Eucharistic Devotion, the Fountain of the Catholic Faith
カトリック信仰の源泉☆エウカリスツィアの信心
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| 愛の招き ヨゼファ・メネンデス 1921.11.29 〜 1922.2.12 |
| 聖心の愛のいけにえになりなさい |
主は仰せられました。
ヨゼファよ、
おまえは私のうちに生命を有している。
おまえが敵の攻撃に倒されそうになったら、
「私は神の力で支えられている」と言ってやればいいのだ。
私こそ、おまえの力だ。
それゆえ勇気を出して、十字架をになっておくれ。
私は十字架をになったまま、
私の働きにたずさわらなくてはなりませんでした。
私は悪魔の叫びや暴行に圧迫され、
部屋から荒々しく引きずり出され、
歯ぎしりと怒号のうちに口汚くののしられ、
長時間痛めつけられましたが、
急に何もかも消え去って、
目の前には美しい聖母がお立ちになりましたので、
私は聖母に、これほど私を苦しめる悪魔が恐ろしくてならないことを打ち明けました。
すると聖母は優しく語りかけてくださいました。
私の娘よ、
私はここにいます。
何も恐れることはありません。
悪魔は、あなたを責め立てることはできても、
害を加える権利がないのです。
霊魂の価値は、とても高いのです。
霊魂の価値がどれほど高いかを、あなたが知っていたならば。。
悪魔は、自分の魔手から逃れていってしまう霊魂たちのことで、
あなたに対して怒り狂っているのです。
しかし私の娘よ、
何も恐れることはありません。
主は、その聖心を示しながら仰せになりました。
私はおまえに聖心を知ってもらいたかった。
そして、おまえを、この聖心の最奥へと入れたいのだ。
主よ、このような苦しみは、もう終わりでしょうか?
いや、おまえはもっと苦しまねばならない。
私は、愛に従うココロ、償いを捧げる霊魂、
自分を犠牲として捧げてくれる者、
特に、自分を私に委ねる霊魂を必要としているのだ。
かといって、何も恐れることはない。
おまえは汚されることなく、
お前の霊魂は、私の血の中で包まれているからだ。
悪魔は、神から与えられた力以上には、何も持ち合わせていない。
私こそ、あなたの至高者だ。
私は、おまえが苦しむにしろ、楽しむにしろ、私にまかせきり、
私の慰めを受けるのと同様に、
悪魔の責苦にも服そうとの心構えをもってもらいたいのだ。
私はおまえが卑しめられ、
踏みつけられることを望んでいる。
私の聖心の計画に従って、
おまえがつくられようと、こわされようと、全てを委ねなさい。
おまえは私の望みを忠実に果たしたから、
私もおまえを忠実に扱おう。
ここに来て、休みなさい。
私がおまえのうちに憩いをえたように、
おまえも私の平安のうちに憩いなさい。
もしおまえが私に忠実であるなら、
おまえは私の聖心の中に住まい、
決してそこから出ることはない。
おまえのうちで、
私を自由に働かせておくれ。
それから、主はお立ち去りになり、
聖母は私を祝福してくださいました。
ヨゼファよ、何も恐れることはありません。
聖心が、ご自分の浄配をお見捨てになる、などということがありえるでしょうか?
私の娘よ、今はもう、これで十分です。
イエズス様も私も、あなたを守っています。
| Oratio Balduini Cantuariensis episcopi |
Aufer a me, Domine, cor lapideum,
私から取り除いてください、主よ、石の心を、
aufer cor coagulatum, aufer cor incircumcisum ;
取り除いてください、頑なな心を、取り除いてください、無割礼な心を。
da mihi cor novum, cor carneum, cor mundum !
私にお与えください、新しい心を、肉の心を、清らかな心を!
Tu cordis mundator et mundi cordis amator,
あなたは心を清める御方、清い心を愛される御方、
posside cor meum et inhabita, continens et implens,
私の心をあなたが占有し、住まい、結び合わせ、満たしてください。
superior summo meo et interior intimo meo !
私の至高の上層、私の親密な内奥よ!
Tu forma pulchritudinis et signaculum sanctitatis,
あなたは美の形成者、聖性の刻印者です。
signa cor meum in imagine tua:
あなたの似姿を私の心に刻みつけてください。
signa cor meum sub misericordia tua,
あなたの憐れみのうちに私の心に刻みつけてください。
Deus cordis mei, et pars mea Deus in aeternum. Amen.
私の心の神よ、私の分け前となられる神よ、永遠に。アーメン。
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| ただ、これまでのように内緒コメの引用&返コメはなかなかできないかもです(スミマセン)☆ |
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応援ありがとぅございます
感謝の気持ちをこめて、僕宛にいただいた投稿の一部抜粋を紹介させてもらいます☆
2012/7/12(木) 午後 7:19
内緒Aさんの投稿紹介です☆
「べネさまは理路整然とされてますね。
聖人の言葉は、太陽の光で透明性を帯び、
えもいえぬ色彩を放つ羽毛のよう・・・。
つらいことがある度に、私は人の本性を知り、学習しました。
励ましてくれる人と、離れて行く人に分かれ、
こちらの状況が再び良くなると、励ましてくれた人が豹変したり、
結論は、『人は私の幸福を究極望んでいない』でした。
信じられるのは、カトリックとカトリックが似合う人だけ。
劣等感の深い人は、プライドも高く、
しかし日常はそれを外見のよいものに包み隠していて、
神を知らない知識層というのも、嫉妬深くて辟易します。
そんなブログは、ずっと同じことが書いてあり、
要約すると、『神はいない、政治が悪い、金持ちはずるい。』(苦笑)
それを皆で、同調し合うも、その心理の裏には、
それらに依存している気持ちが表れています。
べネさまに本音をきいていただき、感謝しています。
どうぞご自由になさってくださいね。」
自由にしました^^
2012/7/12(木) 午後 7:19
真理は私たちに告げています。
「人は、繁栄の時には、友を見分けることはできない。
逆境の時に、敵はその正体を現す。
天に向かって石を投げるのは、
自分の上にそれを投げつけることである。
高ぶる者は、嘲りと罵りの言葉を吐くが、
報復が獅子のように、その者を待ち伏せる。
中傷の舌は、敬虔な者に力をふるうことはなく、
その悪意の炎も、彼らを焼くことがない。
しかしながら、仲間や友人が敵に変わるのは、
死ぬほどの悲しみではないだろうか。
友をつくる時は、試してからにせよ。
軽々しく信頼するな。
自分に都合のよい時だけ、友としてふるまう者もある。
しかし、おまえの悩みの日に、その者はおまえの側に立たない。
誠実な友は、確かな避難所のようであり、
それを見出した者は、宝を見出したのと同じである。
誠実な友には、どのような値もつけられず、
その善良さは、計りにはかけられない。
誠実な友は、生命の神秘的な薬であり、
主を畏れる者は、これを見出す。」
2012/7/12(木) 午後 7:20
内緒Bさんの投稿紹介です☆
「私が思っていたよりも、とんでもない事態になっているんですね。
彼女のブログを初めて見た時、気の毒な方だなぁと思ったのですが、
今回、サタンの働きを、まざまざと見せ付けられた思いがしました。
『祈れば祈るほど、サタンが迫ってくる』
これは、私の教会の、ある兄弟の言葉です。
その、サタンの働きを、主からのお言葉と勘違いしてしまうと、
彼女のようになってしまうのかもしれませんね。
ベネさんが、つぶされてしまうことが無いように
周りのおともだちが、主によって再び立たせていただくことができるように
何よりも、サタンの働きを誤解してしまった彼女が、主に立ち返ることができるように
信仰の薄い、小さなものですが、祈らせていただきますね。」
2012/7/12(木) 午後 7:20
ありがとぅございます^^
僕もあちらを見てみましたら
侮辱的記事に同調する方々もおられるようですが
通常、良識的な判断のうちに、
その主張に根拠があるかいなかを確認すべきでしょうし
事実確認さえできないならコメを控えるか
もしくは次のような感じで相手に内省を促すべきでしょうね
「そうなんですか?あちらのブログには一切そのようなことが書かれていませんし、
あの人のコメにも、自分がそういうものだとは全く述べられていません。
あなたのブログへのあの人のコメにも、そのような返答コメは見られません。
このような人格否定につながる内容の記事を書かれる前に、
しっかり確認されたほうがよかったのではないでしょうか?」
このように注意を促すことこそ、
一社会人として、良識的なふるまいだと考えています☆
2012/7/12(木) 午後 7:20
内緒Cさんの投稿紹介です☆
「ほかのことでもそうでしたが、苦しみが御恵みだという論理が、よく分かりました。
見えないものが見えるようになるのですもの。
べネさまの記事に、読み入りました。
聖人はいつも、まるで見ていたかのような言葉をくださいますよね。
愛徳に満ちたカトリックは、最高です。」
『弱さのなかにおいてこそ、力は余すところなく発揮される』と言われているとおり
僕のような不器用な貧しいペンであるからこそ、
幸いにも、主がお使いになられていると思います
それは、これらの働きが、僕自身に由来するのではなく、
主に由来するものであることが明らかになるためです。
配慮に満ちた主が、苦しみのさなかにあっても、
いつも私たちと共にいてくださいますように☆
2012/7/12(木) 午後 7:21
内緒Dさんの投稿紹介です☆
「霊名の祝日を迎えられたベネさんのために、
上のお祈りのなかの『私』を『私たち』にと置き換えてお祈りさせていただきました
私の霊魂を主の聖心のなかに沈め、
その清い御血で包み、清め、守り、安らぎをお与えください
日々、あなたに導かれ守られていることに、
主よ、心からの感謝と讃美を御前にお捧げいたします
ポチは訪問した記事でそれぞれいつも押させていただいていま〜す。」
素敵なお祈り&ポチをありがとぅございます^^
2012/7/12(木) 午後 7:21
内緒Eさんの投稿紹介です☆
「あちらの生い立ちというところを読みましたが、人を信じられない環境に育ってしまったので、
助けてくれる人にも噛みつくのですね。そう言う人は多いです。本当に可哀そうですね。
カトリックはそういう人のためにあるとも思うのですが、残念です。
▲さんも、あれ?と思いましたが、意味不明ですね。
でも縁を切られて正解です。
自分の言葉に責任がないのは、
責任を負う立場ではないからだと思いますし、世の8割はそういう人々であり、
1割のサタン的な人、1割のエンジェル的な人で構成されていると思います。
una rosaさんをご心配されたべネさまの温かいお心、愛徳、
その後の対処の正しさ。
主はべネさまを、聖心のより奥深くにお住まわせになりたいのだと思います。
本当に、大きなよろこびですね。」
2012/7/12(木) 午後 7:22
ありがとぅございます^^
一般論ですけど、
言葉の端々に、その人の本質を垣間見ますね
まれに言い方が酷いケースや
侮辱的な言葉を使う方がいますが
傍から聞いていても、不快感ですし
言われる本人はもっとキツイですからね
また人の痛みに共感できないのも
キリスト者としてさびしいものがあります
社会的に見ると、いじめが起こった際
いじめている側に注意を促さず、それに同調して、
いじめられる側の苦しみを積み重ねるケースもあるようです
包容力に満ちた言葉
優しさに満ちた言葉
愛と配慮のある言葉
そういうものがなにより大切で、
苦しむ人に寄りそい、悲しむ人と共に悲しみ、
あらゆる場面で、そのようにこころがけたいですね☆
2012/7/12(木) 午後 7:22
内緒Fさんの投稿紹介です☆
「十字架の記事を書きたいのですけど‥カトリックの認識?を教えてください
◆十字架の意味
イエスキリストのくびきを負うこと
贖罪の象徴
◆十字架そのもの
処刑道具
キリスト教のシンボルという表現は誤解を招くでしょうか‥」
とのことで。。
2012/7/12(木) 午後 8:14
誤解を招くことはないですょ
特に上記に加えるものはないですが
前表として、イザアクのいけにえ、過越の小羊、荒れ野でモーゼの挙げた蛇、
といった感じで、旧約における『救いのしるし』の新約における実現とされています。
信者は、キリストの神秘的からだの肢体として、
そのかしらであるキリストの十字架の受難に従って、
救いの道を歩む道標としても捉えられます。
信者は、世と悪魔と情欲を、十字架にくぎづけにして、
主の足跡に従うべきことが啓示されています。
このことから、十字架は救いのための道具になりうるもので
信者は、自らの肉体における感覚的重荷を、十字架として各々にない、
罪に死んで、神に生きるべきことが教えられます。
十字架こそ、私たちの救いと贖いのシンボルであり、
私たちを極みまで愛された主の、力強い愛の証明に他なりません☆
2012/7/12(木) 午後 8:14