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前回からの続き。。 (前の文から読んでいかないとわかりづらいと思います)
ルーテル、カルヴィンらは、 私たちを実際に聖なるものとする神から与えられた特質が、 私たちの内部に存在をもつ、ということを否定する。 彼らは、恵みを、 まるで、遺言する人が指名した遺産継承者のような、 何かを与えるための『法的称号』としたり、 また、規則や掟の遵守などのように、外面的な『業』として考える。 トレント公会議は、 「人々は、キリストの義証(imptatio)だけによって、または、聖霊によって、 人々の霊魂に注がれ固有のものとなっている恵みや、愛徳がなくても、 罪の赦しだけで義とされる」という彼らの断定を、異端だと決議した。 続けて公会議は、次のように宣言した。 「成義(人を義とすること)は、ただ単に、罪の赦しだけではなく、 すすんで神の恵みと賜物とを受ける者の、聖化と内面的一新であり、 このようにして、不義の人や悪人は、義人となり、 永遠の生命への希望のうちに、世継ぎとなるために、 憎しみから、神の友愛へと移っていくのである」 ここに成義の原因がある。 成義の最終因(その目的)は、 神とキリストの栄光であり、 私たちにとっては、永遠の生命である。 その能動因は、 約束された聖霊をもって、〜私たちは聖霊を通じて永遠の生命を受け継ぐ〜 私たちを貫き、無償で清め、聖化する、神の慈悲である。 その功徳因は、 御父の至愛の御独り子、 私たちの主、イエズス・キリストである。 主は、 私たちが、神の憎しみの中にいたのに、 義を得させ、神の友愛を得させ、 私たちを愛するその大いなる愛のために、 十字架上の至聖なるご受難によって、 御父の御前に、私たちの罪の贖いをなさったのである。 道具因(Causa instrumentalis)は、 洗礼の秘蹟であり、 これは信仰の秘蹟であって、 これを欠いては、誰も義とされることはできない。 最後に、 成義の唯一の形相因は、 神の義である。 しかし、これは、神ご自身が義者であるからではなく、 神が私たちを義とする場合においてのことである。 こうして、神から、この義を受けた私たちは、 霊の内面で一新され、 したがって私たちは、義人として扱われるばかりでなく、 ほんとうに義人と呼ばれるにふさわしいものとされ、 実際に、義人となるのである」(Denzinger-schonmetzer 1528)つづく。。 |
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恩寵と信仰者(◕‿◕✿)
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