教皇聖下の声✿

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Eucharistic Devotion,the Fountain of the Catholic Faith

カトリック信仰の源泉☆エウカリスツィアの信心




 
頑なな心には神の聖心が理解できない 
〜心に鍵をかけてはならない〜
 
フランシスコ教皇聖下
 
私たちは 政治的権力や聖職的権威によって救われるのではない
 
神の救いは
なにか偉大なことから来るのではなく
権力や富の豊かさから来るのでもなく
聖職的権威や政治的権力の団体から来るのでもなく
小さなことから
神についてのシンプルな事柄からもたらされます。
 
道徳的詭弁や
おびただしい決まりに救いを求めていた律法学者たちから
イエズスは侮りをお受けになりました。
 
あるグループは、聖職的権威の団体から救いを求め、
別のグループは、政治的権力の団体から救いを求めていました。
 
しかし、なぜ律法学者たちはイエズスを侮ったのでしょうか?
それは、救いが、偉大な何か、御稜威的な何かからもたらされる「べき」
といった思い込みのためであり
また、富や権力を握る強さだけが、自分たちを救うと考えていたからです。
 
この世的には、それらは私たちの助けにはなるでしょう。
しかし、神のご計画は、それとは異なります!
 
彼らは、救いが、小さなことからもたらされること
神の事柄への一途さからもたらされることを理解できずに
イエズスの教えを見くだしたのです。
 
イエズスが、救いの道を提示した時
彼は決して偉大なことを話さず
むしろ小さなことについてお話になりました。
 
私たちは聖福音において、2つの柱を見出します。
それは、至福八端と最後の審判です。
 
イエズスは仰せられます。
「来なさい。私のもとに来なさい。
 あなたは、これらの事柄、小さなことに対して、
行ないをもって忠実を示したからだ」。
 
あなたの救いや希望を
権力や政治的団体や交渉などに求めてはなりません。
そうではなく、イエズスがお示しになる小さなことを行なうようにしてください。
 
イエズスにつまずかない人々は幸いです。
これら小さなことを見くださない人々は幸いです。
 
祈らない司教は その民に苦しみをもたらす
 
12使徒たちは、最初の司教たちでした。
ユダの死の後、マッティアが
教会における最初の司教叙階を受けるために選ばれました。
 
司教は、教会の柱であり
イエズスの復活の証人となるよう召された者です。
 
証明は与えられているのですから
私たちの生活が、これを示す『証言』とならなければなりません。
このようにしてこそ
キリストの復活の真の証し人となるのです。
 
司教の第1の義務は
祈りにおいてイエズスと共にあることです。
 
司教の第1の仕事は、司牧計画を準備することではありません。
いいえ、 No です!
祈ること、これこそ第1の義務です。
 
第2の義務は、証し人となること
すなわち、説教に従事すること
主イエズスがもたらされた救いを告げ知らせることです。
 
これら2つの義務は、容易ではありません。
しかし、これら2つの義務を果たすことは
真の力強い教会の柱石となることです。
 
もし、この柱が、霊的に弱々しくなるなら
すなわち、司教が、祈ることをせず
また、わずかな祈りだけですませようとしたり
祈ること自体を忘れてしまうならば
 
また、司教が、福音を宣べ伝えることをせず
その代わりに、ほか事にうつつをぬかすならば
教会もまた、ひ弱なものになってしまいます。
 
そのようにして、苦しみが引き起こされ、
神の民が、苦しむことになります。
 
この柱〜司教〜のゆえに、弱くなるのです。
 
信者のみなさん、私たち司教のためにお祈りしてください。
なぜなら私たちは、罪人たちの最たるものだからです。
 
私たちは、裏切り者のユダになる危険性をはらんでいるからです。
ユダもまた、かつて教会の柱として選ばれていました。
 
私たち司教は
祈りを避けようとするリスクへ走りがちであり
福音を告げ知らせることや
悪魔たちを追い祓うことの代わりに
ほか事にかまけようとするリスクへ走りがちだからです。
 
司教たちが、イエズスのお望みを果たすことができるよう
また、イエズスの復活の証人として
私たちが全てを与え尽くすことができるようお祈りください。 
 
自身の罪深さを知ることで 神の憐れみのふところに入れるようになる
 
神はいつも忠実な御方であり
ご自分の民が、その御言葉に聴き従わない時でさえ
ご自身を否むことがおできになりません。
 
神は多くの出来事を通じて
人々の心に働きかけましたが
それでも人々は不忠実のままでした。
 
神の民のこの不忠実は
すなわち、私たち自身の不忠実を示しています。
 
それは、私たちの頑なな心、閉じられた心です!
 
それは、愛そのものである父としての主の御声を聞こうとしないこと
その憐れみ、その愛に、私たち自身の心を開くようにと
いつも呼びかけておられる主の御声を聞こうとしないことです。
 
詩編において私たちはいつも唱えています。
Nolíte obduráre corda vestra
「あなたたちの心を頑なにしてはならない」。
 
主は、慈父の優しさのうちに、
いつも、このようにして私たちに語りかけておられます。
「あなたたちは心を尽くして私に立ち帰りなさい。
 私はいつくしみそのもの、憐れみそのものである」。
 
しかし、あなたの心が頑なであれば、
あなたはこれを理解することができないでしょう。
 
神の憐れみは
あなたの心が開かれている時にのみ、理解されうるものです。
 
律法学者たちは、神学を知っていました。
しかし、彼らは、とても、とても閉鎖的でした。
 
その一方で、民衆は、イエズスに感嘆し、信じたのです。
それは、彼らの心が開かれていたからです。
 
たしかに彼ら民衆は、不完全で、罪に満ちていました。
しかし、その心は開かれていたのです。
 
神学者たちの態度は、閉じられていました。
彼らはイエズスのメッセージを理解できないため
いつもあらさがしをしていました。
 
彼らは天からの『しるし』をイエズスに求めて詰めよりました。
彼らはいつも閉鎖的でした!
 
聖書にあらわされた高位聖職者の物語
これは誤った忠実、エセ忠実の物語であり
閉じられた心の物語であり
「主よ、私をお赦しください!」との願いに応じて
寛大に赦しの言葉を与えた神を忘れて
自分たちが、他者に対して、神の憐れみに応じない心の物語です。
 
彼らは、彼ら自身が罪人でありながら
自分たちの罪をかえりみようとせず
他者を裁いていたのです。
 
この物語は、世の終わりまで続くものです。
 
イエズスは、ルールをふりかざした、この種の誤った忠実に対して
とても明確に答えておられます。
この種の偽善者たちを論駁して戦われます。
 
Qui non est mecum contra me est,
私と共にいない者は、私に敵対し、
et qui non colligit mecum dispergit.
私と共に集めない者は、散らしている。
 
とても明確です。
 
信者であるあなたが
あなたに忠実を尽くしておられる神に
あなたの心が開かれているのか
それとも、あなたが神に敵対しているのか、わかるでしょう
 
「私と共にいない者は、私に敵対している」。
 
この対極に、交渉のための中間地点はあるのでしょうか?
 
その答えとしては
自分が罪人であることを打ち明ける場が、そこにあります。
 
もしあなたが、あなた自身罪人であることを理解するならば
あなた自身、開かれた心をもち
神の憐れみがそこに入れるようにするならば
その時あなたは、忠実な者になり始めます。
 
私たちは、主に、忠実さの恩寵を願い求めましょう。
忠実さへの道を歩むため、まず最初のステップとして
あなたが罪人であることを認めることです。
 
もし、あなたが、罪深いと感じていないならば
あなたは悪い者になり始めています。
 
私たちの心が頑なにならない恩寵を求めましょう。
神の憐れみに向けて開かれる恩寵
忠実さの恩寵を願い求めましょう。
 
そして、私たちが、私たち自身不忠実であったことを見出すならば
赦しをいただくための恩寵を願い求めましょう。
 
神と和解させていただきなさい
 
キリストは、私たちが、いかにもろいものであるか
私たちの罪深さ、私たちの心の弱さをご存知です。
 
私たちを赦そうと待っておられる神に
信頼をもって和解させていただきましょう。
なぜなら神は、私たちの心よりも、遥かに聖心の広い御方であり
私たちが信頼を寄せるなら、私たちのあらゆる罪を凌駕し
私たちを惨めさの淵から引きあげることがおできになるからです。
 
そのようにするため
私たち自身、神の憐れみを必要とするものであることを
まず初めに理解しなければなりません。
これこそキリスト者の歩む旅路の最初のステップです。
 
憐れみの開かれた扉
そこには、私たちを待っておられる救い主キリストがおられます。
主は私たちに、新たな、喜びに満ちた生活をお与えになります。
 
しかし、そこには、心の扉を閉ざしてしまういくつかの障害があります。
 
それはドアに鍵をかけようとする誘惑
すなわち、私たちの固有の罪のうちに生きようとする姿勢
その罪を過小評価すること
常態的に私たち自身を正当化しようとすること
他の人々よりも、自分は悪くないと考えることです。
 
そのようにして
霊魂の扉にロックがかけられて、閉鎖的な心になります。
そのようにして
悪の囚人のように、閉鎖的なままにとどまるのです。
 
閉鎖的な心は、神との和解を困難なものにしてしまいます。
 
罪は、私たちを、神から遠ざけたままにしてしまいます。
しかし、イエズスは、私たちをご自分へ立ち帰れるようにしてくださいます。
 
私たちを待っておられるイエズスは
倦むことなく、「私のもとにおいで!」と呼びかけておられます。
 
私たち自身のうちに閉じこもったままでいてはなりません。
イエズスのもとに駆け寄るようにしてください!
そこにおいて私たちは、回復と平安を見出すことができるでしょう。
 
イエズスは、罪を癒すための3つの薬を示されます。
それは、祈り、愛徳、断食です。
 
祈りは
主における自己開示と信頼です。
それは、主との人格的な出逢いです。
それは、罪によって引き起こされた神との距離を縮めます。
「私自身では不充分です。私はあなたが必要です。
あなたこそ私の生命であり救いだからです」
 
愛徳は
私たち自身と他者との関係性における疎遠を乗り越えることです。
事実、まことの愛は、外面的な行ないにあるのではなく
自分の良心を鎮めるため、慈父的ふるまいで何かを与えるのではなく
むしろ、私たちの時間、私たちの友情、私たちの助けを必要とする人を
私たちが受け入れ、迎え入れることにあります。
それは、自己満足の誘惑を克服して
仕える者としての姿勢に徹して生きることです。
 
断食は
私たちの関係性に依存することから
私たち自身を自由にするための悔悛であり
私たちが、より繊細なもの、より憐れみに満ちたものとなるために
私たち自身を鍛練する歩みです。
それは、質素と共有のための招きであり
私たちの食卓や、私たちの持ち物から取り分けることによって
自由のまことの善を再発見することにつながるものです。
 
主は、ご自分の民に呼びかけられます。
「あなたたちは心を尽くして、私に立ち帰りなさい」。
 
これら3つの薬は、単に、なんらかの外面的な行為だけでなく
私たちの心の深み、存在の最奥からもたらされるものでなければなりません。
 
事実、キリストは、私たちの祈り、愛徳、悔悛の行ないが
一貫した、確実な、偽善を封じたものであるようにと呼びかけられます。
 
この四旬節は
偽善、世俗化、無関心を
刈り込むための効果的な時としなければなりません。
全ては順調だし、私は大丈夫、などと考えるための時ではありません。
自分の心と、自分の生活を清めるためのもの
キリスト者としてのアイデンティティを再発見するためのもの
それは、仕えられたいという利己主義ではなく
仕える愛に生きるために用いる時です。
 
十字架にかけられた主のもとにとどまりましょう。
 
主は、私たちを愛しておられます。
私たちが神に立ち帰り
私たち自身を再発見することができるよう
主は、私たちを神との和解に招いておられます。
 
 
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閉じる コメント(7)

Open your heart to mercy!
Divine mercy is stronger than the sins of men

@Pontifex

2016/3/4(金) 午後 2:55 Benedictus

Jesus Christ, with his closeness and tenderness,
leads sinners into the place of grace and pardon.
This is the mercy of God.

@Pontifex

2016/3/5(土) 午前 8:47 Benedictus

May the Lord free us from all temptation
that separates us from what is essential in our mission
and help rediscover the beauty of faith.

@Pontifex

2016/3/6(日) 午前 7:59 Benedictus

The Jubilee of Mercy is a propitious occasion
to promote in the world ways to respect life and the dignity of each person.

@Pontifex

2016/3/7(月) 午前 9:28 Benedictus

My life, my attitude, the way of going through life,
must really be a concrete sign of the fact that God is close to us.

@Pontifex

2016/3/8(火) 午前 6:50 Benedictus

Small gestures of love, of tenderness, of care,
make people feel that the Lord is with us.
This is how the door of mercy opens.

@Pontifex

2016/3/9(水) 午前 9:19 Benedictus

God has caressed us with his mercy.
Let us bring God’s tender caress to others, to those who are in need.

@Pontifex

2016/3/10(木) 午前 4:16 Benedictus


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