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日本の司牧者は
数年来 一部の弱い立場の信徒たちを
不当に虐げて傷つけてきた不法行為について
公式声明をもって 全教区に及ぶ 謝罪やお詫びを行なうべき
現在、「適応だ、適応だ」、と呼びかけている司牧者たちがなすべきことは
まず、これまで自分たちの身内である司牧者たちが、数年来にわたり
舌による拝領やひざまずきについて
一部の弱い立場の信徒たちを、不当に虐げて、傷つけてきた
という不法行為(違法行為)の加害事実について
公式声明をもって、全教区に及ぶ、謝罪やお詫びを行なうべきです
そのようにすることで、この特別聖年にあたり
司牧者自身の過去の過ちの清算をすべきです
ついで
適応において、舌での拝領やひざまずきが選択肢にあるという事実を
その選択権の尊重が、適応の認可の条件であったという事実を
各共同体に周知させた上で、その選択を、尊重し、受容すべきです
そのようにすることで
不当に傷つけられた人々の心の痛みを癒していくべきです
また、そのようにすることで
新たな加害を、未然に防いでいくべきです
それをしなければ
以前と同様に、傷つけた信徒をさらに傷つける
といった事態につながります
そのようにする重大な責任が
日本の司牧者にはあり、それを果たさなければなりません
前回の記事作成のきっかけ
『司祭の影響力についてのカトリックのことわざ』の記事のあと
しばらく記事は書かないつもりでしたけど
つい先日、関東に出かけた信徒さんから
『とある司祭から手による拝領を強要された
突発的だったので動揺してそうしてしまった』
といった情報をいただいたので
前回の『手による聖体拝領 および ひざまずきの排除は 悪魔に由来している』
という記事の作成の必要性を感じました
悪魔のパン種
外面に現れる物事の結果には、必ず内面の要因があります
なぜそのような『不法行為』が教会内で平然となされるのか?
なぜそのような『違法行為』が教会内で平然と生じるのか?
その内面に沸き起こる本源的要因は何なのか?
その司祭の内的『パン種』が、いったい何に由来するのか?
前回それを明らかにさせたいと思いました
その結論が、『悪魔のパン種』でした
償いをしない司牧者たち
癒しをもたらそうとしない司牧者たち
社会一般では弱者に対する虐げが明らかになれば
その加害者は、必要な謝罪なり賠償なり、なんらかの『償い』をするものです
今回の問題については、かなり以前から
日本の信徒たちを苦しみのうちに沈ませていました
しかしながら、教皇庁の指摘や勧告にもかかわらず
その不法行為、違法行為が
過ちを犯した司牧者側からも、また、それを知らされた裁治権者側からも
一切、何らの謝罪も、お詫びの声明もないままで
強い立場の司牧者が、弱い立場の信徒たちに
心の深い傷を負わせたまま、それを放置し
さらに、今回、適応の名のもとに、あたかも当然であるかのように
以前と同様な虐げ(手による拝領の強要やひざまずきの排除)を繰り返している
というのが現状です
教会は、司牧者による『児童への性的虐待』において
十分とは言えないにしても、謝罪や賠償を行ないました
しかし、当初、教会は、その不法行為の『膿』を明るみにせず隠蔽したがゆえに
その被害は拡大し、教会に請求された慰藉料も膨大な額にのぼりました
一方、この種の、教会内における典礼上の不法行為(違法行為)については
社会的関心がない部分なので、一般に明るみになりにくく
何らのケアもなされていませんが
異常な事態であることに変わりがないのです
本件の事案について
日本の司牧者はまるでサマリア人のたとえに登場する聖職者たちのようです
本来、信徒を大切にしてケアするはずの司牧者が
あたかも、サマリア人のたとえの中に登場する聖職者たちのように
傷つけられた信徒を、見て見ぬふりや放置をしたままで
何ら対処しない、その怠慢のゆえに
さらに事態を悪化させています
前回の記事の解説
問題提起
前回の記事の問題提起は
『舌の拝領をやめさせる行為』や『ひざまずきをやめさせる行為』
これらに対するもので
その排斥や強要が、何に由来するのかを
明確に打ち出しておく、という意図を含んでいます
つまり、
『適応の名のもとに、自分たちがするのはあなたたちの勝手ですが
適応の名のもとに、信徒の権利を侵害したり、阻害したり、強要してはならない』
という抗議の意味をこめた問題提起です
また、前回の記事は
舌の拝領を阻害されている信徒たち
ひざまずきを阻害されている信徒たちに向かい
励ましのエールを送るためのものであり
それと同時に
権利侵害を繰り返す司牧者たち
虐げや嫌がらせを繰り返す教区共同体の信徒たちに向かい
明確な『警告』を示すためのものでもあります
2つの対比
前回の記事の中で
2つの対比を見ることができると思います
一方は
ひざまずきを推進したい教皇庁
舌の拝領を推進したい教皇庁
ひざまずきを推進したい司牧者と信徒たち
舌の拝領を推進したい司牧者と信徒たち
それらに共通するのは
『信仰の神秘である聖体に現存される主への謙遜と礼拝』
『聖体の主への愛ゆえに、周囲の嫌がらせにさらされる際の忍耐と甘受』
『柔弱をしりぞける剛毅』です
まとめると
聖体に現存される主への義のために
迫害を、愛と赦しのうちに、傷つけられながらも耐え忍ぶグループです
もう一方は
ひざまずきをやめさせたい悪魔
舌の拝領をやめさせたい悪魔
ひざまずきをやめさせたいフリーメイソン
舌の拝領をやめさせたいフリーメイソン
ひざまずきをやめさせたい司牧者と信徒たち
舌の拝領をやめさせたい司牧者と信徒たち
それらに共通するのは
『高圧的言動』『強要』『嫌がらせ』です
まとめると
手による拝領を強要したいグループ
奉献文や拝領時に立つことを強要したいグループです
しかし、強要するグループは
耐え忍ぶグループが沈黙しているのをいいことに
図に乗って、『適応の名のもとに』、その強要をさらに推進しようとしています
一部の司牧者たちの酷いふるまい
以前、ある現職の日本人教区司祭は
とある青年会の集まりの際
ひざまずいて舌で聖体拝領する信徒さんたちについて
「彼らを見ていると、なんだか犬が舌を出して、ハァハァやってるみたいだ」
と言って、上目遣いでベロ〜ンと舌をだして、嘲笑しながら
青年たちの前で、からかう発言をしていました
青年たちはみな、その司祭の犬のマネ(拝領者のマネ)を見させられて
なんとも複雑な苦笑を浮かべていました
『先日、ひざまずいて秘跡を受けようとしていた信徒がいました
すると司祭は、ひざまずいたままの信徒に聖体の秘跡を授けず
信徒の横を通り過ぎて、その信徒に背を向けて
その信徒の後の信徒たちに次々に聖体の秘跡を授け出しました
その間、司祭に背を向けられた信徒は
ひざまずいた状態のまま、しばらく放置され続けていました
なんという酷い嫌がらせ
職権濫用もはなはだしい』(2018年5月24日付け記事からの引用) 先日、ある信徒さんからの話ですが
ある現職の日本人教区司祭が、要理勉強会の際
舌で拝領する人の侮辱的モノマネをされて
複数の信徒さんが悲しみ、ショックを受けられたそうです
その司祭は、背中をこっけいにまるめて
目を閉じて、「べ〜〜〜〜」と声を出しながら
極端なまでに、舌をベロ〜ンと出して、舌での拝領者をからかい
周囲はそれを見て、クスクス笑っていたそうです 本人には、ひざまずいて舌で拝領することをやめさせようとするケース
それ以外の人には、ひざまずいて舌で拝領する人々をからかうケース
『悪魔のパン種』は
ただ本人に『高圧的言動』や『強要』や『嫌がらせ』をするだけでなく
周囲にもその『遠回しな嫌がらせ』や『嘲笑』や『侮蔑』をまきちらしています
そして、その司牧者に追随して
共同体の信徒たちも、その嫌がらせに便乗するようになり
嫌がらせの連鎖、虐げの連鎖、排斥の連鎖を引き起こしてゆきます
どこから来て、どこに向かうものなのか
そのような一部の司牧者たちの酷いふるまい
それらが、どこから来て、どこに向かうのか
それらの由来を知ることが必要です
また、教皇庁や教会法や典礼指針や原則に、自ら『不従順』でありながら
配下の信徒たちには、自分たちの適応に、『従順』であるよう強要し
信徒の選択権を踏みにじり、全体主義的な画一化をはかろうとすること
それらの由来を知ることが必要です
その実りが、聖霊に由来するのか
その実りが、悪魔に由来するのか
主は仰せられます
「樹はその実によってわかる」
霊の識別において
樹はその実によって明らかです
善い樹は善い実を結び
悪い樹は悪い実を結びます
信徒の選択権の侵害行為は悪魔に由来する
立ち振舞いは適応のもとに選択肢はあるでしょう
しかし、その選択を阻害する行為
すなわち『舌の拝領をやめさせて手による拝領を強要すること』
『ひざまずきをやめさせて立つことを強要すること』
これは、ローマ教皇庁から幾度も指摘され、厳しく禁じられた違法行為だと
把握しておくべきです
信徒の選択権を侵害し、強要する行為が
どこに由来するのでしょうか?
それらの不法行為は
『地獄の悪魔に由来するもの』です
教会内での強要と排斥の横行
前回の記事は
信徒の選択を尊重する司牧者や教区に対するものではなく
信徒の選択を阻害して苦しめている司牧者や教区に対するものです
そもそも
禁じられていないのに、舌の拝領やひざまずきを禁じること
また、その選択権を尊重するようにと指摘されているのに、それを阻害すること
すなわち、『強要』という行為は、宗教を語る以前に『悪』です
また、カトリック教会においては
それが『違法行為』に該当する旨が、公文書にわざわざ明文化されています
それにもかかわらず
日本のカトリック教会内で司牧者たちによる『強要』や『排斥』が横行しています
そのような悪い実りは
悪魔に由来する『反福音的実り』であり
悪魔から出て悪魔に向かうところの『悪魔の業』であると
明確に識別することができます
フランシスコ教皇聖下は、受容と排斥に関するその説教において
ファリザイ的排斥について、幾度も痛烈に批判を繰り返しています
適応に関する典礼秘蹟省の書簡
(cf, Notitiae38 ; 582-584 ; 2002年7月1日)
各司教協議会の定めた適応に従って、立つ姿勢を規準とした地域においても
信者がひざまずくからという理由で、その信者に聖体拝領を拒むことは
キリスト信者の最も基本的な権利に対する重大な侵害である
そもそも適応の承認は
聖体拝領の際にひざまずくことを選択した信者たちが
その事だけによって聖体拝領を拒まれてはならない、ということが条件である
教皇庁教皇儀典室の儀典長グイド・マリーニ司祭
ひざまずきつつ、舌で聖体を拝領すること
私たちは聖体拝領に際して
そのような、最高の敬意と礼拝をもって、主に近づくべきです
教皇庁典礼秘蹟省の長官ロベルト・サラ枢機卿
司祭たちは、聖体拝領におけるひざまずきを否定してはならない
信徒たちには、可能な限り、ひざまずいて聖体拝領することを勧める
聖変化、特に聖体拝領におけるひざまずきは復興される必要がある 日本の司牧者は舌での拝領やひざまずきを 尊重し受容すべき
「適応だ、適応だ」と呼びかける日本の司牧者たちは
これ以上、信徒の選択権を侵害して踏みにじるのをやめなければなりません
日本の司牧者たちは
その条件づきの日本の適応において
一部の信徒たちによる、舌での拝領やひざまずきを、尊重し受容すべきであって
これ以上、それらの信徒たちの感受性を不当に傷つけてはなりません
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聖体拝領の方法✿ฺ
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そのようにふるまう本人は、たぶん感覚が麻痺してるのか
他者の感受性など、クソみたいに思って、あざけってるんでしょうね
でないと、なかなかあそこまでの完成度の高い表現はできないと思います
自分がされて嫌なことは人にしないってことが
まったくもってわかってないのか、なんなんでしょう
司牧者側に、愛や想いやりが欠落してるってことでしょうね
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2016/8/1(月) 午前 9:00
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彼ら司祭の守護の天使たちも
彼らのひどい侮辱的ふるまいについて
驚き呆れて嘆いておられるか、深く憤っておられるか
そんな感じでしょうね
いずれにせよ、他者を愚弄するものは
この世で自発的な償いをしないなら
あの世で(煉獄か地獄かわかりませんが)それ相応のものを受けるでしょうね
神様が、大切にしてほしいと望まれているものがあれば
それを尊重し、大切にするのは当然なことでしょうね
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2016/8/1(月) 午前 9:00
私の所属教会は、舌による聖体拝領が許されていますがお願いいたしましたとおり手でお願い致します。と文章で伝えてきました。
去年の待降節、日本おける適応なんちゃらかんちゃらが始まったときです。聖変化の跪きもなくなりました。
あれ以来、何も言われない教会の御ミサに行ってます。
2016/8/1(月) 午後 8:05 [ 真実 ]
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真美さん、ありがとうございます
通達があっても、その要請内容は
権利侵害という不法行為を含むものなので、法的に明らかに無効なので
当然その要請に従う必要性は皆無です
また、それを強制した場合、司祭側にとって、故意の不法行為を構成します
というのも
「舌による聖体拝領が許されていますが」という文面からして
それを拒んではならないという認識が明らかですから
過失ではなく、故意の不法行為を構成します
ですので
それに従う必要性は皆無であり
それを強要した場合、法律上、処罰対象になるでしょうし
教会法上においても、典礼秘蹟省が示したとおり『違法』という判断になるでしょうから
相手が何をしようが、気にせず、ご自分の選択を貫くことができます
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2016/8/2(火) 午後 2:24
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戦い方はいろいろですが
(人との戦いのことではなく、人の奥でうごめいている悪魔との戦いのことです)
みなが立っている中でひざまずくという方法で
逆境の中での『ひざまずきの戦士』になる選択もできるでしょうし
受容の精神をもつ小教区に移るという方法で
順境の中での『ひざまずきの戦士』になる選択もできるでしょうから
「何も言われない教会の御ミサに行ってます」というのもイイでしょうね
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2016/8/2(火) 午後 2:25
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文書で通達とか、小教区になんらかの圧力がかかったのかもですね
でも、そんなことをすれば信徒も離れてしまい
小教区が、その信徒を通じて得ていた天来の祝福も離れてしまうのに
そのような霊的な意味合いにまで考えが及ばないんでしょうね
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2016/8/2(火) 午後 2:25
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「私と共に集めないものは散らしている」と主が仰せられているとおり
舌による拝領やひざまずきを『排斥』して
信徒の選択権を侵害する小教区からは、人が離れていくでしょうし
その一方で、舌による拝領やひざまずきを『受容』して
信徒の選択権を尊重する小教区には、人が集まるでしょうね
受容は、天上からの実りであり
その小教区だけでなく地域社会にも祝福をもたらしますが
排斥は、地獄からの実りであり
その小教区だけでなく地域社会にも呪いをもたらします
自分がいかに聖主の意向や人の感受性を傷つけてきたのかを
向こうの世界に入ってから知る人は多いかもしれません
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2016/8/2(火) 午後 2:26
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主は仰せられます
「災いだ、荒らされたことがないのに、人を荒らすものは」
恩を仇で返す人は、主が報復されます
彼らは私たちを十字架につけて傷つけるでしょうけれど
主と共に結ばれようとする私たちの祈りはこうです
「父よ、彼らをお赦しください。
彼らは自分が何をしているかわかっていないからです」
善をもって悪に打ち勝つ
それがキリストのひざまずきの戦士です
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2016/8/2(火) 午後 2:26
仰る通りです。自分たちの未熟な知識が災いしてこのようなミスリードばかりしている日本司教団は謙虚に自分たちの行いを反省し、傷つけた信徒に公式に謝罪すべきです。聖体拝領の方法以外においてもお粗末なことこの上なし。典礼上の問題が何十年も平気で放置されていたり、祈りの口語訳で誤訳が生じたり・・・。天使祝詞の口語訳は最初の翻訳の誤りにやっと気づいて、ようやく幾分ましなものに改めましたが、司教団は口が裂けても「翻訳に誤りがありました」とは詫びません。すました顔で「今後はこちらを使用して下さい」と変更に至った経緯すら触れません。こういう一般常識やエチケットの欠如が問題なのです。自分たちが信徒に不信感を与えていることに気付くべきです。日本では有識信徒ほど司教団を信用していません。
吉祥寺五右衛門
2016/8/5(金) 午後 4:52 [ Goemon Kichijoji ]
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吉祥寺五右衛門さん、ありがとうございます
そうですね
自らの過ちを認めようとしないこと
つまり、傲慢な姿勢は、典礼の他の全ての事柄にまで波及しています
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2016/8/6(土) 午前 10:34
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指導的立場の人間が
特に、信仰と道徳の教えの座に就くものが
自らの罪や過ちや違犯行為について、自分を正すことなく
禁じられてもいないことを、不当に排斥する、という不法行為を継続させ
また、教皇聖下や教皇庁からの指摘に対しては
「日本の状況を彼らはわかっていない。
我々のやり方こそ、日本の風土に合致している」などと
公然と否定や拒絶を行ない、教皇庁を軽んじて
自らの恣意的やり方が教皇庁よりも優れている、などと過信し
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2016/8/6(土) 午前 10:35
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『祈りの法は信仰の法』という全教会の一致の関わりを
試作試作の連続で破壊して、独自路線を歩みながらも
「これまでの日本での宣教の実りのなさは
教皇庁の中央集権的やり方に原因があるのであって
我々のやり方は誤っていない
ただ、現在の日本を取り巻く環境のめまぐるしい変化や
日本の人々の特有のものの考え方に問題があるのであって
我々のやり方や宣教方針は正しかったのだ」
といった趣旨の含みで
自らを正当化して改めることなく
教皇庁に責任転嫁を行ない
また、日本の一般人の考え方に責任転嫁を行ない
一向に独自路線の誤りを改めようともしない
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2016/8/6(土) 午前 10:35
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枝が、樹の幹につながろうとせず
意図的に、自ら一致を妨げて、霊的滋養分の流入を阻害してばかりでは
自分たちの枝の実りに結びつかないことは、自明の理です
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2016/8/6(土) 午前 10:36
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政治的なものに対する声明はいろいろ積極的に行なう一方で
自分たちが傷つけた人々へのお詫びやケアは一切なく
自分たちの典礼上の濫用については、なし崩しのまま
相も変わらず教会法に触れる行為を放置して
信徒側からそれを指摘されても
許されていない濫用を一向に改めようとしない姿勢のまま
それでいながら、許されている信徒の選択を厳しく排斥する
.
2016/8/6(土) 午前 10:37
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悪魔やフリーメイソンの方針にそくした行動を取りつつ
教皇庁の方針に反旗をひるがえした行動を取り
また、日本独自の適応の承認を得るために
教皇庁に対しては
「画一化をはからないし、信徒の権利を尊重する」としながらも
信徒に対しては
適応の名のもとに、信徒の選択権を侵害する『二枚舌』ぶりを発揮する
まさに『偽善』と指摘されても致し方ないでしょうし
神の裁きの座の前で、その重い責任について
いったいどのような申し開きをするつもりなのでしょうか?
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2016/8/6(土) 午前 10:37
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無駄な方向にエネルギーを浪費してばかりで
必要な方向にエネルギーを注ごうとしないなら
霊的に実りのない負のスパイラルに陥るのは当然でしょうし
信徒側からの『信用残高』もマイナスの一途をたどるばかりです
憐れみの特別聖年にあたり
信徒たちが、日本の司牧者たちを誇りに思えるような
良識的なふるまいや当然なすべき対応をしてもらいたいところですね
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2016/8/6(土) 午前 10:38
今日、聖人になられた、マザー・テレサが
舌での拝領をするようにとおっしゃっていたと
本に書かれていたのを、ずいぶん前に読みました
2016/9/4(日) 午後 11:00
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ニールさん、ありがとうございます
マザーテレサの列聖おめでとうございます
聖女はあらゆる階層の霊魂の収穫者ですね
今もなお、その霊的感化の影響力は素晴らしいですね
「舌での拝領をするように」と積極的に促しておられたんですね
あるマザーテレサ関連の本に
マザーテレサのふるまいを毎日目にしていた、とある年配シスターの文言があります
「マザーは、毎日、聖体の秘蹟をとても敬虔に拝領していました。
聖体へのマザーの深い深い敬意は、
パンとぶどう酒の外観に覆われた
イエズスの真の現存への深遠な信仰のしるしでした。
彼女の礼拝の態度、
ひざまずいて、両手を合わせて祈る姿勢、
聖体を舌で受けること、
これら全てが、聖体への彼女の信仰を物語っていました」。
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2016/9/5(月) 午後 1:58
「無駄な方向にエネルギーを浪費してばかりで必要な方向にエネルギーを注ごうとしない」。至言です。まさにこれが全ての問題の根源です。
ところで、最近、ミサの中で唱えるドクソロジーが正常化の動きを見せています。おそらく司教団は聖座からお咎めを受けたのでしょう。「すべての誉れと栄光は代々に至るまで」(本来は司祭の言葉)を信徒が言わないようになったことは一歩前進ですが、まだ全国的には完全に正常化したとはいえません。いまだに旧態依然の小教区もあります。カトリックの世界は司教が司教の権威をもって「こうしなさい」と主任司祭に命じれば、すぐに問題は解消されます。しかし、そういう本来の業務を怠り、政治的な運動(主に左翼系)などに熱心になっているので日本の教会は一向に成長しないのです。
典礼上の違反を改めることを徹底した上で司教団は今まで間違いを間違いと知りながら放置していた自分のたちの過失を認め、信徒に公式に謝罪すべきです。
私は厳しいことを言っているようですが、これは社会の常識にすぎません。社会常識すらない司教団を誰が信用しますか。
吉祥寺五右衛門
2016/9/6(火) 午後 1:42 [ Goemon Kichijoji ]
マザー・テレサが御ミサでお祈りされているお姿や
舌で敬虔に御聖体を拝領されているお姿を、動画として
インターネットで視聴できることにも感謝しています
2016/9/6(火) 午後 2:47