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キリスト者は どのようにして 地の塩 世の光たりえるのか
フランシスコ教皇聖下
祈りは キリスト者の重要な聖務
イエズスは、弟子たちに向かい仰せられました
「あなたたちは地の塩、世の光である」
キリスト者は、塩となり、光とならなければなりません
ただし、それは自分のためにではなく
他者に味わいをもたらす塩、他者を照らす光とならなければなりません
塩がなくなってしまわないために
また、ランプの光をともす油が底をついてしまわないために
キリスト者として、何をしなければならないでしょうか?
キリスト者が、光を生じさせるバッテリーとなるもの
それは、祈りです
多くの事柄をこなすことができても
多くの愛徳の働きをなすことができても
教会のために、カトリック大学、学校、病院のために
多くの偉大なことを成し遂げることができても
たとえ教会の功労者としてのモニュメントと共に褒賞されたとしても
もし、祈りがなおざりにされていたなら
それらの働きは、暗闇や薄暗いあかりでしかありません
祈りは、キリスト者としての生活を光り輝かせるものです
祈りは、してもしなくてもよい、という類いのものではなく
祈りは、キリスト者の重要な聖務です
父なる神への礼拝の祈り
至聖なる三位一体への賛美の祈り
感謝の祈り
神への嘆願の祈り
祈りは、単に口先ではなく
心から溢れ出るものでなければなりません
地の塩という点につき、キリスト者がそのように呼ばれうるのは
他者に塩気をもたらす際に、まさに地の塩となります
福音のメッセージと共に
他者の生活に、味わいをもたらすために
多くの事柄に、味わいをもたらすために
『自分自身を与えること』
これはキリスト者としての、あるべき態度です
塩は、用いられてこそ、有益であって
自分だけにおしとどめておくものではありません
それは、他者に与えるべきものです
これは興味深いことですが
塩についても、光についても
他者のためであって、自分のためではない、ということです
塩は、それ自身に味わいを与えません
光も、それ自身に照らしを与えません
もちろん、私たち自身を惜しみなく与え続けてしまえば
塩や光が尽きてしまうのではないだろうか、と心配になるでしょう
しかし、そこに神の力が注ぎ込まれるのです
キリスト者としての立場は
洗礼によって神から私たちに与えられた塩としての立場だからです
それは、決して尽きることのないギフトです
明るく輝く光を
自分たちだけにとどめようとする誘惑を退けてください
それは、『スピリチュアリティの鏡』であり
自分自身だけに、光を輝かせようとする『悪いうぬぼれ』です
他者を照らすことで、光であり続けてください
他者に味わいをもたらすことで、塩であり続けてください
あなたたちの光を、自分を与えることによって、人々の前で輝かせてください
そのようにするならば、彼らは、あなたたちの善良な働きを見て
天におられる、あなたたちの父に栄光を帰するようになるでしょう
無関心の文化を克服し、出会いの文化を築き上げる
イエズスはナインという町の門のところで
独り息子をなくしたやもめを見て
同情につき動かされ、「もう、泣かなくてよい」と仰せられて
棺に近づいて、手を触れて
死んでいた独り息子を生き返らせました
人々はしばしば、お互いに、彼ら自身、自分のことばかり考えていて
他者を見ては見ても、よく見ることもなく
聞き流すことはしても、耳を傾けることもありません
出会いとは、そんなものではありません
ナインでの出来事は、私たちに、出会いとは何かを問いかけています
神人と、ある婦人との出会い
生きておられる神の独り子と、死んでしまったある独り息子との出会い
そこに喜びの声が沸き上がりました
イエズスと、イエズスに従う人々と
町の門から出ようとする婦人に伴って泣いている人々との出会い
門を出ていく人々と、門から入る人々との出会い
羊たちの重なり
これは、お互いが影響を与え合う私たちの歩みにおける
私たちの出会いを反映している出来事です
イエズスは、同情につき動かされました
キリストが感じられた同情は
私たちがストリートで可哀想な誰かを目にした際に
すれ違いざまに「なんて悲惨なんだろう」と言うことと同じではありません
イエズスは、通り過ぎようとはなさいません
むしろ、同情につき動かされました
主は、真の出会いのために
その婦人に近づいていって、奇跡を起こされました
これこそ福音的な出会いです
この福音的な出会いにおいて
私たちは、イエズスの優しさを見るだけでなく
出会いの実りの豊かさを見ています
出会いの実りの豊かさは
悲しむ人々に喜びを取り戻させ
神をほめたたえさせるに至ります
ところが、私たちは
無関心の文化に慣れっこになっています
私たちは、神の子としての彼の尊厳、彼女の尊厳
生きている人格としての尊厳を
回復させるための出会いの文化を築き上げるよう努力し
実り豊かな出会いの文化をつくり上げる恩寵を求めるべきです
私たちは、この世界における災害を目の当たりにしても
私たちは、対岸の火事のように思い
無関心に慣れっこになっています
「なんて悲惨なんだろう、可哀想な人々、どんな感じで苦しんでいるんだろう」
そして、何事もなかったかのように普段の生活を続けます
出会いにおいて
私たちがよく見ようとしないなら
ただ軽く眺めるだけでは十分ではありません
そうではなく、よくよく見なければなりません
私たちが立ち止まらないなら
私たちがよく見ようとせず、触れようとせず、話しかけようしないなら
私たちが出会いの機会を逸することになり
出会いの文化の構築の助けとなることができません
私たちの家庭において
夕食のテーブルでの食事中に
TVを見ている人々もあれば
スマホの返信に夢中になっている人々もあります
各々が、真の出会いに無関心になっています
社会の心である家族でさえ
そこに真の出会いがないのです
イエズスがなさったように
出会いの文化のための努力を惜しまないようにしましょう
パッと見るだけでなく、よく見てください
ただ聞き流すだけでなく、よく耳を傾けてください
ただ会って、過ぎ行くだけでなく、立ちどまってください
単に「なんて悲惨なんだろう、可哀想な人々」と言うだけでなく
私たち自身が、同情につき動かされるがままにしてください
そして、近くに引き寄せ、触れて
その出会いのひとときに
親身になって、心のこもった言葉を語りかけてください
「もう、泣かないで」
そのようにして、人生の一滴の愛をもたらすようにしてください
コルカタの聖女テレジア
祈り、そして、与えなさい
なによりも、まず祈りなさい
祈ることは、愛することと同じだからです
注がれる神の愛に、心を開いてください
神は、あなたたちを優しく愛してくださいます
神からいただいたものは
錠をかけて、しまいこんでおくものではなく
人々と分かち合うためのものです
自分のうちに貯めこめば貯めこむほど
他者に与える機会を逸してしまいます
私たちは、与えることを学ばなければなりません
貧しい人々の惨めさ、物質的な貧しさだけでなく
その精神的な傷口にも、手当てをすることが必要です
私たちが、彼らに寄り添い
その悲しみを分かち合う時
私たちは、彼らの人生に神をもたらし
彼らもまた、神に近づいて、癒されるのです
イエズスは、私たちと出会いに来られます
私たちのほうからも、進んでイエズスをお迎えいたしましょう
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教皇聖下の声✿
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(。◠‿◠。)♡【✾こんばんは✾】♡(。◠‿◠。)
オールPt
2016/9/15(木) 午前 0:23
素敵な、見ることが出来ない、写真を、
いつも、有難うございます^^
2016/9/15(木) 午前 10:56 [ ライオンKIDS ]
通せんぼさん、(。◠‿◠。)♡【✾こんにちは✾】♡(。◠‿◠。)
オールPtありがとうございます
2016/9/15(木) 午後 0:19
内緒さん、村ぽちとお知らせありがとうございます
了解でございます〜
2016/9/15(木) 午後 0:19
ライオンKIDSさん、ありがとうございます
視覚的な癒しもイイかな〜なんて感じで
記事とは無関係に載せとります〜
2016/9/15(木) 午後 0:19
良い言葉をありがとうございます。ナイス!
2016/9/17(土) 午後 9:21 [ 笑み ]
内緒さん、ありがとうございます
今回の司祭による弛緩的見解にはほんとに驚きでしたね
まして「教会の法律で・・・」なんて言われれば
何の知識もない場合、それを真に受ける人もいたかもしれません
僕自身、そんなことは教会法のどこにも書いてないし
ありえないと思っていましたから
内緒さんがセカンドオピニオン的に別の司祭の見解を聞いたのは
とても賢明だったと思いますし
前者とは真逆だっただけになおさら驚きでしたでしょうね
2016/9/18(日) 午前 1:22
後者の前半の見解は、僕が説明した内容の特定のケースと同様に
おそらく聖座の公文書から導き出したものでしょう
歴代の教皇聖下の公文書に同様の内容が記載されています
後者の後半の見解については、実際のところ
本当にそれでいいのか?という部分が含まれていました
その部分に関しては、公文書にも見出されないものです
ただ、後者の後半部分については
個別的ケースなので、深入りしないほうがいいでしょう
神様の教育法上
救いに至らせるために、Aコース、Bコース、Cコース、などなど
人によってケースバイケースの歩みの導きがあり
その時点での、その人の歩みが、その人の全てではない、ということは確かです
Aコースの歩みの人からすれば
CコースやGコースの人の歩みを見て、不思議に思うこともあるでしょうけれど
神様は、どのような歩みの人も、個別に大切にしておられます
最終的に救いに至ることが、神様のお望みです
2016/9/18(日) 午前 1:22
いずれにせよ、同じ地区の2人の司祭が真逆のことを信徒に説明すると
信徒側としては混乱と驚きでしかありませんね
もし、前者の思い込み的な独自の弛緩的見解だけ聞いていたら
うっかりミスリードにのってしまうようなケースになっていたでしょう
一見、熱心な司祭でさえ
その考えにおいて誤りや偏見がしばしば見出されますので
信徒側としては、慎重さや注意深さが必要になりますね
2016/9/18(日) 午前 1:23
笑みさん、こちらこそナイスなコメありがとうございます
2016/9/18(日) 午前 1:23