ミサ聖祭について✿ฺ

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Eucharistic Devotion,the Fountain of the Catholic Faith

カトリック信仰の源泉☆エウカリスツィアの信心




 
ひざまずき台は教会の貴重な動産であり公益があり需要がある
 
ひざまずき台は
基本的に、邪魔になるものではないですし
聖体訪問の際に
ひざまずき台を利用する信徒もかなりいるでしょうし
日本に滞在する外国人信徒たちは特に頻繁に利用するでしょうし
そうした公益や需要のある中で
教会の貴重な動産であるひざまずき台を
わざわざお金をかけて撤去する必要性はないでしょうね
 

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心理的強制を加えてひざまずき台の撤去に踏み切ることは
『職権乱用』であり物理的『画一化』に他ならず
ひざまずき台の保全を希望する信徒たちへの重大な『権利侵害』であり
精神的加害行為に該当する可能性がある
 
日本における新しい適応は
『ミサの画一化をはかるものではない』とのことですので
 
そうした中で、心理的強制を加えて
ひざまずき台の保全を希望する信徒たちの意向を度外視して
権威的服従を用いて
なかば強引にひざまずき台の撤去に踏み切るならば

それは、立場を利用した『職権濫用』であり
今風にいえば『パワーハラスメント』であり
ひざまずき台の保全を希望する信徒たちに対する重大な『権利侵害』であり
作為によって精神的圧迫や損害を加える『精神的加害行為』であり
物理的な『画一化』に他ならないでしょう



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精神的加害行為による苦痛は
経済的賠償で埋め合わせをする必要性が生じる
 
パワーハラスメントによる
物理的『画一化』の犠牲者となる信徒たちが被る
精神的苦痛や霊的損害に対して
責務のある司牧者側は
なんらかの経済的埋め合わせをする必要性があるでしょう
 
教会も1つの社会です
法律もあれば外的法廷もあり訴訟もあります
損害を加えれば、賠償もしなければなりません
地方教会での話し合いで解決しない場合
教皇庁典礼秘跡省への苦情申告もなされます
 
社会的には
精神的苦痛に対する慰謝料という性質の
経済的賠償による埋め合わせが一般的です
 
信徒たちに『痛み』を負わせて
司牧者側が、その『痛み』を癒そうとしないことはありえないでしょう
 
そもそも司牧者側が
信徒たちに『痛み』を負わせること自体ありえないことですけど。
 

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ひざまずき台を保全する選択が賢明でありすぐれている
 
たとえ少数であるにせよ
これまでお金を出してきた側の信徒たちの要望があるなら
ひざまずき台の保全について
本来、司牧者側は尊重しないといけないでしょうね
 
つまり、公益のある貴重な動産であるひざまずき台を
従来通りに保全する、という選択です
 
聖体訪問の際に
ひざまずき台を利用する信徒もかなりいるでしょうし
日本に滞在する外国人信徒たちは特に頻繁に利用するでしょうし
そうした公益や需要のある中で
教会の貴重な動産であるひざまずき台を保全する選択は
実際、賢明でありすぐれています


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ひざまずき台の保全要求がある場合の撤去費用の負担
代替となるひざまずき用クッションと導入費用の負担
 
一部の信徒たちからの保全要求があるにもかかわらず
その意向に反して
備え付けのひざまずき台の撤去をなかば強要し
どうしても司牧者側の要求に応じなければならない雰囲気を煽り
ひざまずき台を撤去する運びとなるなら
 
教区という枠組み全体でみると
費用もかなりかさむと思いますけど
言い出しっぺ側が、主体的に費用を負担すべきです
 
撤去費用負担に関して
発案側の司教や司祭の給与から差し引く形にすれば
信徒側からの不満は少なくなるかもですね
 
単に教区の会計から、というのではなく
信徒側の1人ひとりの精神的痛みを
司牧者側の1人ひとりの経済的痛みで癒す、という感じで
月割りで給与から天引きしていく形で
信徒たちの味わう痛みのいくらかを、自分たちのものにしてもらいたい
 
また、司牧者側の勝手な意向で、ひざまずき台を撤去するのですから
ひざまずきたい信徒たちのために
ひざまずき台の代替策として
ひざまずき用クッションをいくつか導入する必要もあるでしょうね
 
また、そのようなひざまずき用クッションの購入費用も
信徒側のひざまずき台喪失による精神的痛みを
司牧者側のひざまずきクッションの補填による経済的痛みで癒す
という感じで、司牧者側の給与から差し引く形でイイんじゃないでしょーか
 
上の側の一方的な取り決めで事に及ぶのですから
それ相応の対応はしてもらわないといけないですよね


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ひざまずき台の撤去費用は無駄な経費
 
信徒数も減少し
教会維持費も低迷する中
わざわざそんな無駄なことを強行しようとすることは
愚策としか言いようがないです
 
なぜなら
お金をかけてひざまずき台を撤去したとしても
ひざまずく人は、ひざまずき続けるでしょうし
 
また、クッション性の高いひざまずき台の使用から
クッション性の低いものに移行すれば
霊的な観点からすれば
ひざまずく信徒たちの膝の痛みに伴う『犠牲』の意味合いが濃くなり
悪魔から霊魂を奪い返す要素が増えることになるでしょう
 
いずれにせよ
備え付けのひざまずき台の撤去は
無駄な経費でしょう
 
そして
その無駄な経費は
当然、言い出しっぺの司牧者側が、主体的に負担すべきです
 
 

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福者コルンバ・マルミオン修道院長
人となられた神の憐れみ、神の人間性であるイエズスの御前に
畏敬の想いのうちに謙遜にひざまずき、恩寵を注いでいただこう
 
謙遜は、真理です。謙遜とは、神への畏敬の想いから、私たち自身をへりくだらせ、自分に適した場所にとどまらせようとする倫理徳です。
私たちが、祈りの間、神の完徳と神の御業を観想し、天上の光が霊魂に降り注ぐ時、恩寵で触れられた霊魂が、反射的に、最初に示す心の動きとはいったいなんでしょう?それは、自分自身を低くすること、自分をへりくだらせること、礼拝のうちにひざまずくことです。
 
このへりくだりの礼拝の態度こそ、被造物が、被造物として、創造主である神の御前に取りうる、唯一の、真理にかなう態度なのです。
このようなへりくだりの態度を取らない被造物、すなわち、礼拝することを知らない被造物は、真理のうちにとどまっていません。
天国の聖なる者たちでさえ、永遠の愛の恍惚のうちにありながらも、神への礼拝と畏敬の深い淵に沈んでいるのです。
天国の聖なる者たちがそうであるならば、まして、罪深い私たちはなおさらのこと、へりくだらなければなりません。
 
「 こうして、天上のものも、地上のものも、地下のものも、イエズスの聖名にひざまずき、全ての舌が、父なる神の栄光のうちに、『主イエズス・キリスト!』と宣言する」。
 
聖パウロは、キリストが、世を救うために耐え忍ばれた屈辱の報いとして、御父から賜わった無上の栄光を、このような言葉で表現しました。
 
キリストの人間性は、神の人間性です。神への畏敬の想いは、キリストの人間性に及ばねばなりません。神の御言葉と位格的に一致結合しておられるがゆえに、キリストの人間性は、私たちが、神ご自身に示すべき尊敬と礼拝に当然あたいします。十字架につけられ、鮮血にまみれ、民衆のなぶりものになっている時にさえ、このキリストの人間性の御前に、私たちはひざまずいて礼拝しなければなりません。それが、神ご自身であるからです。
 
永遠の輝きのうちに、御父の右に座しておられる神人イエズス・キリストが受けておられる栄光と権能は、言語に絶します。そのため、選ばれた人々はみな、キリストの臨在の御前にひざまずき、礼拝のうちに絶え間なく讃え歌います。ですから私たちもまた、神の偉大さの前に、神への畏敬の想いのうちに、謙遜にひざまずきましょう。
 
至福直観の前触れとも言うべき信仰によって、私たちが神の完徳に触れる時、霊魂はすぐさま、礼拝のうちにひざまずきます。神の偉大さを前にして、自分を無に等しいものとする、この瞬間こそ、まさに謙遜の念が、霊魂の最奥から湧き出る瞬間なのです。ひとたび畏敬の念が霊魂にみなぎると、謙遜の想いは、油然として、そこから湧き出てくるのです。
 
内面的謙遜が、真実のもので、生き生きと霊魂の内奥に深く根ざしているならば、それは、ごく自然に、なんらの困難もなく、外部にあらわれるものです。もし私たちが、内面的謙遜をもっているならば、肉体は、その霊魂との実体的結合のゆえに、霊魂にみなぎる神への畏敬の念から流露する全ての態度に、みずからもあずからせるでしょう。
外面的謙遜は、内面的謙遜の表示であり、霊魂と肉体の緊密な一致のゆえに、その人の内的生活に大きな影響を及ぼします。外面的謙遜の実行は、しばしば、謙遜の徳の真偽を打診するための機会となり、その霊魂の生活は、絶え間ない神への礼拝へとつながり、その一挙手一投足にも、おのずと外部にあらわれます。
 
謙遜こそ、私たちを完徳に到達させ、神を見出させるための、最も確実な道です。謙遜な霊魂は、神からあらゆる恩寵をいただくのに適しています。自分自身の貧しさ、惨めさを自覚して、完徳の達成に必要なものを全て、神に期待しているからです。
私たちが、自分の弱さ、惨めさ、貧しさを自覚する時、それによって私たちは、間接的に、神の全能、全知、全善、神聖さをほめたたえることになります。この謙遜の賛歌は、この上なく神の聖心をお喜ばせするものなので、神もまた、より良いもので満たそうとして、その謙遜な霊魂のすぐそば近くまで、ご自身をかがませられるのです。
 
聖ベルナルドが言うように、「謙遜が、満たされるべき霊魂の大きな受容力を用意するやいなや、神の恩寵は、あたかも大河が流れ入る勢いで、その霊魂の中に注ぎ込まれます。実に、恩寵と謙遜とは、いつも、とても親しい間柄のようなものだからです」。私たちは、神に近づけば近づくほど、一層深く、謙遜の中に根をおろさなければならないのです。




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今日を入れて後3日…気忙しいことです。
日頃の怠け癖に今オタオタ…
BGMに癒されつつ頑張ります。

2015/12/29(火) 午前 3:16 通せんぼ

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おはようござまいます。
本当に撤去されなければよいのですが…
聖職者側も新しいミサ典礼の積極的な言動の方ばかりがめだち
私には「跪き禁止」「従わなくてはならない」空気しか感じません。

パワハラ、たしかにその側面もあるかもしれません。
教会の一部の聖職者はブラック企業の経営者になりさがってしまったのかもしれません。

2015/12/29(火) 午前 6:44 [ 真実 ]

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日本では、ひざまずき台を撤去することになっているのですか?

こちらでは、ひざの悪いお年寄りは立っていますが
殆どの信者はひざまずいています。

2015/12/29(火) 午後 6:15 [ Atsuko ]

たぶん、私の行っている教会だけなのでしょうか、解りませんが、
ひざまずく事をやめてください、との御話しで、全世界の教会が
そうしているのかと思っていると思うのですね。私は、はじめ、
びっくりしましたが、今までひざまずく事をしていた方々が、
立ったままです。これは、日本に知らせないといけませんね。
世界中の教会と一緒に同じく、ミサを行って頂きたいと思います。

昨年中は、大変お世話になりました。勉強になりました。
今年も、末永く、宜しくお願い申し上げます。
有難うございます。感謝しています。
アドバイス、有難うございます。
考えながら、未熟ですが、福音を伝えます。有難うございます。
感謝しています

2016/1/1(金) 午後 5:47 [ ライオンKIDS ]

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下から2番目の動画の3:19あたりからはじまるのは
「われ神をほめ」ですね
カトリック聖歌って世界と共通なのでうれしいです

最近のヴァチカンでの御ミサの動画でも、カトリック聖歌で
知っている曲が歌われているのを聴いて嬉しくなりました

2016/2/27(土) 午後 0:35 ニール


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