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2834. 翻訳は、その人の内面的思考を明らかにさせます テキトーな考えをもってる人は その翻訳も、実際、テキトーで 大事なものを、責任ある立場の人がやってしまうと、 目も当てられないもの、貧弱なもの、誤ったものとなってしまいますし、 その被害あるいは損失は、時間の経過とともに甚大なものとなってゆきます 翻訳は、その人の生き方の凝縮であると言えます 慎重な人は、その性格が翻訳にもあらわれ、 忠実な人は、その正統性が翻訳にもあらわれます いろいろな翻訳本を読むにつけ 最近つくづくそう思います 翻訳は、その人の思考の世界の反映でしかないので 〜誰も、もっていないものを、他者に与えることはできない〜 その人の人間的限界を映し出す鏡とも言えます 翻訳は、大変です^^ これは基本の祈りに関してのことですが 祈り文が完全にシフトした今だからこそ言えますが 聖母に関する「恵みあふれる」の祈りは 日本の教会にとって、損害でしたから それが改善されたことは、霊的恩寵の流れにとって最善なことでした その改善のために尽力された方々には ほんとうに感謝いたします あと可及的速やかに改善されるべき重要事項があります これは典礼の祈り、教会の公式の祈りに関してのことです 日本において挙行されているミサ聖祭は ローマ典礼と呼ばれるものです 翻訳において、大雑把あるいは省略が多岐にわたる状況にありますが ここではごく一部の指摘にとどめます [現状]「主はみなさんと共に。また司祭と共に」 [提案]→「主はみなさんと共に。またあなたの霊と共に」et cum spiritu tuo ※このように変更しなければ、 助祭が福音朗読する際、助祭を司祭扱いすることになり、 司教を司祭扱いすることになり、叙階の恩寵の重みが、感覚的に薄らぎ、 その重要性を、大したものでないかのように錯誤させるものとなります 一般的に「霊的なもの Spiritual 」に関心がでてきているのに あえて意図的に「霊」をはずす意味がわかりません 「『霊=オバケ=こわい』だから外しておこう」って発想がヤバイです ヤバ過ぎです こわがるなら、不従順や罪をこわがるべきです そもそも霊魂が抜けた肉体は、屍、死んだバディです。 霊は、肉を生かす崇高なものですから、「霊」を外す必要性はありません 「神に感謝。(会衆)神に感謝」または「神に感謝。 (会衆)無言」 ※このように変更しなければ、 全教会との「祈りの法」における一致が損なわれることになります また、感謝を表明すべき時に、あえて「無言」という積極的不作為を選ぶことは はたから見て、「私は主の御言葉を受けても神に感謝を捧げない」との意志表示のようであり 日頃から、受けた恩について感謝を捧げることの大切さを学ばせるうえで損失となります 感謝の言葉を表明して、何か問題にでもなるのだろうか? むしろ、感謝を示すべき時に、それを表さないことのほうが、よっぽど問題があるのではないだろうか? 実際「受けるのが当たり前、もらうのが当たり前」となってしまえば、 社会的観点からすれば、 人としてロクでもないヤツ、と思われるような人を助長することになります 教育的観点からすれば 受けた恩に感謝する、自分の非を認めて謝る、 そういう基本的なことができないおとなを作り出すことになります 「(会衆)神よ、あなたは万物のつくり主」 →「(会衆)神は世々に祝福されますように」Benedictus Deus in saecula. ※このように変更しなければ、 全教会との「祈りの法」における一致が損なわれることになります 原文から大きく変更する必要性はありません 「みなさん、この供え物を、全能の神である父が受け入れてくださるように祈りましょう。 (会衆)無言あるいは沈黙」 →「みなさん、祈りましょう。 私とみなさんのいけにえを、ut meum ac vestrum sacrificium 全能の神である父が、受け入れてくださいますように。 (会衆)神の栄光と賛美のため、また全教会と私たち自身のために、 司祭の手をとおしてお捧げするいけにえをお受けください」 ※このように唱えることを全教区において明確にしなければ 「沈黙に代える」との名目で その「沈黙」も飛び越えて、沈黙時間さえもおかず、 次の祈りへ「ワープ」してしまっては、 信徒に霊的不利益をおしつけることになります 会衆の応唱部分の sacrificium が「いけにえ」ですから 司祭の呼びかけ部分の sacrificium も「いけにえ」に統一すべきですし 「私とみなさんの」を忠実に訳出すことで、 ひとごとではなく、まさに私の罪のための、みなさんの罪のための「いけにえ」を自覚させます 司祭が「受け入れてくださいますように」と結ぶことで 共同祈願を踏襲した呼びかけになり、「〜ますように」のあと、信徒が続いて唱えやすくします 「キリストによって、キリストと共に、キリストのうちに、 聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに。 (会衆)すべての誉れと栄光は、世々に至るまで。アーメン」 →「キリストによって、キリストと共に、キリストのうちに、 聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに。 すべての誉れと栄光は、世々に至るまで。 (会衆)アーメン」 ※このように変更しなければ、 歌う場合も、唱える場合も、 いつまでも、教皇庁からの改善指摘に不従順であり続けるし 信徒たちに関しても、典礼規則に反することを行わせ続けることになり 本来受けられるはずの恩寵の流れを、妨げ続けることになり、 時間の経過と共に、霊的損害が拡大してゆくだけです 典礼規則に従って「アーメン」だけを唱える人は、誤っているのか? 「赤信号、みんなで渡れば怖くない」の精神で、 教会法や教皇庁の典礼指針に背き続けることは、 信号無視することよりも、はるかに危険な精神です 悪魔は大喜びするかもしれないが。 キリスト者は、神を喜ばせるべきであって、悪魔を喜ばせるべきではないと思います 「主イエス・キリスト、あなたは使徒に仰せになりました。 私は平和をあなたがたに残し、私の平和をあなたがたに与える。 私たちの罪ではなく、教会の信仰をかえりみ、 お言葉どおり教会に平和と一致をお与えください。 (会衆)アーメン。」 →「主イエス・キリスト、あなたは使徒に仰せになりました。 私は平和をあなたがたに残し、私の平和をあなたがたに与える。 私たちの罪ではなく、教会の信仰をかえりみ、 あなたが望まれるとおりに、教会に平和と一致をお与えください。 あなたは世々に生き、支配しておられます。 (会衆)アーメン。」 ※このように変更しなければ、 全教会との「祈りの法」における一致が損なわれることになります 原文は「あなたが望まれるとおりに」secundum voluntatem tuam であって 「お言葉どおり」secundum verbum tuum ではありません 「おいおぃ大した違いはないからいいじゃないか」と思われるかもしれませんが 「祈りの法は信仰の法」の規準の観点からすれば 些細であっても全教会との祈りの一致から外れさせる要素にはかわりないので、 是正すべきであると考えられます 変えなくてよい箇所を、あえて変えて唱え続ける必要性こそありませんから 是正すべきであると考えられます 私たちが望むべき平和は、 私たちの観点からの平和ではなく 主が、望まれるとおりの平和であるべきです 私たちは、主が、望まれるとおりの平和を、 主が、望まれるゆえに、望まれるとおりに、望まれるだけ、望むべきでしょう あと「あなたは世々に生き、支配しておられます」との 永遠の世界に心のまなざしを向けさせる箇所を省くことで この世的な平和だけに価値をおかせることにつながります 省略すべきではありません 「神の小羊の食卓に招かれた者は幸い。 (会衆)主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいて、誰のところに行きましょう」 →「見よ、神の小羊を、Ecce Agnus Dei, 見よ、世の罪を取り除く御方を。 ecce qui tollit peccata mundi. 小羊の食卓に招かれた者は幸い。 (会衆)主よ、あなたを私のところにお迎えするには、私はふさわしくありません。 ただひとこと仰せになれば、私の霊魂は癒されます」 ※このように変更しなければ、 全教会との「祈りの法」における一致が損なわれることになります これが唱えられることによって 主を傷つけたのが、私たち自身であることの再認識と ただ主だけが、私たちを罪から救うことのできる御方であるとの再認識を得られます なお、「あなたを私のところにお迎えするには、私はふさわしくありません」と唱えることで 神への人としての謙遜を示すことにもなります この句は、拒絶を意味するのではなく 私のようなものであっても、それをご存知で来てくださる主に向かって、 信頼をこめて「ほんとうは来てほしくてたまらないのです」の想いを含めた 全てを成し遂げられる愛の神への、自分の足らなさの表明です 全能の主は、惨めなものを憐れまないことだけが、おできになりません。 それが、私たちの主です。 「私は当然あなたをいただけるでしょう」、みたいな考えの人よりも、 むしろ、「私はあなたをいただく価値のないものです」、みたいな想いの人に、 主は、いっそうお喜びになって、いっそうの躍動のうちに、その霊魂を訪れて、 ご自分の永遠の愛を注ぎ、恩寵に満ちたその愛で抱擁してくださいます あと、聖変化、聖体拝領、祝福において ひざまずく環境をととのえられるようにすれば 教皇庁の規定からしても、人としての神の御前におけるへりくだりの観点からしても よりいっそう神に栄光を帰することになる、と考えられます 「クサいものにフタをする」。。 そんな考えでは、 いつまでたっても、成長も発展も見込めず、 井の中の蛙な状態を、継続してゆくことになってしまいます 今回改善の要望ですが 典礼に携わりながら 「うるさいな〜 改善なんてめんどくさ過ぎ〜」は論外です 実際のところ 内省のないところには 霊的進歩も望めません いつまでたっても 手のかかる地方教会になってしまいます そうあってほしくありません もぅ何年も経過しているわけですし ここら辺で 教皇庁から是正指摘されないような 重箱の隅をつつくことさえできないような 非の打ちどころのない日本語訳のローマ・ミサ典礼書を刊行していただきたい 基本さえできていないのに 応用をうんぬんできる立場にあるとはとても思えません 典礼の関係者には 英断を望みます 長〜い提案的&要望的ひとりごとでした。 .
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ミサ聖祭について✿ฺ
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こんばんわ
う〜ん…
少なからず、典礼に携わっている者としてはどうしたのもかと…
私は、まだまだ勉強不足でまだ聖書も全部読んでいないという
こういう者が典礼のお手伝いっておこがましいのですが。
私もこれからももっとお勉強してついていけるように頑張ります。
2011/11/25(金) 午後 10:10
出来る限り 自然体で 日々を 過ごしたいと
マリア様 と 守護者に お願いしています。
御母 マリア様なら どのように なさるだろう・・・と。
自分の 思考は 誇示せずとも
何時か 皆 知ることになるでしょうし。
記事を コピーで 頂いていきます。
私の 勉強用に。
2011/11/25(金) 午後 10:20 [ BJのママ ]
むじかです。広島に行ってとても素晴らしい教会でミサに預かることが出来て感激して帰ってきたところです。
今日のブログの内容は本当に考えさせられます。何気なく唱えてることにどれだけ意味を感じてるか・・・。そう聞かれればなんとも言えない自分がいます。なんだか形式化してしまってるミサの預かり方を今後、しっかり考えて行こうと思いました。そういう問題提起をしてくださってありがとうございます!
2011/11/25(金) 午後 10:58
典礼文監修のカトリック中央協議会の聖書と典礼にも解説にあたり、はてな?と思うこともしばしばあります。例えば2011.11.27日の4ぺージのケルビムの事がスフィンクスのような半人半獣の神話的な存在とかかれていますが、旧約の預言者がみたと記す実在の天上の被造物ですね。聖なるミサについては言うまでもなく・・。 聖なる印も、悪と罪とがの言葉も削り、さらに違う言葉に変えて、聖変化も立ちっぱなし・・の現状は信徒も司祭も霊魂が荘厳も、聖も感じられない現状にまずいと感じてる方も多いと思います。 又司教達も賛成、反対の数ではなく、教皇のお言葉に忠実に謙遜に聞き入れる器でありますように祈っています。司祭の霊と共に!完全なトリエント・ミサでなければ完全は無理にしても、肝心な所にも神への細かい配慮、ミサ後のすぐのおしゃべり、などにしてもそこに居られ私達を見ておられる意識も我々信徒の人々も忘れないようにしたいものですね。ちなみにミサ後に人々のざわめきの中でも、熱心に祈っている方は数少ないですが、ミサ前後の祈りも本当に大切にしていただきたい・・と思う日々です。
2011/11/27(日) 午後 6:07 [ yxh**196*000 ]
記事を大変興味深く拝見させていただきました。
確かに翻訳によっては、意味は大変異なる印象を与えてしまいますよね…
私はベネさんのご提案は素晴らしいと思いました。
いつも御ミサに持参している、祈りの手帖に書き加えておこうっと♥...〆(・ω・o)
wポチ☆
2011/11/30(水) 午前 0:45
非の打ちどころのない日本語訳のローマ・ミサ典礼書を刊行していただきたい
同感です! 信仰が強められもっとよくお祈りできるような典礼になって、御ミサの豊かなお恵みが福音宣教にもなりますように
ナイスです
2012/8/13(月) 午前 8:35
この記事を転載させていただきました
どうもありがとうございます!
もうすぐ日本語のミサ典礼書も新しくなると
大神学校の神父様からお聞きしましたので、
楽しみに待っています
2012/10/23(火) 午後 3:57
ニールさんのところからきました。
転載させてくださいね。
様々な思いを表す一つ一つの言葉にはそれぞれの意義や意味が
ありますね。
とっても私自身勉強になります。
ナイス☆送ります。
あき
2012/10/25(木) 午前 9:51
こんにちは〜

あきちゃんの転載からきました〜
ナイス
村ぽち。
2012/10/25(木) 午前 9:58