| 心の痛悔は、神への信頼と愛を減じることなく、これを深める |
ダヴィド王のエピソードをご存知でしょう。
自分の息子アブサロムの叛逆のために、都を落ちのびる途中、
サウル家の一族の、その名をシメイという者がひとり現れました。
彼は絶え間なくダヴィド王を呪い、ダヴィド王の家来に向かい、
石を投げつけながらこぅ言いました。
「地を流す者よ、邪まな者よ、立ち去れ、立ち去れ。
サウル王家の血の全ての責任を、主がお前に報われる。
主は王国を、お前の息子アブサロムの手に渡された。
見よ、お前は血を流す者だから、災いに遭うのだ」
その時、ゼルヤの子アビサイが王に言いました。
「この死にぞこないの犬が、
なにゆえ私の主君、王を呪ったままにできましょう?
奴の首を取りに、私に行かせてください」
しかし王は言いました。
「ゼルヤの子らよ、
それがあなたたちと何の関わりがあるのか。
もし彼の呪いが、
主がそのように『ダヴィドを呪え』と言われていたならば、
いったい誰が『あなたはなぜ、そんなことをするのか』と言えようか」
ダヴィドはまた、アビサイと自分の全ての家来に言いました。
「私の身から出た息子が、私の生命を奪おうとしている。
であれば、今、このベンヤミン人としては、なおさらではないか。
彼を放っておいて、呪わせておけ。
主が彼に命じられたのだろう。
もしかしたら主は、私の苦悩を顧みてくださるかもしれない。
主は、今日の呪いに変えて、
私に善を報いてくださるかもしれない」
自分の犯した罪の重大さを思い起こし、
ダヴィド王のココロは、痛悔の詩「Miserere」にあるように、
張り裂けんばかりであったがゆえに、
あらゆる辱めを、罪の償いとして、甘んじて受けたのです。
痛悔のココロはまた、
隣人への強い、愛の泉ともなりえます。
もし私たちが、
他人の過ちを責めることに厳しく、
他人の罪悪を暴くことに性急であるならば、
そのこと自体からして、
ココロの痛悔が、霊魂に宿っていない証拠なのです。
痛悔のココロを深くたたえている霊魂なら、
自分自身の過ち、自分自身の弱さを、
ちょうど、神の御前にあるとおりに、
自分もこれらを見つめているがために、
他人に対して厳しい態度は取れないでしょう。
自分が他人にどうこう言える立場ではないことを
自分が一番よく自覚しているからです。
http://media.imeem.com/m/_Xm6ta42f0/
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難しいですね(>_<)
2009/3/6(金) 午前 8:29
う〜〜む。。
なかなか難しい。。
でも愛の泉となれるよに努力したいですね〜^^
ポチ☆
2009/3/6(金) 午前 9:51
難しいですね。私 自身はまだまだなので言える立場ではないと思っています。ベネさんと御会いして 今日も改めて考えることができました。
2009/3/6(金) 午前 11:37 [ puffy0722 ]
「痛悔のココロ」
やっぱり自分はまだまだです〜
痛感いたしました…
2009/3/6(金) 午後 1:20 [ じゃっき〜 ]
ありがとうございます。
かみしめて帰ります♪ポチ☆して行きます。
2009/3/6(金) 午後 3:02
Maria様。( ^-^)ノ(* ^。^)ノこんばんわぁ♪
成程〜。分かるような分からないようなって感じですね(自爆)
今日もダブルぽち☆に決定です!!!!
2009/3/6(金) 午後 8:26
うーむ 難しい内容です〜^^;
でも 他人ばかり批判していて
自分を顧みない人は 嫌いです。
2009/3/6(金) 午後 8:49 [ ゆうちん ]