|
Eucharistic Devotion,the Fountain of the Catholic Faith
カトリック信仰の源泉☆エウカリスツィアの信心
フランシスコ教皇聖下
神の憐れみは、各々の人間性のうちに『受肉』することを望んでおられる
神の憐れみは、
なんと多くの豊かな表現をそこに含んでいることでしょう!
この憐れみは、私たちのもとへ、
親密さや優しさのうちに、訪れてくださいます。
このため、同情と連帯、また、慰めと赦しをもたらしてくださいます。
私たちがそれを豊かに受ければ受けるほど、
それを他者にも分かち合うよう促されます。
それは隠したままにしておくことができませんし、
私たち自身のためだけにとどめておくこともできません。
それはしばしば私たちの心を燃え立たせ、
私たちを愛に駆り立てさせ、
このようにして、私たちに、
のけものにされた人々、弱い人々、孤独な人々、
途方に暮れた人々、軽んじられた人々のうちに、
イエズス・キリストの御顔を認めさせてくれます。
御父のふところにおられる御独り子のうちに、神がどのような御方であるかが解き明かされたことによって、人は、神を知り、何よりも人間に対する神の愛のゆえに、『人間愛』によって、人は神を知ります。キリストは、苦しむ人、不幸な人、罪人のために、特に力強く表わされる愛の受肉となり、憐れみ深い神である御父を啓示し、それと同時に、他者へのいつくしみ深い愛と想いやりの模範となることによって、言葉と行ないをもって、聖福音の倫理の根本要素の1つである、いつくしみの実践への呼びかけをなさいました。『憐れみ深い人は、憐れみを受けるだろう』。
(聖ヨハネ・パウロ2世)
神の憐れみは、悔い改める私たちの罪を赦し、罪を忘れてくださる
「主よ、私の兄弟が私に対して罪を犯した場合、
何度、赦さなければなりませんか?7回までですか?」と、
聖ペトロが尋ねた際、
イエズスはお答えになりました。
「あなたに言っておく。
7回どころか、7の70倍まで赦しなさい」。
神が赦される時、
その赦しは、あまりにも大きく、
神は、そのことを忘れてくださるほどです。
私たちの場合、これとは反対に、言いふれ回ったりします。
「誰それはね、実はこれこれこんなことをしでかしたんだよ」
私たちは、自分の中に、
自分に対してどのようにふるまったかという、
多くの人々の履歴をもっています。
そういう状態ではないでしょうか?
ずいぶん前の出来事なのに、
いまだに私たちは忘れたりしていません。
なぜでしょう?
それは、私たちが、憐れみ深い心をもちあわせていないからです。
憐れみ深い神は、
私たちに赦しと救いをお与えになり、
私たちの諸々の罪を忘れてくださいます。
聖福音の中で、イエズスは、
いつでも赦しを与えなければならないことを説明するために、
負債のある2人のたとえ話を用いられました。
最初の人は、その主人から、憐れまれて、負債の全免除を受けましたが、
赦されたにもかかわらず、すぐさまそのあとで、
自分にわずかの負債のある同僚に対して、
憐れもうとせず、彼の喉元を締めつけて、牢に投げ込みました。
私たちは、主の祈りにおいて、
「私たちに負債のある人々を私たちが赦すように、
私たちの負債をお赦しください」と唱えています。
それは同程度に、ということであり、
2つの側面は、並行して進みます。
「あなたたちは自分が量るその升で、あなたたちも量られる」。
もしあなたが、赦すことができないなら、
どのようにして神はあなたを赦すことができるでしょうか?
神は、あなたに赦しを与えることを望んでおられますが、
もしあなたが他者への閉鎖的な心を持ち続けているなら、
神はそのようにすることができません。
それは、あなたの心に、神の憐れみが入る余地がないからです。
「父よ、私は赦します。
でも、私に対して誰それがなした悪いふるまいを赦すことができません」
そうですか、では、あなたが忘れることができるよう、
主が、あなたを助けてくださるようお祈りしてみてください。
私たちは、赦すことができます。
しかし、いつも、忘れることができないままでいます。
そうして、このように言うのです。
「私はあなたを赦します」。
その時の意味はこうです。
「でも、あなたは後でちゃんと埋め合わせをしてくださいね」。
これは、神が私たちに示される最高度の赦しとは、
似ても似つかない赦しです。
私たちの心を、
神の赦しを受けるにふさわしくととのえましょう。
私たちが受ける神からの赦しを、
同じように、他者にも、もたらしましょう。
心から赦しましょう。
「たぶんあなたは通りで私を見かけても、私に挨拶しないでしょう。
それでも、私は、心からあなたを赦していますよ」
このような心持ちにおいて、
私たちは、この大いなる、素晴らしい神的なもの、
すなわち、憐れみに、より一層近づくことができます。
赦すこと、
私たちは、私たちの心を、赦しに開かせることにより、
神の憐れみも、私たちに注がれて、私たちを赦してくださいます。
このため私たちはみな、赦し、赦される必要性をもっています。
互いに赦し合いましょう。
そうすることによって、私たちも赦されるものとなりましょう。
私たちが、他者に憐れみをかけることによって、
私たち自身も、神の憐れみを感じ取ることができるようになります。
その神とは、
赦しを与える時、それと共に、罪を忘れてくださる神のことです。
聖ヨハネ・パウロ2世教皇
十字架につけられた愛は、神の憐れみの啓示そのもの
御父は、人間への永遠の愛に、絶対に忠実であり、
人間を愛して、御独り子さえ惜しまずに、お与えになりました。
それは、御子を信じる人々が、滅びることなく、
永遠の生命を得るためでした。
十字架につけられた御子を信じる、とは、
御父を見ることであり、
それは、この世の中に、愛があり続けることを信じることであり、
この愛が、
個人、人類、世界を巻き込むいかなる悪よりも、力強いと信じることです。
この愛を信じる、とは、
憐れみを信じることです。
憐れみは、
愛になくてはならない広がりのなかにあり、
いわば、愛の別名です。
この世の中にある悪、
人間を誘惑し、攻撃する悪、
人間の心の中に入り込み、
地獄で滅ぼすようにさせることもできる悪に対して、
愛は、特にこのように啓示され、実現されていきます。
十字架とは、
神が、人間のところまで来てくださること、
人間が特に困難な時、
人間の地上の生存の最も苦しい傷に、
永遠の愛の手が届き、触れてくださることです。
復活は、
悪に支配されている世界において、
憐れみ深い愛の全啓示を全うする『しるし』であり、
新しい天と、新しい地を予告する『しるし』です。
その時、神は、彼らの目から、涙をことごとく拭い去ってくださいます。
神の憐れみは、
十字架につけられて復活したイエズス、
つまり復活神秘のうちに、その確かな顕れがありました。
この神秘こそ、
憐れみの最も完全な啓示を、その中に担っています。
それは、死よりも強い愛、
罪よりも強い愛、
いかなる悪よりも強い愛の啓示であり、
人間が深い淵に落ち込んだ時でさえ、それを引き上げて、
最も強大な脅威からも、それを自由にする愛です。
これこそ、キリストの神秘のうちに啓示された
いつくしみ深い神の愛としての憐れみです。
|
教皇聖下の声✿
[ リスト ]





Misericordia, cum Deum coniungat cum homine,
via est quae cor aperit nostrum spei amoris quo Deus nos valde amat.
@Pontifex
2016/4/3(日) 午後 4:27
Mercy: the bridge that connects God and man,
opening our hearts to the hope of being loved forever despite our sinfulness.
@Pontifex
2016/4/3(日) 午後 4:28
Fides christiana est donum,
Baptismate acceptum, quod potestatem facit congrediendi cum Deo.
@Pontifex
2016/4/4(月) 午後 8:34
Christian faith is a gift
which we receive in Baptism and which allows us to encounter God.
@Pontifex
2016/4/4(月) 午後 8:35
Dominus hortatur nos ut tales simus
qui veritate, pulchritudine ac potentia praecellamus Evangelii
quod vitam transformat nostram.
@Pontifex
2016/4/5(火) 午後 10:09
The Lord asks us to be men and women
who radiate the truth, beauty and the life-changing power of the Gospel.
@Pontifex
2016/4/5(火) 午後 10:10