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教皇庁教皇儀典室の儀典長 グイド・マリーニ司祭
Magister Pontificiarum Celebrationum Liturgicarum ;
Monsignore Guido Marini 教会が定めた、ひざまずきつつ、舌で聖体を拝領することは
聖体の細かな小片の落下を、できる限り回避させるものであり
エウカリスツィアの秘蹟におけるキリストの真の現存への敬虔を
信徒たちのうちに増加させるものです
エウカリスツィアのキリストを拝領する際のひざまずきは
そこに現存されるキリストへの礼拝を示唆し、促すものです
私たちは聖体拝領に際して
そのような、最高の敬意と礼拝をもって、主に近づくべきです
(ex, Liturgical Reflections of a Papal Master of Ceremonies)
手による聖体拝領 および ひざまずきの排除は悪魔に由来している
Signa autem eos, qui crediderint, haec sequentur :
in nomine meo daemonia eicient.
信じる人々には、このようなしるしが伴うだろう
彼らは、私の名によって、悪魔を追い祓うだろう
(マルコ16,17)
エクソシズム(悪魔祓い)は、祈りであり、教会の行為であり、準秘蹟であり、祈りに断食が加われば、さらに効果的なものとなります。
エクソシズムがなされるところ、そこは、エクソシストを介して、主イエズスや幸いなおとめマリアが介入される『場』であり、主導権は、主イエズス、聖母、教会権威であって、悪魔にはありません。
Domine, etiam daemonia subiciuntur nobis in nomine tuo !
主よ、あなたの御名によれば、悪魔さえも私たちに従います!
(ルカ10.17)
エクソシズムはまた、悪魔の策略が暴露される『場』でもあります。
もちろん彼ら悪魔が、自発的にエクソシストに従うことはなく、強いられて、嫌々ながらも従います。これが「悪魔さえも、私たちに従います」に該当します。
仮に、主イエズスの御名による厳命(「真実のみを言え」)にもかかわらず、悪魔が、その命令に反して、偽りを述べる、とするならば、つまり「従わない」ということになります。つまり、「主よ、あなたの御名によっても、悪魔は私たちに従いません。祈りに断食を加えても、悪魔は私たちに従いません」ということになってしまいます。嘘を述べるな、と命じられて、嘘を述べることは、従っていないことになり、彼らは「従わない」ということになります。
しかし、真理の御言葉が私たちに聞かせる響きはこうです。
すなわち、「主よ、あなたの御名によれば、悪魔さえも私たちに従います」。
悪魔の策略が明るみにされるのは、悪魔にとって、非常に不都合な真実ですが、主イエズスの御名によって厳命される時、悪魔は非常に抵抗しつつも、それを白状するはめになります。悪魔が真実の白状を嫌がるのは、自分たちが捕らえていた霊魂たちを手放さなければならなくなるためです。
これまで世界各地で行なわれた数々のエクソシズムにおいて、悪魔が白状させられた内容で、共通するものの1つに、『手による聖体拝領』というものがあります。それが、どこから来て、どこへ導くものなのか、その悪魔の告白をまとめると、次のような内容になります。
悪魔の告白
お前たち信徒は、聖体拝領の時
聖体を、手ではなく、口で受けなければならない
お前たち司祭は、聖体拝領において
それを信徒たちの手に授けてはならない
教皇自身、口に聖体を授けている
彼は手による聖体拝領を全く望んでいない
お前たちの中には、手による聖体拝領をする者が多くいるが
これは人間としての神への敬意から外れるものだ
手による聖体拝領は
私(イスカリオテのユダ)が中心的に働きかけてもたらしたものだ
我々は、とても長い期間、地獄で知恵を絞り出し
ついに現在行なわれている手による聖体拝領の導入実現に成功した
我々は、聖体拝領における変革について
つまり、手による聖体拝領の導入について、とても満足している
手による聖体拝領
これは、地獄にいる我々にとっては非常に好ましい
あぁ!こんなことまで言わされるとは!
キリストが最後の晩餐で聖体を制定された際
彼は、それを使徒たちの口の中へ、直接授けられた
キリストご自身が、それを使徒たちの口の中へ授けられ
幸いなおとめマリアも、ひざまずいて、それを口に受け、深く頭を垂れた
キリストは、ご自分の聖体が
手で受けられることを決して望まれなかった
また、最後の晩餐に列席した使徒たちも
他の弟子たちに、最も聖なる聖体を、彼らの口の中に授けた
そうだ、キリストは、手による拝領を決して望まれなかったのだ
神の聖なるからだを手で受けること。。
それは神への最大の冒涜となりえる、我々が現代の教会に仕掛けた罠である
人間どもに伝えるがいい
立って聖体を拝領しろ
しかも、手で聖体を受けろ
我々がお前たちに望むのは、ただそれだけだ
それは、我々地獄の利益のためになるからだ
しかし、実際のところ
手による聖体拝領は
神のみこころにかなうものではない
秘密結社イルミナティのグランドマスターからの典礼破壊のための指令書
1962年3月
第6指令
聖体拝領の際、ひざまずく行為をやめさせよ
第30指令
聖体拝領を、舌によってではなく
プロテスタントと同様、手でそれを受けさせよ
キリストもそのようにしたのだ、と吹聴せよ
そうすれば、聖体の一部を、我々の黒ミサのために確保できる
教皇庁典礼秘蹟省の長官ロベルト・サラ枢機卿
Praefectus Congregationis de Cultu Divino et Disciplina Sacramentorum ;
Cardinalis Robertus Sarah 私たち司教たちや司祭たちの責任は重大です
典礼の挙行における私たちの不注意や濫用は
どれほど教会とその聖なる典礼を損なうことでしょう!
典礼上の怠惰の誘惑に警戒しましょう
それは悪魔の誘惑にほかならないからです
さぁ、私たちはふたたび、主に向き直りましょう
教皇聖下や典礼秘蹟省の望みは
信徒がひざまずいて舌で聖体拝領することです
悪魔の告白によれば
立ったままの手による聖体拝領は
悪魔が入念な計画のもとに打ち立てたものとされています
フリーメイソン上層部イルミナティのグランドマスターからの
秘密工作員(Anti-Apostle)への指令書によれば
ひざまずきの排除や手による聖体拝領の導入が命じられています
仮に、司祭という、目上の立場から
強制的に立たされたり
手による聖体拝領を強要されたり
また、周囲の反発や圧力があって
どうすればよいか判断に迷う時には
誰が、なんと言おうと、たとえ、非難や侮辱を浴びせかけてきたとしても
規範的方法〜ひざまずいて舌で聖体を拝領する〜が無難です
公文書においても、個別的声明においても
規範的方法を望む信者の正当な権利は守られており
教皇聖下、教皇儀典室儀典長、典礼秘蹟省長官のお墨付きの方法だからです
なお、現職を含む、歴代の教皇庁典礼秘蹟庁長官は
ひざまずきの排除や手による聖体拝領について
「手による拝領は、良い兆候ではなく、いずれ修正しなければならない」
という主旨のことを語られた経緯があり
また、奉献文におけるひざまずきや拝領時の信徒のひざまずきについて
「司祭たちは、聖体拝領におけるひざまずきを否定してはならない」
「信徒たちには、可能な限り、ひざまずいて聖体拝領することを勧める」
「聖変化、特に聖体拝領におけるひざまずきは復興される必要がある」
という主旨のことを語られた経緯があります
これらの勧告は
特別形式ミサにおける、当然のひざまずきだけでなく
通常形式ミサにおいても、ひざまずきが大切であること
特に、ひざまずきが排除された地方教会の典礼において
ひざまずきをその典礼に取り戻さなければならない
といった再考を促すものといえますし
いまだかつて禁止されたことのない『ひざまずき』および『舌での聖体拝領』が
インカルチュレーションの適応の名のもとで
司牧者によって妨げられてはならない『信徒の権利』であることについて
再考を促すものと言えるでしょう
選択に迷うのは目的についてではなく、
目的に到達させる手段や方法についてだけである。
動機が正しいというだけでは全体が善とはならない。
直属の上司の命令が、自分の良心に反する場合には、
良心にこそ、従うべきである。
(聖トマス・アクイナス司祭教会博士)
聖パウロは言います
「主キリストにおいて敬虔に生きようとする者は、迫害を受ける」
ひざまずきをさせないように強要している病んでいる教区では
司牧者や周囲の信徒たちから、種々の虐げや嫌がらせを受けることは必至です
他者を虐げたり嫌がらせをすること
それは悪魔に由来する『反福音的実り』『悪魔の業』であることを示すものです
しかしながら
私たちが、主キリストの復活の栄光に参与することを望むのであれば
この世において、主キリストの受難の神秘に参与する必要があります
冒頭に掲げた教皇庁教皇儀典室儀典長による奨励
歴代教皇聖下による実践的模範
歴代教皇庁典礼秘蹟省長官による勧告
数々の公文書による、ひざまずきや舌による拝領についての権利擁護
聖体のシノドスによる奉献文におけるひざまずきの重要性の確認
これらの把握は、聖体のうちにまことに現存される主イエズスへの礼拝と愛を
また、神のみこころへの真の従順を、私たちに力強く促しています
主イエズスは、御父への死に至るまでの従順を貫き通し
御母も御子に寄り添い
その十字架のいけにえに至るまでの信仰の従順を貫き通しました
犠牲的愛の痛み
痛むほどに神への愛を貫くこと
そこに真の愛があります
Tolle ergo crucem tuam et sequere Iesum :
et ibis in vitam aeternam.
それゆえ、あなたの十字架を取り、イエズスにつき従いなさい
そこにこそ、永遠の生命がある
Pone te ergo sicut bonus et fidelis servusChristi
ad portandam viriliter crucem Domini tui :
pro te ex amore crucifixi.
キリストの善良で忠実なしもべとして
あなたの主の十字架を勇ましく担う覚悟を決めなさい
主はあなたへの愛のために十字架につけられたのだ
Calicem Domini affectanter bibe :
si amicus eius esse et partem cum eo habere desideras.
もしあなたが、主の友となり、主と共にいたいと望むならば
愛をもって主のカリスを飲み干しなさい
Consolationes Deo committe :
faciat ipse cum talibus sicut magis placuerit.
ただ、慰めについては、神におまかせしなさい
そうすれば御旨のままに、より一層素晴らしいものを、ご自身で備えてくださる
(ex, De imitatione Christi)
表面上、周囲の圧力に流されて、偽りの平和を楽しむこともできるでしょう
たしかに、それはラクなことであり、十字架から手を引くことになります
しかしながら、それが、神のみこころでないと確信しているならば
私たちは、人の気に入ることではなく
神のお気に召すことを選び取ることが大切です
「あなたはひざまずいて、私と共に戦いなさい」
私たちの報いは、この地上ではなく、天上に備えられています
今、幅を利かせている不従順的傲慢は
いずれ、従順的謙遜によって、踏みにじられるでしょう
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聖体拝領の方法✿ฺ
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丑三つ時です。(。◠‿◠。)♡【✾こんばんは✾】♡(。◠‿◠。)
東北地方まで梅雨が明け日本列島真夏の洗礼ですね。
深夜に聞く讃美歌は心に安らぎを感じます。
2016/7/30(土) 午前 2:17
日本だけなのですか(・・?ひざまつかなくて良いと。。
バチカンでは、そうしていますよね。
先日、教皇様が、転んでしまいましたね・・
心配です。
2016/7/30(土) 午前 10:24 [ ライオンKIDS ]
通せんぼさん、ありがとうございます🙋
おはおはです〜
熱中症に気をつけないといけないですね〜
この聖歌は大好きなものの1つです〜✥
2016/7/31(日) 午前 8:37
ライオンKIDSさん、ありがとうございます🙋
前回の『司祭の影響力についてのカトリックのことわざ』のあと
しばらく記事は書かないつもりでしたけど
つい先日、関東に出かけた信徒さんから
『とある司祭から手による拝領を強要された
突発的だったので動揺してそうしてしまった』
といった情報をいただいたので
本記事の作成の必要性を感じました
外面に現れる物事の結果には、必ず内面の要因があります
なぜそのような『不法行為(←社会一般の表現)』が、教会内で平然となされるのか?
なぜそのような『違法行為(←教皇庁による表現)』が生じるのか?
その内面に沸き起こる本源的要因は何なのか?
その司祭の内的『パン種』が何に由来するのか?
それを明らかにさせたいと思いました
2016/7/31(日) 午前 8:38
パパさまも年齢も年齢ですから踏み外したりけつまづいたりもするでしょうね
大事にいたらなくて良かったですけどね
僕もたまに段差にけつまづいたり
足の小指をどこぞにぶつけて「あうち!!」なんてこともやらかします
あれはかなり痛いです〜😅
2016/7/31(日) 午前 8:38
一番下の写真は聖パードレピオが主の十字架をともに
になわれている御像に見えます
ポチ
2016/9/16(金) 午後 10:38
内緒さん、村ポチありがとうございます🙋
2016/9/17(土) 午前 2:49
.
ニールさん、ありがとうございます🙋
そのとおりでございます
聖痕をその身に刻まれた聖ピオも、主の受難の協力者ですので
主と共に十字架を担う姿で表されています
聖パウロが、この世における苦しみの甘受について
『キリストの苦しみの欠けたところを、この身で補う』と表現したように
聖人たち聖女たち、キリストの神秘体の肢体である私たちも
同じように、その程度の差こそあれ
キリストの苦しみの欠けたところを補うものとして
主の十字架に自身の十字架を重ね合わせて担うことで
恩寵の助けのもとで
キリストの受難の協力者となることができます
おそらく、そのような模範的な意味合いもこめて
このような聖像で聖ピオが表現されているのだと思います
主の贖いの神秘における
全人類の協贖者Co-Redemptrix totius humani generisである聖母は
主の受難の最も崇高な協力者であり
その力強い取次によって、私たちの至らなさを助けてくださいます
.
2016/9/17(土) 午前 2:50
.
Deus, qui Fílio tuo in Cruce exaltáto
compatiéntem Matrem astáre voluísti,
da Ecclésiæ tuæ,
ut, Christi passiónis cum ipsa consors effécta,
eiúsdem resurrectiónis párticeps esse mereátur.
Qui tecum vivit et regnat in saecula saeculorum. Amen.
神よ、あなたは、あなたの御子が十字架にあげられた際、
共に苦しみを味わう御母が、そば立たれるのをお望みになりました。
あなたの教会に、恩寵を豊かにお与えください。
こうして私たちが、御母と共に、キリストの受難の協力者となり、
その同じ復活にもあずかるものとなることができますように。
御子は、あなたと共に、生きておられ、支配しておられます。
世々に至るまで。アーメン。
.
2016/9/17(土) 午前 2:51
> Benedictusさん、詳しい説明をありがとうございます
お祈りは悲しみの聖母の日の御ミサのお祈りですか
私の頭痛は主のいばらの冠への苦しみの協力なのかしら
2016/9/17(土) 午前 10:18
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ニールさん、ありがとうございます🙋
そのとおりでございます
2002年版のラテン語集会祈願です
苦しみの神秘と、その実りを
この集会祈願の内容において表現しています
苦しみは、ただそれだけでは苦しみでしかありませんが
意向における意志の行為のうちに、主の受難に合わせることによって
その苦しみが、主の聖心の愛に変容されて
自他の救いに役立たせていただくようになります
なので、ニールさんの頭痛の苦しみも
そのようにすることによって、救いに益するものとできますし
ニールさん自身も「主のいばらの冠への苦しみの協力」者となることができます
苦しみにおける人の内的外的行為は
主の茨の冠の御傷、御血、功徳によっておおわれる時
神の御前に言い尽くしがたい輝きを放つ愛としてみなされます
コルカタの聖女テレジアは
苦しみを、十字架のキリストからの愛の接吻として
こころよく迎え、微笑みのうちに甘受していました
そのようにして、苦しみを、霊魂たちの救いに役立てる人々は、幸いです
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2016/9/17(土) 午後 1:35