| 心の痛悔は、神への信頼と愛を減じることなく、これを深める |
人が、自分の犯した過去の罪悪を思い起こして、
。。罪の犯された状況を、あれこれ細やかに追想するのではなく、
ただ、自分は、神に対してすまないことをした、という事実を自覚して。。
神の御前にへりくだる時に、
また、まだ霊魂の内部に残っている罪の汚れを清めようと、
痛悔の炎の中に自分を投じる時に、
また、「主よ、私は罪深い人間ですから、私のような者から離れてください」
と言って、神の慈愛にふさわしくないことを、ココロの底から告白して、
深くへりくだる時に、
まさにその時にこそ、神も無限の憐れみをもって、
その人の上に、ご自身をおかがめになるのです。
それは、神が、
「痛悔し、へりくだるココロを、軽んじられない」からです。
霊魂が、罪悪から絶えず自分を清め、
過去の不忠実を償おうと、大いに努力しているのを、
神がごらんになられる時、
神は憐れみに満ちて、この人の身辺まで、
ご自身をおかがめになります。
聖アウグスティヌスは、こぅ言っています。
「神は、言葉よりも、
むしろ、その涙のゆえに、早く聞き入れてくださいます」
大聖グレゴリウス教皇も、こぅ言っておられます。
「神は、自分の罪を痛悔して泣く人を、
たいそう愛してくださいます。
神は大いなる喜びをもって、
彼らの涙を乾かしてくださるのです」
この考えを深く悟っていた聖ベネディクトは、
私たちが「毎日、祈りの際、涙を流し、ココロを痛めて、
過去の罪悪を嘆き悲しむ」ことを、切望しています。
この『毎日』という言葉に、
注目していただきたいのです。
聖ベネディクトは、「たまに」とは言わずに、
『毎日』と言っています。
なぜ彼は、こぅまでココロの痛悔を強調するのでしょう。
それは、聖なる師である彼が、
「この痛悔する魂のへりくだった態度によってこそ、
私たちの祈りは、神に聞き入れられる」(戒律20)
との確信を自ら持っていたからであり、
また、この同じ確信を、私たちにも持たせたいからなのです。
ココロの痛悔が、
彼の修徳法のスローガンなのです。
http://media.imeem.com/m/_Xm6ta42f0/
|
心()の痛悔は世の中を大きく広く見るようになります
2009/3/8(日) 午後 2:50 [ - ]
「痛悔」という事が少しずつ分かってきたように
思います。
2009/3/22(日) 午後 3:29