ミサ聖祭について✿ฺ

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Eucharistic Devotion,the Fountain of the Catholic Faith

カトリック信仰の源泉☆エウカリスツィアの信心



 
Veníte, adorémus et procidámus
来て、礼拝し、ひれ伏し、
et génua flectámus ante Dóminum, qui fecit nos,
私たちを創造された主の御前にひざまずこう。
quia ipse est Deus noster,
なぜなら、主こそ私たちの神であり、          
et nos pópulus páscuæ eius et oves manus eius.
私たちはその牧場の民であり、その御手の羊なのだから。
 
(時課の典礼(教会の祈り)の『初め』に唱える詩編9495)より)
 
 
 
ミサにおける日本での適応は 『画一化をはかるものではない』とのこと
 
 『新しいローマ・ミサ典礼書の総則』は、2002年ラテン語規範版で示され、日本語訳として2004年の時点で『暫定版』が中央協議会から発行され、『暫定版』は、2008年に典礼秘跡省からの『所見』により修正を加え、2014年に『日本における適応を盛り込んだ改訂版』が典礼秘跡省から認証されました。
 
 今回、待降節第1主日から一部実施された『変更』は、「日本における適応を盛り込んだ改訂版が認められたので皆さん宜しくお願いします」といった『変更のお願い』の始まりみたいなもので、今後、その内容が段階的に開示されていきます。
 
ただ、この新しい日本における適応は、
『ミサの画一化をはかるものではない』とのことです。
 
 ですので、新しい日本における適応は、適応の名のもとで、ミサでひざまずく信者を、排除するための『適応』ではありません。
 
 まして、ひざまずく信者が、周囲からあからさまに虐げられるのを目にしながら、それを、見て見ぬふりをするのを、指導者たちが正当化するための『適応』でもありません。
 
そもそも『画一化』とは何か?
 
画一化 standardization とは、
物事全体を、同じ様子や状態に揃えること。
また、集団の成員に対して、強力な心理的強制を加えて、
その様式、信念、態度などを、同質化させること。cf ; Weblio : コトバンク)
 
画一化には主に4つの形態がある。
①権威主義的服従による画一化
②ファシズムによる画一化
③プロレタリアート独裁による画一化
④マスコミや消費文化による画一化
 
 つまり、今回の適応の実施に際して、このような心理的強制を加えた権威主義的服従による画一化をはかる意図はないし、また、あってはならない、ということです。
 
日本でのミサにおける『基本的な姿勢』は以前と変わらない
 
これまでの日本の適応においても、今回の日本の適応においても、
健康上の理由や他の重要な理由がある場合を除いて、
立つことと座ることが、ミサにおける基本的な姿勢とされていますし、
ひざまずくことはほとんどありません。
 
ひざまずく代わりに、『日本では』 手を合わせて深く礼をする、といった感じです。
なので、実質的に、日本でのミサにおける基本姿勢は以前と変わりません。
 
今回明記された『ひざまずくことはしない』との文言は、
あくまでも適応の観点であって、
禁止ではなく、強要でもなく、断罪でもありません。
 
もし禁止の意図があれば
「ひざまずくことは禁じられる」と表現されるでしょう。
もし強要の意図があれば
「立つことが義務づけられる」と表現されるでしょう。
もし断罪の意図があれば
「周囲に合わせないでひざまずくことは悪であり罪である」と表現されるでしょう。

そもそも、『日本の適応』が、そのような表現を用いたならば、
教皇庁から『適応』として認証されることは決してなかったでしょう。
 
適応は、良心上の選択権を『侵害』することはできない
 
新しい適応は、
信徒のひざまずく権利を『侵害』するためのものではなく、
まして、ひざまずく信徒を『断罪』するためのものでもありません。
 
聖変化におけるひざまずきは、
全教会に対する『原則』であり、信徒の有する『権利』であり、
手を合わせて深く礼をすることは、
権利侵害をなさないことを条件に認証された、地方教会の『適応』です。
 
かつて、この『適応』による代用行為が実施されている地域で生じた、
ひざまずく信徒への非難行為が、
不適切な権利侵害であることを明確化するため、
教皇庁は公文書をもって指摘するに至りました。
 
典礼秘蹟省指針Redemptionis Sacramentum 21
普遍的で聖なる典礼を、出席している信徒グループ、特定の司牧環境に儀式を合わせるために、規定や典礼書から予測される権利が失われることのないよう、司教は気を配らなければならない。
典礼秘蹟省指針Redemptionis Sacramentum 91
ひざまずいて聖体を受けたがっているという理由だけで、信徒が聖体拝領を拒否されるのは、違法である。
 
つまり、教会の公式の最高指針において、
聖変化や聖体拝領の時にひざまずく敬神行為は、
信徒の有する失われてはならない権利として確立されています。
 
そのため、今回の『新しい適応』は、
最高指針に反旗をひるがえす意図はなく、
ひざまずきを 『排除』 するための『画一化をはかるもの』でもなく、
ひざまずきを 『禁止するもの』でもなく、
信徒の有するひざまずきの選択権を 『侵害』 する意図もなく、
まして、ひざまずきを 「罪だ!」として 『断罪』 するものでもありません。
 
日本の適応は、『適応の名のもとに』
ローマの示す原則を、『断罪』することはできない
 
適応は、信者の便宜のためであって、
適応のために、信者があるのではありません。
 
聖変化におけるひざまずきは、
教会の典礼総則において示された、
全教会に対する公式の規範となる原則であり、
典礼秘跡省の最高指針において明確に保護された
信徒の尊重されるべき選択権です。
 
適応は適応であって、
原則を越えるものではありませんし、教会法でもありません。
 
しかしながら、無知に由来する周囲からの虐げは、避けられないでしょうから、
もし、立つことを要求されたなら、
「聖変化の時にひざまずくことは罪ですか?」
と繰り返し問いかけてみてください。
 
今どきありえないことですが。。。
もし、「罪になる」「悪いことだ」と罪されて虐げられたり、
「適応に従わない信者は信者じゃない」などと侮辱を浴びせられたり、
「従わないなら出ていけ」などと脅迫されたり、
言葉や態度で心理的強制と精神的圧迫のうちに強要されて、
精神的苦痛をこうむる被害を受けたなら、
それは『適応の名のもとに』犯される
甚だしい権利侵害行為であり、違法行為を構成しますので、
教皇庁典礼秘跡省への報告事由に該当することになります。
 
仮に、聖変化の時に、ふんぞり返って足を組み、大あくびをしながら座って、
「神の偉大な行為」の瞬間に対して、全く気にも留めないような、
明らかに不敬な態度をとる人がいたとするならば、
その人は矯正されてしかるべきです。
 
しかしながら、聖変化の時に、敬虔な信仰心から、
深い愛と敬畏、感嘆と感謝を表わす敬神行為として、ある信徒がひざまずき、
聖体のいけにえ、至高の秘蹟に現存される主イエズスを
深々とうやうやしく礼拝しているからといって、
『適応の名のもとに』 それを非難してはならないと考えられます。
 
『信仰上の敬神的表明を促す良心の要求』に基づく重大な理由のために、
あなたが、どうしてもひざまずきたいと望むならば、
周囲の風当たりがどうであれ、
あなたはひざまずいてもなんら差し支えありません。
 
聖トマス・アクイナス司祭教会博士Quæstiones disputatæ de veritate 17,5
良心に従う義務は、目上の人の命令に従う義務よりも、より高次の義務です。ですから、目上の人の命令が良心に反する場合には、良心にこそ従うべきです。
 
たとえ、周囲からのハラスメントを受けたとしても、
小罪にもならず、まして、大罪にもならない敬神行為について、
あなたが思い悩む必要性は微塵もありません。

ひざまずきは、『ここ日本では』、禁じられた行為ではなく、
立つことが、『ここ日本では』、強要される行為でもなく、
まして、ひざまずきは、『ここ日本では』、罪となる行為でもありません。
 
もしひざまずきに対して、
日本の適応が、『断罪』するならば
日本の適応が、ローマの示す原則を、『断罪』することになるでしょう。
 
しかしながら、
適応に過ぎないものが、原則を裁くことはできないのです。

 
グローバルな教会的視点からすれば実際『ひざまずき』は推奨されている
 
教会のセンスは、
最も崇高な聖体の秘蹟における主イエズス・キリストの現存に対して、
信者たちに、その御前でひざまずくよう要求しています。
 
私たちの創造主、贖罪主、成聖主である御方の御前にひざまずくことは、
旧約、新約に示された神の御言葉においても、
ミサ聖祭においても、時課の典礼においても、
天使たちや聖人たちの聖なる模範においても、
主の貴い御血で贖われた被造物である私たちに、明示的に、要求されています。
 
詩編9495
時課の典礼の招きAd Invitatoriumの唱句と共に唱えられている
Veníte, adorémus et procidámus
来て、礼拝し、ひれ伏し、
et génua flectámus ante Dóminum, qui fecit nos,
私たちを創造された主の御前にひざまずこう。
quia ipse est Deus noster,
なぜなら、主こそ私たちの神であり、          
et nos pópulus páscuæ eius et oves manus eius.
私たちはその牧場の民であり、その御手の羊なのだから。
 
預言者イザヤ
まことにあなたはご自分を隠される神、イスラエルの神、救い主よ、主はこう仰せになる。「私が神である。他にはいない。私に向かい、全てのものは膝をかがめる」。
  
使徒聖パウロのフィリッピの人々への手紙2
時課の典礼の各週の主日前晩の聖務にCanticum de Christo,servo Deiが必ず唱えられている
 こうして、天上のものも、地上のものも、地下のものも、イエズスの聖名にひざまずき、全ての舌が、父なる神の栄光のうちに、『主イエズス・キリスト!』と宣言する。
 
アシジの聖フランシスコ
 司祭によってミサのいけにえが祭壇上で捧げられる時、また、パンやぶどう酒の外観のもとに至聖なる御体と御血が、司祭によって運ばれてくる時、全ての人はひざまずいて、生きておられる真の神である主に、賛美と栄光と誉れを帰さなければなりません。
 
2002 新しいローマ・ミサ典礼書『ラテン語規範 第3版』の総則
Institutio Generalis Missalis Romanum 43
 健康上の理由や、場所が狭かったり、出席者の数が多かったり、他の重要な理由がない限り、聖変化の時にはひざまずくこととする。
 
ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿;現 ベネディクト16 名誉教皇 
Der Geist der Liturgie 4.2,3-5
ひざまずくことは、どこかの文化から由来したものではありません。それは聖書が伝える神の認識に由来するものです。
エウカリスツィアに参与する者にとって、主が降られて、パンとぶどう酒を変化させ、ご自分の御体と御血になさる瞬間は、最も深くから心を揺さぶる瞬間であるはずです。この出来事を前にして、私たちは、ひざまずいて敬意を表わすほかありません。生きておられる神の臨在を前にしては、ひざを屈することを放棄できないのです。ひざを屈することは、生きておられる神の御前に、私たちの力を屈することであり、私たちのもの全てを、神から受けていることを、私たちが認める行為なのです。
ひざまずくことは、現代文化にとり、異質なものでありうるかもしれません。その文化というのは、つまり、信仰から遠ざかってしまった文化であり、その御方の御前ではひざまずくことが正しいことを知らない文化であり、その御方の御前ではひざまずくことが本来的に必要な態度であることを知らない文化のことです。
信じることを学んだ者は、ひざまずくことをも学びます。そして、もはやひざまずくことを知らないような信仰は、あるいは典礼は、その核心において病んでいるのでしょう。
ひざまずくことが失われたところでは、再び学ばなければなりません。それによって私たちは、使徒たちや殉教者たちと共に、宇宙全体と共に、イエズス・キリストご自身との一致のうちにとどまるのです。
信仰し、祈りながらエウカリスツィアに参与する者にとって、主が降られて、パンとぶどう酒を変化させ、ご自分の御体と御血になさる瞬間は、最も深くから心を揺さぶる瞬間であるはずです。この出来事を前にして、私たちは、ひざまずいて敬意を表わすほかありません。
聖変化は、この世界における、私たちのために行われる、神の偉大な行為の瞬間だからです。
 
2005 聖体のシノドスの提言34「聖体を敬う動作」
Synodus de EucharistiaPropositiones 34
聖体のうちに現存する主を礼拝し、賛美する感覚をもって、
奉献文が唱えられる重要な瞬間に、ひざまずくことが重要である。


謙遜と愛を示す『ひざまずき』は、ここ日本では、忍耐も養いうる
 
ひざまずくことは、上述のとおり、
信仰上、典礼上、神学上、十全で明確な根拠を有しており、
聖変化や聖体拝領の際ひざまずかないことは、
遵守しなければならないような義務でもなければ、
法的拘束力もないことが明らかです。
 
ただ、ミサの聖変化において、周囲が立ちっぱなしでいる中で、
それでもあえて、ひざまずこうとする信者には、
外面的、また、内面的な、2つの忍耐が必要です。
 
外面的な忍耐としては、
個々の敬神行為を尊重するような、
すぐれた共同体においては起こり得ませんが、
周囲と同じように振る舞わない者を「異物」とみなす共同体の中では、
ひざまずく信者を排除しようとしたり攻撃したり虐げたりすることが、
必ずと言っていいほど起こります。
 
内面的な忍耐としては、
聖体の主への現存への信仰表明のひざまずきに対して、
それをあえてさせない悪魔の誘惑や、
周囲に同調したほうが批判も受けないしラクだと思い揺らぐ
自身の心の弱さです。
 
しかしながら、あなたは決して独りではありません。
あなたのすぐそばには、あなたの守護の天使も、
あなたの敬神行為に寄り添ってくれているからです。
 
至聖なる祭壇の秘蹟に信仰のまなざしを向けるなら、
たとえ目に見えなくとも、崇高な霊的存在者である天使たちが、
聖体の秘蹟に現存される主を取り囲むかのようにして、
その御前で謙遜にひざまずいて礼拝と愛を捧げているのを見ることができます。

イメージ 1

 
使徒聖パウロ
神は、その初子をこの地上にお遣わしになる際に仰せられました。「神の全ての天使たちは、彼を礼拝しなさい」。
使徒聖ヨハネ
全ての天使たちは、玉座の御前で、その顔がすりつくほどに伏して、神を礼拝しつつ賛美していました。「アーメン。祝福、栄光、智恵、感謝、栄誉、善徳、剛毅が、私たちの神にありますように、世々に至るまで。アーメン」。

使徒聖ペトロ
たとえ、義のために苦しみを受けたとしても、あなたたちは幸いです!脅しを恐れたり、心を乱したりしてはなりません。もし、善いことを行なって、なお苦しむことが、神のみこころにかなうのであれば、悪いことを行なって苦しむよりも、遥かにすぐれているではありませんか。
 
使徒聖小ヤコブ
試練を耐え忍ぶ人は、幸いです。なぜなら、これを乗り越えるならば、神がご自分を愛される人々に約束された生命の冠を受けることになるからです。


原則に合わせることを望む信者さんたちは、
『日本の適応』を尊重し、聖変化の際、
ひざまずかない方々に向かって、
「原則に従ってひざまずきなさい」、とは言いません。
ですから、聖変化の際、立ったままの方々も、
立っていない方々に向かって、
「適応に従って立ちなさい」、とは言わないようにしてあげてください。
 
そもそも、祭壇上で行なわれる聖変化に集中しているならば、
ひざまずいている人がいようがいまいが、
そのようなことに目くじらを立てて気にする、といったこともないでしょうけれど。
 
福者コルンバ・マルミオン修道院長 
Le Christ, idéal du moine
悪い奮発心の一種に、善の仮面をつけたものがあります。聖ベネディクトは、この種の奮発心を『苦い』奮発心と呼んでいます。それが、神と隣人への愛から出るかわりに、自分の傲慢心から出るからです。自分と歩調を合わせない者がいれば、どしどしこれを非難攻撃します。
ファリザイ人は、その見事な標本です。彼らは真理を知ろうと努めるかわりに、イエズスのあらを探します。イエズスが安息日に病人を癒されると、ファリザイ人はつぶやきます。イエズスが罪人や徴税人たちと食卓を共にすると、またまたつまずきます。これらはいずれも『苦い』奮発心の現れであり、その中には、しばしば偽善が潜んでいます。しかし、これはファリザイ人的つまずき、と呼ばれるものであって、問題にするだけ野暮です。
 
主が抱かれた愛と意向のうちに、誤解のいけにえを捧げましょう
 
ミサにおける日本での適応は、 
『画一化をはかるものではない』 とのことですが、
仮に、ひざまずくことに対して、相も変わらず不当に責め上げられるならば、
ファリザイ人的つまずきを相手にする必要もなく、
何ら心配する必要はありません。
 
そのような場合には、
「(聖体の秘蹟のうちにいる)私のために、人々があなたたちをののしり、
あるいは責め、あるいは数々の讒言を言う時、あなたたちは幸いである」
との神の御言葉への深い信頼と確信を胸に刻み、
耐え難い辛さを感じる時も訪れるでしょうけれど、
微笑みのうちに、その苦しみや誤解を喜びのうちに受け取りましょう。
 
そして、死に至るまで、同胞である民衆から誤解され十字架につけられた
主イエズス・キリストの聖心の苦悶の愛と意向に心を合わせて、
その誤解の苦悶を『誤解のいけにえ』として、永遠の御父にお捧げ致しましょう。


苦しみが、
どこからもたらされるにせよ、
誰からもたらされるにせよ、
そのこと自体に頓着することなく、
それが起こることをお許しになる神にまなざしを注いで、自分自身を委ねましょう。
 
苦しみは、悩むためのものではなく、
より大きな善に変化させるべき貴重な宝となりえるものです。

苦しみは、あなたを、謙遜と愛と忍耐のうちに、
イエズスのエウカリスツィア結び合わせ、
あなたを、生きる愛の炎のオスツィアとするための
いつくしみ深い神のはからい Providentia Dei にほかなりません✿

Sufficit tibi gratia mea.
あなたには私の恩寵で足りる。
コリント12,9
 

 
 

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お元気でしたか。お体大切にしてください。
今まで居ました神父様が帰天されました。神父様が決まるまで、
いろいろな神父様がミサをなさいました。その中の、一人の神父様が
立ってください、と神父様に言われました。
罪深い私は、立って・・など出来ないと思いました。
それからは、数人、軽くひざまつく方がいましたので、
どうしたら良いのか、と自問自答で悩んでいました。
解りました。ひざまついても悩まなくて良いのですね?
心の問題でもあると思うのです。
軽くひざまつく事に致します。
とても、悩んでいた事でしたので、読ませて頂き、考え直します。
有難うございます。

2015/12/1(火) 午後 6:33 [ ライオンKIDS ]

お久しぶりです。
お元気でしたか?
相変わらずのブログ生活です。
今年も押し詰まって師走…
無理をせずに忙しい暮れを乗り切ってくださいね。

2015/12/2(水) 午前 4:05 通せんぼ

顔アイコン

「日本における適応」に悩まされていましたので、今回の内容を拝読し、迷いを断ち切れました。どうも大変ありがとうございました!!
ベネさんの書庫を拝読させていただきたく、閲覧のためのyahooブログを作りました。yahooブログは経験がなく使い方がよくわからないのですがよろしくお願いします。

2015/12/5(土) 午前 7:38 [ カトリ ]

顔アイコン

はじめまして。うちの教会はいままで聖変化の時は跪いていたのですが、今回の改定????でまったく様子が一変してしまいました…
おまけに主任司祭が言うには、御聖体を口で受けることも許されていますが、手での拝領をお願いしています…とのことです。
教会報には一致、一致のためとやたら書いてありますが、聖変化の時に全員跪いていたのに、りっぱな一致ではないですか??
いまは、何も言われない教会の早ミサに行ってます。ほとんどの方が跪いています。
一致って何?と思ってしまいます。

ヤフーブログは使ったことなかったのですが書庫が読みたくて登録しました。宜しくお願い致します。ついでに愚痴かいてすみません。

2015/12/6(日) 午後 9:22 [ 真実 ]

始めまして、こんばんは😃
跪きは、禁止されていないと分かりながら、先週は、司祭の目が気になり、出来ませんでした。カトリさんに、つい、愚痴りました。
今回は、子供ミサでした。隣に座った朗読の女の子が、跪いたので、つられて私も跪きました❗
とても自然にです。天使に誘われたかのようでした。
来週はどうしようかとこの世の物指しで考え始めた情けない私。
カトリさんのお薦めで、このブログに出会いました。
勇気湧きました❗ありがとうございます
これからも、宜しくお願いします。

2015/12/7(月) 午前 1:58 [ 厚木テレジア ]

イグナチオの信者です。
跪き台が取り去られ、プリントにはご聖体拝領の時に跪く事は認められていません、と言う驚きの文言....
立つように強制されたらこれはもう「迫害」?
喜び踊っていいんじゃないでしょうか‼

2015/12/14(月) 午前 3:34 [ entenjizaitaikitaisei ]


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