ミサ聖祭について✿ฺ

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第2ヴァティカン公会議 
典礼憲章(Constitutio de Sacra Liturgia Sacrosanctum Concilium 28)


奉仕者であれ、信徒であれ、
典礼の原則上、自分に属する部分だけを行なわなければならないし、
またその全てを行わなければならない。



ベネディクト16世教皇
使徒的勧告『愛徳の秘蹟』
神の民の典礼への参加と祭儀の法について


第2ヴァティカン公会議は、適切にも、
神の民全体が、エウカリスツィアの祭儀について、
行動的で、充実した、実り豊かな仕方で参加することを強調しましたが、
「参加」という言葉が、祭儀中の単なる外面的活動を指すだけでないことを、
はっきりさせる必要があります。

エウカリスツィアの祭儀は、
本質的に、神の行為です。

ですから祭儀の基本的な構造を、
私たちが勝手に変えることはできませんし、
一時的な流行によって危険にさらしてもなりません。
実際、エウカリスツィアの祭儀は、生きた聖伝を含んでいます。

神の民の典礼への参加を推進するための主要な方法は、
典礼そのものを正しく挙行することです。

つまり、祭儀の法(ars celebrandi;正しい祭儀の方法)こそが、
行動的な参加のための、最高の条件です。

祭儀の法は、
典礼規範に対して、
完全に、忠実に、従うことから生み出されます。

( cf, Sacramentum caritatis 37,38,52 )


前回、ミサ聖祭についての、現状と提案をUPしましたが、
上記のとおり、祭儀の法の観点からしても、
省略のない、忠実な典礼の挙行が、
神への崇敬と、信徒の行動的参加につながることは明白です



ベネディクト16世教皇
使徒的勧告『愛徳の秘蹟』
ミサ奉献文におけるひざまずきについて


神の神秘への感覚の深まりは、
聖体を敬う特別なしるしによってあらわすことができます。

信徒たちをこのようなしるしにまで、
秘儀教育を通じて導くべきです。

私たちはここで、特にエウカリスツィアの祈りの時(聖変化を含む奉献文)において
ひざまずく、といった動作や姿勢が有する
普遍的な意味における重要性のことを考えています。

全ての人は、どの祭儀においても、
自分が、神の限りない御稜威の前にいるという自覚をもち、
また、その自覚をあらわさなければなりません。

神が、つつましい秘蹟のしるしのうちに、
私たちのところにまで来ておられるからです。

( cf, Sacramentum caritatis 65 )


前回、聖変化や聖体拝領におけるひざまずきについての提案をUPしましたが、
上記のとおり、教皇聖下の命示(自覚をあらわさなければならない)からしても、
奉献文や聖体拝領における、聖体の主へのひざまずきが、
普遍的な重要性を帯びていることや、
神の神秘への感覚の深まりにつながることは明白です

これは私たちが聖体の主に接する上でのキーポイントです。

「感謝の祈りの中心部においてひざまずく、普遍的な意味における重要性」
「神の限りない御稜威の前にいるという自覚をもつ」
「その自覚をあらわさなければならない」


端的に言えば、
主がおくだりになられる時は特にひざまずきなさい、という教皇指示です。



教皇聖下は、その枢機卿時代に、ひざまずきの大切さを力説されました。

「ひざまずくことができないのは、明らかに悪魔の本性である」

「信仰から遠ざかった『文化』は、
 神への本来的に必要な態度(ひざまずくこと)を知らない」

「もはやひざまずくことを知らない信仰、典礼は、その核心において病んでいる」

「ひざまずきは、どこかの文化から由来したものではなく、
 聖書と聖伝による神の認識に由来するものであり、
 キリスト教文化の表現なのです」

「神の御前に身をかがめることは、決して時代遅れなどではありません。
 なぜなら、私たちの存在の真実に対応しているからです。
 もし現代人が、それを忘れてしまったのであれば、
 現代世界のキリスト者として、それを再び習得して、
 私たちの同胞にそれを教えることは、私たちの責務となるのです」

「エウカリスツィアの祭儀にあずかる者にとって、
 主が降られ、パンとぶどう酒を変化させて、
 ご自分の御体と御血になさる瞬間は、
 その心を、最も深いところから揺さぶる瞬間であるはずです。

 私たちは、この神聖な出来事を前にして、
 ただただ深くひざまずいて、敬意を表わすほかありません。

 聖変化は、
 この世界において、私たちのために行なわれた、
 神の偉大な行為の瞬間だからです」


聖変化を含む奉献文においてひざまずくことの重要性は
おわかりいただけたと思いますが
その重要性は、聖体拝領においても同じく重要性を帯びています

というのも、聖変化において祭壇にくだられる主が
聖体拝領において、個別に信徒の心にくだられるからです
それゆえ、聖体拝領においては、
いっそうの聖体への崇敬が必要であるのは言うまでもありません

そのことを明示するため
教皇聖下は、信徒たちの拝領時、
聖体拝領台を用意して、信徒がそこにひざまずいてから
聖体を信徒1人ひとりの舌に直接授けています

これは教皇聖下が、
聖体拝領はこのようにすべきである、との望みを模範的に表明しているのです。
つまり、これが最良の聖体拝領の方法である、との暗黙の提示なのです。


端的に言えば、
主が個別的におくだりになられる時も特にひざまずきなさい、という教皇指示です。





ここで、もしかしたら不敬にも
「そんないちいちひざまずいてたら、祭儀の進行が遅れるじゃないか〜。
 とっととミサを終わらせて、早く帰りたいんだよね〜。あ〜、あの用事しなきゃな」なんて言う人は
祭儀の進行が遅れるどころか、自身の信仰を大きく後退させることになります

神を敬う時間よりも
人間の移動時間を気にしていては
その信仰は深まるどころか、逆に薄くなってゆくでしょう

次第に聖体拝領のための必要な準備も整えなくなり、
感動もなくなり、礼拝も捧げず、習慣的なイベントと化し、
聖体拝領への感謝の祈りもほとんど捧げなくなり、
そのうちミサ聖祭に平気で遅れたり(金儲けの仕事の勤務では無遅刻かもしれないが)
それでいて何も感じなくなってしまうでしょう

神への愛と尊敬の表明の時間を惜しんだがために
その霊的に失われた時間はなんと拡大してゆくことでしょう

神への崇敬を軽んじて、
神の視点で物事を考えない人に対しては
主が次の御言葉を繰り返されるでしょう

「サタンしりぞけ。あなたは神のためを思わず、人のことを思っている」(マテオ16,23)



なお余談ですが。。

国を司る政府は、国民から徴収した税金から
みずからの給与をもらい、正しい政策をもって
国民に対して、忠実に、その奉仕を遂行する重い義務があります

国を司る政府が、国民からお金をもらいながら、
その国民への義務を忠実に果たさないとしたらどうでしょう

これにおきかえて考えてみるのもよいと思います

地方教会を司る人々は、信徒から受けた献金や維持費から
みずからの給与をもらい、正しい典礼の挙行や秘蹟の授与をもって
神の民に対して、忠実に、その奉仕を遂行する重い義務があります

地方教会を司る人々が、信徒たちからお金をもらいながら、
その神の民への義務を忠実に果たさないとしたらどうでしょう


「主なる神は仰せになる。
 災いあれ。みずからを養うイスラエルの牧者よ、
 牧者はその群れを養うべきではないのか。
 あなたたちは凝乳を食し、純毛を身にまとい、肥えた家畜を屠る。
 それでいて、その群れを養おうとはしない。
 牧者はみずからを養うが、私の群れを養おうとはしない」(cf, エゼキエル34)

聖アウグスティヌス司教教会博士は牧者について
預言者エゼキエルの書を引用して警告しています。

「羊ではなく、自分自身を養う牧者に対して、
 彼らが何を好み、何をないがしろにしているかが語られています。
 エゼキエル書は、牧者たちを、どの点で咎め、非難しているのでしょうか。
 それは、彼らが羊乳を飲み、羊毛を身にまといながら、
 羊をなおざりにした、ということです。
 彼らはイエズス・キリストのことではなく、
 ただ、自分たちのことだけを追い求めたのです」

  ( cf, Sermo 46, 3-6 : CCL 41, 530-533 )


地方教会の牧者は
神の民に対して、祭儀の法に基づき、
教皇庁が示すとおりのローマ・ミサ典礼の挙行を、
忠実に、省略することなく、実施する重い責任と義務があります
それは、神の民が当然受けるべき権利を侵害しないためでもあります




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タイでは ひざまずくことが 日常 たくさん有ります。
神に・・・
国王に・・・
宗教だけではなく
自然に 教え伝えられています。
信頼と 崇拝と 感謝ですが
心が 落ち着きます。

2011/11/29(火) 午前 1:05 [ BJのママ ]

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ジンと来ます。
深夜に聴く讃美歌…

ポチ!

2011/11/29(火) 午前 1:50 通せんぼ

>ミサを終わらせて、早く帰りたいんだよね〜。あ〜、あの用事しなきゃな

いますね。
そういう方…
先日の御ミサ後は教会の大掃除でした。
掃除に残られたのは、私を含め、ごく数名の高齢の紳士淑女の
方々と外国人の信者さんだけでした。
天井の蛍光灯の掃除におぼつかない様子に、思わず駆け寄り
私が代わって高い箇所の掃除を引き受けました。
その高齢の紳士は
「ごめんなぁ、昔はワシはとび職で50mだの200mだの、高い所は
平気やったのに、、、」と声をかけて来られました。
私は「いえいえ、むしろ中途半端な高さの方が苦手なんじゃないですか?」(´∀`●)

記事に関係ないお話だったかしら?^^

2011/11/30(水) 午前 0:57 sola(そら)

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トリエント・ミサに参加した時に司祭がひざまずいて祈ってたのをみてなんと美しい姿だろうと感動したものです。司祭がひざまずいて祈る姿は中々見れませんが、そういう姿を見せる事も模範である司祭の務めであってほしいものですね。日本独自のカトリック教会ではなく、正しいローマカトリック教会を受け継ぐ日本の教会となりますように祈ります。聖母が言われているように、皆が聖職者達の為にも祈ってくださいますように。聖職者自身常に自分の霊魂に曇りがないか謙遜に見極めつつ、世俗の世の中に浸らず 妥協しない為にも私達自身も祈りで支えあいができますように。多くの牧者達は自らの胸を打ってこう言うべきです「これは私のあやまちである、私のあやまちである、私の大いなるあやまちである」もちろん自分もそうですが。物事を霊的にあてはめられずに人間の思考でアドバイスをされる説教や話しの時には魂にまでは響かないものです。聖霊が常に満ちてくださいますように!

2011/11/30(水) 午前 3:08 [ yxh**196*000 ]

日本ではひざまずきが見かけなくなりましたね
日本の典礼自体を見直す必要が有るのでしょう…

2011/11/30(水) 午前 7:44 una rosa

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テレジアさん↑のおっしゃるとおり、最近は聖変化時でのひざまずきをしない教会が増えてきましたね。高齢化でひざまずくのが大変というのも聞きます。そうやって時代と共に変化してるようですが、果たして本当にそれでいいのか?とむじかも思ってました。簡素化のようにも見えるこの風潮。絶対、話し合いが必要ですよね!

2011/11/30(水) 午前 11:32 むじか

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ベネディクト16世教皇にお会いしたいです!
神の愛と感動があきの中でさらに大きくなると思いますから。
そんなことを考えめぐらしています。
あき

2013/1/3(木) 午後 7:42 Akichan (あきちゃん)

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今日は司教様司式の御ミサでした
「また、司祭とともに」と応えず「また、あなたの霊とともに」
がとてもふさわしく、躊躇することもなく、嬉しかったです

跪きたい気持ちを、主任司祭や司教様の考えにあうように
我慢してささげるなんて、なんという矛盾でしょうか

教皇様の御ミサの時には、跪いて御聖体拝領をするように
勧められているのに、その全く同じ御聖体を同じように
拝領することに困難を感じる日本って・・

2013/8/4(日) 午後 3:47 ニール


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