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Jean Daujat

愛のまなざしである祈り
 
もし私たちが、神に向かう愛のまなざしのうちにとどまらないならば、私たちの思い、言葉、行ないも、神への愛であることが不可能です。
 
この神に向かう愛のまなざしだけが、私たちが思い、話し、行なう全てのものの動機として、神への愛を与えることができるのです。
 
この神に向かう愛のまなざしは、祈りの基本と本質となるもので、私たちを神の愛の要求に注意深くさせ、警戒を行なわせます。
 
したがって祈りは、キリスト教的生活に主要な、根本的手段なのです。私たちがキリスト信者として生きるのは、祈りによって、ただ祈りによってのみです。
 
祈りは、神に向けられた認識と愛のまなざし以外の何ものでもありません。
それゆえキリスト教的生活においては、注意を最大限に要求する仕事をしている時でさえ、愛のまなざしを決して背けることのない最愛の人と共に生きるように、神と共に生きることです。
 
最愛のものと共に生き、そのもののために何かをしている時、それをよく行なうために、全ての心遣いを、その仕事に向ければ、その時、心の内的まなざしは、最愛のものから遠ざかるでしょうか?
 
決してそんなことはありません。なぜなら、最愛のもののためにしている仕事に、注意の全てを向けているのは、確かに、その人に対する愛によってだからです。したがって、その時、仕事にそれほど専念するのは、最愛のもののためであって、最愛のものに向かう愛の内的まなざしのうちにとどまりつつ、仕事に集中するのです。
 
ですから、キリスト教的生活は、私たちが何を行なうにしても、よく行なうように専念し、注意深いことを要求します。
 
もし、それを悪く、あるいは不注意のうちに行なうのであれば、それを行なう動機としての神への愛が、私たちに甚だ不足していることになるでしょう。
 
  祈りの偉大な師である人々、聖ベネディクト、聖女ジェルトゥルーディス、聖ベルナルドは、祈りは全て教会の行為である、と教えています。
 
祈りは、この世では、信仰と希望のうちにあり、永遠の生命では、神の直観と所有のうちにあります。
 
したがって祈りは、神への認識と愛の内的生命であって、永遠の生命が、充分に開花させるであろうものの見習い、下ごしらえ、始まりとして考えられます。
 
私たちは祈りによって、信仰と希望の中で、すでに、永遠の生命となるであろうものを生きるのです。
 
祈りは、この世における私たちの生活の基礎であり、本質であり、また他の一切のものがそこからあふれ出る源ですから、この世にある他の何ものよりも、祈りを尊重し、愛さなければなりません。
 
私たちから、この世の一切のものが奪い去られても、何ものも私たちから引き離すことのできない祈りが残り、この祈りによって、私たちのうちに生きておられる神との愛の内的親密さのうちに、すでにこの世から生きるからです。
 
 

 
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Ascendit fumus incensorum de orationibus sanctorum
de manu angeli coram Deo.
(Ap 8,4)
 
聖ベルナルドは、ある朝、香炉を手にした天使たちが、修道者たちの聖歌隊に赴くのを見ました。その天使たちは、修道者たちの祈りを、主に捧げる香として香炉の中に各々入れていました。そして、天使たちが香炉をくゆらせると、熱心な人々の心からは、とても甘美な芳香がただよっていました。しかし、怠惰で眠そうにしていた人々の心からは、不快で吐き気をもよおす悪臭がただよっていました。
 


 
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