に近づけば近づくほど、
ますますハッキリと、自分の醜い姿に気づきます。
真理の強烈な光が、
霊魂の深奥をくまなく照らし出すので、
そこにある、最もかすかな欠点の影すらも見逃しません。
信仰と愛によって清められた、内心のまなざしは、
一層深く、神の無限の完徳を見つめます。
自分が無に過ぎない者であることが、
ますます身にしみて痛感されるのです。
無限な神と、
無に過ぎない自分との間に横たわる、
果てしない深淵に思い至る時、
霊魂は消えてなくなりたいような感じさえします。
イエズスとの一致が深くなればなるほど、
罪を滅ぼすためにイエズスが凌がれた苦しみについての、
生々しい、正確な実感を持つに至ります。
同時に、恩寵の生命に関しても、
ますます認識が深まってゆくので、
その時、霊魂は、
罪を犯すことによって御父に背いたこと、
イエズス・キリストのご受難を侮辱したこと、
聖霊の勧めに従わなかったこと、
これらのことを想い至り、
罪がどれほどいけないことであったかを、
身にしみて痛烈に感じるようになるのです。
一生にたった1度しか、神に背かなかったとしても、
このたった1つの罪の記憶に、彼は胸がえぐられる気持ちがするのです。
罪を悔やみ、これを憎む感情と共に、
神へのこの上ない細やかな愛情が、
神を畏れかしこむ切ない想いが、
胸の底から湧き出てくるのです。
それからその霊魂は、
ただ神をお喜ばせすることに集中します。
そのようにして、神の限りない憐れみを、
自身に引き付けるのです。
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