| 心の痛悔は、神への信頼と愛を減じることなく、これを深める |
痛悔者のココロに、
喜びの感情がないと思うのは大きな間違いです。
彼の中で、
愛を刺激し、熱心を燃え立たせ、兄弟愛を育み、
このようにしてイエズス・キリストとの一致に、
いっそうふさわしくしてくれるもの、
それはココロの痛悔なのです。
私たちのうちに、
神の赦しに全く信頼しきって、
ココロの安らぎを覚えさせてくれるのも、
ココロの痛悔なのです。
このことに関して、
聖フランシスコ・サレジオの記述は、全面的に信用できます。
神への愛と、そこから湧き出る霊魂の喜びに関する記述において、
彼の右に出る者はないでしょう。
彼は『神愛論』の中でこぅ言っています。
「まことの痛悔から生まれる悲しみは、
実際のところ悲しみと言うより、
悪への、不快感・実感・憎しみ、と言ったほぅが良いのです。
この悲しみは、決してイヤなものでもなければ、
わびしいものでもありません。
この悲しみは、精神を麻痺させるどころか、
かえって、これを爽快に、敏速に、勤勉にします。
この悲しみは、ココロを落胆させるどころか、
かえって、これを祈りと希望に奮い立たせ、
信心と熱心によって、神に向けて飛翔させます。
この悲しみは、苦しみのさなかにあってさえ、
いつも、たぐいないまでに、慰めの喜びを生じさせるのです」
偉大な聖アウグスティヌスは、言います。
「痛悔者は、いつも悲しんでいなければならないが、
それと同時に、いつも、その悲しみを喜んでいなければならない」
カシアーノは、言います。
「堅固な悔い改めや、
決して後悔することのない『爽快な後悔』を生じる悲しみは、
人を、温順なもの、愛想のよいもの、
謙遜なもの、善良なもの、
優雅なもの、忍耐強いものとする。
なぜなら、それが、愛から湧き出ているからである」
このように、この悲しみは、
身体の痛み、精神の痛恨にまで及びつつも、
その善益への希望によって、
幾分活気づけられ、生気づけられ、愉悦となるのです。
それで、この悲しみは、
使徒聖パウロが言う『聖霊の実り』を、自身のうちに持つことから、
愛想と忍耐の甘美さを保全するのです。
「聖霊の実りは、
愛であり、喜びであり、平安であり、寛容であり、
親切であり、善意であり、誠実であり、柔和である。。」(ガラツィア5)
まことの痛悔、聖なる悲しみとは、このようなものです。
つまり、このような悲しみは、
実際は、悲しみでも憂愁でもないのであって、
過去と未来における、罪の凶悪さを憎み、
これを棄て去り、予防することに注意し、努力することなのです。
これが、ココロの痛悔から
自然に生まれてくる、美しい実りなのです。
この悲しみは、霊魂を失望させるどころか、
かえって、これを、神への奉仕に向けて快活にさせるのです。
そして、これこそ、
まことの信心のしるしなのです。
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こんばんは★
難しいですぅ><; 痛悔...そのような意味があったのですね
休日ゆっくりぉ過ごしくださいね♪
2009/3/7(土) 午後 9:05 [ ゆうちん ]
お久しぶりです…
ここ最近いろいろとあって心が乱れてました(>_<)
おやすみなさい。。。
良い週末を〜〜〜ポチっと凸
2009/3/7(土) 午後 10:24 [ あずき ]
痛悔には悲しみ・苦しみしかないのだと、思っていました
「この悲しみは、霊魂を失望させるどころか、
かえって、これを、神への奉仕に向けて快活にさせるのです。」
「神への奉仕」大切に大切に、したいです
2009/3/22(日) 午後 2:37